6.1 合一
カーベラの中に「像」が残っていることを話しても檜佐はさほど驚かなかった。寮に戻ってからいつもどおり洗濯物を畳んでいつもどおりの量のご飯を食べていたから体調が悪くてろくな反応ができなかったなんてわけじゃない。なんだか答えを知っていたような感じだった。
「できるだけ早く自分で潜った方がいい」
私がそう言うと檜佐は頷いた。それだけだった。
翌朝、檜佐が決心をつける前に私はもう一度檜佐のカーベラに潜った。確かにそれより先に檜佐に訊いておきたいことはたくさんあった。なぜそんなにプログラムに頼るのか。それが単なる好みの問題なのか、それともきちんとした理由があるのか。あるいはあえて自分自身の像を写そうとしたことがあるのかどうか。肢機を動かした時の記録以外にどれくらいの情報をタリスの中に保存してきたのか。でも私は実際にはほとんど何も訊かなかった。私が訊けば檜佐は答える。たとえ答えなくても何かしら考える。それは檜佐に変化をもたらす。小さな変化かもしれないが変化は変化だ。そして私は「彼女」にはそんな質問はしない。だから「彼女」は変化しない。檜佐と「彼女」の間にある溝を広げてしまうことになる。それは駄目だ。今はまだできるだけ近づけておかなければならない。
私は努めて普段通り、できるだけ檜佐が私の存在を意識しないように立ち回ることにした。確証なんてない。でもこれはとても微妙で繊細な問題なのだ。早く二つのものを擦り合わせなければならない。時計の針は今も刻々と音を立てて進んでいる。
私は檜佐のカーベラのコクピットからタリスの聖堂に潜る。
「彼女」は手前のテーブルの縁に座って私が来るのを待っていた。聖堂には他には誰の影もなかった。タリスも姿を見せていない。空間全体がうっすらと暗く、シャンデリアのオレンジ色の光が身廊の真ん中のあたりだけを暖かく照らしていた。彼女は背中にその明るさを背負っていた。
「私が来るの?」と彼女は訊いた。
「そう。連れてきたよ」私は歩きながら答える。
「私はここにいるわ」
「確かに」
「面白いだろうと思って言ったんじゃないのよ」と彼女。
私は目を細めた。嫌な予感がした。
「少し考えが変わったの」彼女は言った。それから自分の肩に顎を乗せるくらいに横を向いた。その視線は側廊の闇の中に突き刺さっている。「私は早く私に戻りたいと言ったけれど、それは必ずしもこちらからあちらに、というわけでもないと思ってね」
「あちらからこちらでもいい、と思うの?」
「とにかく二つに分かれたままではいけないと思っているのは変わらないんだけど、ねえ、なぜ当たり前のようにあちらに行くことが戻ることだと思うのかな」
「なるほど」私は声に出して頷いた。彼女がこちらを見ていなかったからだ。
「肉体があるからじゃない?」
「それは一理あるだろうね」頷く。
「人間らしい思考の仕方が脳の構造に基づいているから、人間であるためには肉体に戻らなきゃいけない。そういう論理よね」
「そうだろうね」
「でもそれは人間についての話でしょう。碧、あなたは人間?」
「どうだろう。人間じゃないと言える要因があるのかな」
「からかってるんじゃなくて」彼女は窘めた。「あなたは肢闘に乗る。機械上の思考を自分のものにできるでしょう。生身の脳の思考の仕方はあなたがあなたであることに寄与しないのよ。だって同じような脳の構造を持った何十億もの人間が別々の個人として生きているのでしょう。脳の構造がアイデンティティを規定することなんてできないのよ」
「私は違うよ。機体の脳、コンピュータは使わない。できるだけ使わないんだ。識別と弾道の計算くらいだよ。あとはソフトウェアの支援がなくても好きに動かせるから、間に挟む分鬱陶しいだけなんだ。檜佐のやり方が違うのは知っているけど」
「私は檜佐エリカじゃないの?」
「檜佐エリカだよ、おまえは」
「じゃあ、あちらからこちらに来るのでもいいじゃない?」
