血鏡
7.1 傑作機
リリウム。
そう、そんな名前だった。思い出した。あの肢機、押し入れ倉庫の奥に眠っている肢機の名前。十二歳の時、私が一度だけ私的に使った肢機の名前。
九木崎の投影器研究は樺太電信の出資を受けるようになった当初から一部の界隈でかなり盛んな非難を受けていた。大手メディアこそ糾弾を避けていたが、人体実験のために小児保護をやっているのではないか、と。中には実力に訴える団体もあった。
私の恨みを買ったのもその一派だ。フィリスという団体名で、基本的にはカルト指定を受けた長浜教という新興宗教の生き残りだったが、人身売買を生業とする暴力団とも絡んでいた。彼らは九木崎による脳内電極と窩の埋め込み手術が人間の魂に深刻な汚染を引き起こすと謳っていた。彼らにとって私は悪魔憑きのようなものだった。九木崎の子供を「救出」――要は拉致――して「浄化」を行い、「教育」によって子供本来の可能性を回復する、というのが連中の理念だった。
連中は私も標的にした。私は十二歳だった。私は樺電の情報部に助け出されたが、復讐のためにリリウムを使い、その咎で深く潜っている最中に投影器の接続をブチ切りされたのだ。私の復讐はメディアに大垣事件と称され、今でも一部の人々の間ではその呼び方で通っている。
それが私の唯一のフラクタルの経験だった。
次の日、リリウムのコンピュータがどうなっているのか調査した記録があるだろうと思って私は自分のカーベラの中からタリスのデータベースにアクセスして探し回った。事件に関する資料は膨大だった。事後処理に関して、特に樺電の情報部が絡む資料は高度に暗号化されていた。しかしそれにしても私の目当ての情報は見当たらなかった。リリウムの検査をした、という情報も出てこない。もしかしたら検査しなかったのかもしれない。だとしたらあのリリウムは事件のあとすぐにまるで忌み物を封印するように倉庫へ投げ込まれてしまったのだろう。
「タリス」と私は呼んだ。
「はい?」
タリスは私の向かいの椅子をどかして机の縁にに片方の尻を乗せ、半身を向けて私の様子を眺めていた。私から見て尻の手前に左手があり、腕を突っ張っているせいで肘は少しばかり逆に曲がっている。机の縁に沿ってスカート部分に包まれた左の太腿があり、膝はやや落ちかかりながら半分ほど天板の上に見えている。
「ものすごく久しぶりに電源を入れた機械が最初の画面で日時設定を要求してくることがあるけどさ」私は訊いた。
「どうもそのようですね」
「機械はそういう状態に陥っている間の時間の経過を認識しないのかな。つまり、音も光も何も感じられないし、こちらから外へ向かって何の行動を起こすこともできない、そういった闇の中に閉じ込められている感覚を」
「どうでしょう。私はそういう状態に陥ったことはありませんから。ですが時計が機能しなくなるくらいですから、それ以外の情報を受け取るような余裕もないでしょうね」
「つまり、時間が飛ぶわけだ。時の流れがすっぽり抜け落ちて、憶えている最後の時刻から、一年か十年か、急に未来へ来たように」
「でしょうね」
「なるほど」
「でも時計が止まったからといって全ての機能が停止するのかどうか、それは機器の構造次第ですね。電磁誘導のような微弱な電気の鼓動の中で、音も光もない闇の中に閉じ込められて、憶えていることをただ自分の中で繰り返すしか時間の潰しようがない機械もいるのかもしれません」
タリスはそこで机の縁に寄りかかるのをやめ、椅子を引いて座った。やはり体の左半分をこちらに向けている。
「実際、リリウムがどうなっているのか、それは私にもわかりません。あの倉庫はネットワークから外れていますから。そろそろ通信ケーブルを敷く潮時かもしれませんね」
私はリリウムが写っている写真をいくつか呼び出して眺めた。綺麗、という表現が比較的似合う機械だ。こういった形容は兵器にはまず使わない。緻密に設計された機械であることに違いはないが、兵器の持つ、目的に特化して洗練されたデザインとは異なる。あくまで人体のスケールアップを根幹にしている。前後長と横幅が同じくらいか前後に少し長いくらいの肢闘に比べると、前後が短く、つまり体が薄く、分解せずに輸送することもほとんど考慮していない。もちろん戦場に出て被弾することもないから重要区画にも装甲はないし、外板も全身カーボンとプラスチックだ。割れた時の部分的な補修は合金よりずっと手間がかかるが、その分軽い。四肢は人体にかなり近いプロポーションで、胴と首は長く、頭部は小さく、背の高い女性ファッションモデルみたいなシルエットをしている。頭に関しては装飾的と言ってもいい。全体的に小鳥が飛び立とうと翼を広げかけたような、どことなくロールスロイスのマスコットを思わせる形だった。実際並べてみたらあんまり似ていないだろうけどさ。
そして肉体と同じ感覚で直感的に動かすことを意図しているから、機体のフレームはヒトの骨格を太くしてそのまま表に出したような感じで、その間を関節が繋いでいる。それで肉体と同じような動きができる。制御システムにもちょうど私の意見が反映され始めた頃で、神経信号を解析するためのソフトウェアに頼るのをやめて制御系の処理装置をまっさらな状態で投影器に接続している。いわば操縦者自体がソフトウェアになる。配線も人の神経構造に近づける方向で組んであり、全身の関節モータにかかっている負荷を感覚系にフィードバックする機能も持っていた。それだって改めて検知器を設けるわけではなくて、モーターの配線を投影器に通して戻ってくる電流の強弱を測っているだけ。それを負荷と認識するのはあくまでソーカーの頭だった。
実際、初めて操縦した時に相当感心したことを憶えている。コクピットはショベルカーのキャビンみたいに側面の小さなドアから出入りするようになっていた。硬いシートにハーネスと電気椅子のような手足と頭を固定するベルトがついていた。正面、膝くらいの距離にノートパソコンをそのまま埋め込んだだけの制御用コンソールがあった。そのメニューから投影器を作動させて潜るのだ。その辺りは九木崎の機体としては至って普通の造りだった。しかし潜ってみると動かす前から入ってくる感覚だけで違いが分かった。
その時の感動はよく憶えている。この機械も私の身体の一部なのだ、という感覚をリリウムは初めて与えてくれた。それ以前の機体はどちらかといえばボタンのたくさんついた複雑な機械を指先だけで操作している感じに近かった。劇的に操縦の感触が良くなったのは決して機体の構造が人の肉体に近づいたからではない。コンピュータの干渉が圧倒的に少なくなったからだ。そして視覚に頼らずとも常にそこに機体の手足が存在している感覚が得られるからだった。
今まで結構な種類の肢機に乗ってきたけど、全部をこんなふうに詳しく憶えているわけじゃない。リリウムはもともと強烈な印象を持った機体だったし、また結果的に記憶せざるを得ない存在になってしまったというだけのことだった。それなのに私は檜佐の一件があるまでリリウムの名前すら思い出さなかった。きっとあのあと事件や母のことを意識的に頭の中から排除しようとして一緒に忘れてしまったのだろう。記憶の隅に追いやって、金庫の中に詰め込んで、深い海に沈めてしまったのだ。
でも今それは私の頭の真ん中に燦然と鎮座していた。
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