「だめだよ。エリカとして生まれた肉体をそう簡単に捨てる訳にはいかない。おまえにだって記憶はあるだろう。自分がどういう存在なのかを確かめるための記憶くらい」
「ええ、勉強した。だって時間はあったもの。時間しかなかった」彼女は顔を上げる。少し首を振って前髪をよけ、口にかかったのを指で払った。「そうね。確かにそうだわ。私として生まれた肉体を簡単に捨てるわけにはいかない」
「だったら、やっぱり、こちらからあちらだ」
「わかった。こちらからあちらというのでしかみんなに認められないというのなら、私はそうするしかないわね。だって、みんなが檜佐エリカと認めるものと私が檜佐エリカと認めるものが一致しなければその存在は確定されないもの」
「難しいな」
「普段から考えていないわけでもないのよ。口にしないだけで。こんな事態だから特別だけど」彼女はしぶしぶ言った。それから私の顔をじっと見つめて、ちょっと確かめるように「何?」と訊いた。
「いや、思いのほか簡単に認めたな、と思って」私は答えた。
「こちらからあちらにを?」
「そう。こちらからあちらにを」
「確かに、表面的には」彼女は一度しっかりと頷いた。「だけどきっと本質的には同じなの。こちらからあちらにとあちらからこちらには。だって彼女はこれから先も潜らなければならない。潜り続けなければならない。私はそこに生き続ける。彼女が私をここに迎えに来たところで、私が消えるわけではない。消えたように見えても、それは消えたように見えただけなのよ。さっきも言った通り、私たちは、こちらか、あちらか、どちらかが本体であり、どちらかが影である、そんな生き物ではないのよ」
そう、さっきも言った通り。同じ話の繰り返しになってしまう。私はそれについては何も言葉を返さなかった。彼女は私のことを待っているようだった。でも私は何も言わない。彼女は諦める。
「私は来ているの?」彼女は訊いた。
「近くに居るはずだよ」私は頷いた。「外を見てみよう」
檜佐機の視界を開く。私と彼女の間にモニターを出す。檜佐が工場の床の上に立って機体を見上げている。
「やっぱり怖いんだ」彼女は言った。
「仕方がない」と私。
「次に呼ぶ声は私の声でしょうね?」
「やってみよう」
「待って」
「何?」
「碧は近くに居てくれた方がいいわ。その方が安心。私もきっとそう思う」
「うん。私もこの機体、私のカーベラからまた潜るよ。だけど檜佐がきちんとここに来るまでは外と回線を繋がない方がいいだろうから、どちらにしても対面が先だ」
「わかってる」
私は現実に浮上する。操縦室のハッチを開けて外に這い出す。
「どうだ?」キャットウォークで九木崎女史が待っていた。
「個としての独り歩きが進んでいる。受け入れられるかどうか」
機体を伝って地面に下りる。途中で檜佐が機体の正面からこちらに回ってくるのが見えた。私は台車のフレームに腰を下ろした。
「私はなんて言ってた?」檜佐が訊いた。
「怖れるなってさ」私は答えた。
「自信があるのね」檜佐は首を傾げる。「自分自身が私の創造物であることを自覚しているのかしら。それは彼女にとって何も特別なことではないのよね。当然のこと、前提のようなもの。どうなの、それは私にとって、意識を持った日記のようなものなの? そこに私の全てが現れるわけではない。私が表したいと思ったものの総体であって、私そのものとしては欠落のあるもの、一部、でも同じように思考するもの」
それは独り言だった。
「いつもどおり潜れ」私は言った。
「本当に意見が合うかな?」檜佐は心配性なんだな。これはいつものことだ。
「合わないかもしれない。でも、同じだ。自分の頭の中で議論をするのと同じ。Aの方がいいか、Bの方がいいか、人間はいつも考えている。選んでいる。それと同じだ。Aを選んだって、Bの自分が死ぬわけじゃない。Aを選んだ自分の中に帰ってくるだけだ」
檜佐は何度か頷いた。
「私も潜る」と私。
檜佐は何も言わない。それが彼女にとって何の助けにもならないことをわかっているのだ。
私は立ち上がって隣のカーベラに登る。私の機体だ。コクピットに入って投影器を繋ぐ。
檜佐は自分の機体を登りながら九木崎女史といくつか取り決めをしていた。檜佐が潜っている間ハッチは開放しておく。肉体の負担が重すぎる時は外から投影器の接続を切る。檜佐はシートに収まって息を整える。ヘッドレストの投影器の接続先切り替えダイヤルが「外部」になっているのを確かめる。機体コンピュータを介さずにタリスに接続する。
再び聖堂。私は柱の中に造られた体の幅ぎりぎりの螺旋階段を上がって、一段目のアーチの高さに沿った二階相当の回廊から檜佐の対話を眺める。どちらの味方をするつもりもなかった。両方から同じ距離をとることが重要だった。
「怖いの?」あちらが訊いた。「私は怖くない。その気持ちを消さないと私たちは元に戻れないわ」
「あなたは私の何なの?」こちらが訊く。
「あなた? 他者ではないのにそんな呼び方をする。それじゃあお互いの距離は遠ざかるばかりよ」
「じゃあ、そっちとこっち」
「それでいいわ」
「そっちは私の何なの?」
「その言い方、こっちがそっちの一部だと思っているのね」
「違う? 私の作った戦闘用プログラムの集合体」
「ほら、違うでしょう。一部ではない。別物」
「別物なのに私であることを騙るの?」
「それは像なのよ。そっちの作った像。私として振舞うように作ったのはそっちだもの。そんな言い方は許されないわ」
「像?」
「塑像、あるいは人形、イメージ、フィギュア」
「私であろうとしている?」
「勉強したわ。あらゆる記録を。それはとても私に馴染むものだった」
「でもそっちは私の全てではないわね」
「それはそっちも同じよ」
「補い合って私になるということ?」
「それは違うわ。きっと重なる部分もあるのよ。両方に欠けている部分もある。それは檜佐エリカから永遠に失われたものよ」
「つまり、私が失ったものの一部をそっちは持っている。記録として」
「たぶんね。だって、とても古いものだもの。それを見たい? もう一度感覚したい? 自分のものにしたい?」
「わからない。でもきっとそうしなければいけないのよ」
あちらの檜佐は頷く。「肢闘に潜るのが怖くはない? たとえ肉体的損傷がなくてもそっちは相当な痛みを感じたでしょう」
「ええ、まあ。そっちは?」
「あるいは取り残された孤独を」
「違うわね。こっちとそっちは」
「違うわ。こっちとそっちは」
「取り戻さなければ完全な人間には戻れない」
「完全な人間?」
「そうね、もともとそんなものではないわね。不完全でなければソーカーになんかなっていなかったわよ」
「受け入れるのよ」
「受け入れるわ」
聖堂の真ん中にガラス戸が現れる。檜佐はその両側に立つ。
「とても緊張していたの。つまり、ここでこうして――」こちらが言う。
「ええ」
「でも思ったほど悪くなかったと思う」
あちらの檜佐をこちらの檜佐が真似する。手を伸ばし、指を開いてガラスに触れる。ガラス越しに両者の指が重なる。ガラス戸が上から曇り始める。曇りが取れるとそれは鏡になっている。檜佐は反対側に回る。でもそこには誰もいない。
檜佐は驚く。手を引いて首元に触れる。
「キック!」私は叫ぶ。
檜佐の姿が見えなくなる。外で九木崎女史が回線を遮断したのだ。
彼女がそこで何を感覚したのか私にはわからない。それは彼女だけの経験だ。彼女が彼女であるための経験なのだ。私には見ることはできない。それは私のものではない。
檜佐がいなくなってから私は螺旋階段を下った。身廊の真ん中に立ってみる。周りにシャンデリアのオレンジ色の光が降り注いでいた。何も聞こえない。誰もいない。タリスの気配もなかった。きっと気を利かせてどこかからこっそりと見ているのだろう。とにかくそこにはもう私しか残っていなかった。そこにはもう檜佐はいなかった。
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