コミック1巻発売記念if 追い出されなかったリッチ3
「人類初……いや、『ここ百年では初』ぐらいかな」
リッチの眼前には分厚い雲に閉ざされた不毛の荒野が存在した。
そこには数多の石の建物がまばらに立ち並んでいたが、そのどれもが低く、遠くにある巨大な建物が遮られることなくよく見えた。
リッチは魔王領に踏み入っていた。
それが『ここ百年では人類初かな』というような快挙だったのである。
そしてリッチの視線の先にあるものこそ、この不毛の荒野唯一のランドマークである、魔王城。
建物の正式な名称については不明だが、天気のいい日などには前線からでも見えるその建物こそ、魔王の居城であると言われていた。
しかし長く長く続いた『お互いに前線で足を止めて殴り合う、領土侵攻を目的としない戦争』のせいで敵の領地に偵察が放たれることもなく、あれが本当に魔王の居城なのか、根拠とすべき情報はまったくない。
ただ、『人族の女王が人族で一番でっかい建物に住んでいるので、魔王もそうに違いない』というだけの話なのだった。
「まあ、前線の蛮族どもを見た限りだと、『むやみにでっかい建物に住んでるのが偉い』とかいう価値観ではありそうだよな……」
ちなみにリッチがよく相手にしているドラゴン族は、『前線の蛮族ども』の中だとかなりまともな知性を持っている方に分類される。
勇者はこれでも相手の知性に合わせてパーティーメンバーを振り分けており、一番アホそうな巨人族には一番アホなレイラを、アンデッドとドラゴンに差が見られないので空を飛ぶドラゴンには遠距離攻撃ができるリッチを、というような配置をしている。
なお、南の前線のアンデッド軍に所属するゴーストも飛べるが、連中は『飛びながら攻撃する』知性がないのでほぼ地上でしか戦いが発生しない。
対してドラゴン族に制空権をとられないで済むのは、下手に飛んでると全員がリッチ……死霊術師の視界に入って一瞬で殺されるからである。
別な世界線において死霊術師が抜けたあとの対ドラゴン戦線がひどいありさまになり、後方で指揮していた勇者まで巻き込まれて死ぬ羽目になったのは、制空権をとられたがゆえの必然であった。
なお、死霊術師がいなかった時代にどうやって空飛ぶ連中を相手にしていたかといえば、遠距離に有効な攻撃ができる魔術師と対空兵器……射角が上向きなバリスタや投石機などなので命中精度は高くない……があったからだ。
それらで弾幕を張りながらドラゴン族が飛び疲れて地上に降りてくるのを待つというのが、対ドラゴンへの基本戦術であった。
幸いにしてドラゴンは『ずっと飛び続ける』ということができないから有効だった戦術である(ちなみにゴーストは永遠に飛んでいられる)。
しかし『なんか北の戦線、死霊術師とかいうのがいるからもう魔術師も対空兵器も必要ないな?』と判断した軍上層部がそれら人材・兵器をすっかり引き上げてしまい、そこにあてていた費用は宝飾品やお酒に変わっている(魔術師は技能職なので編成費用が高いのだ)。
ようするに軍費横領だが、この時代の軍隊には自浄作用がない。
結果として死霊術師がいきなり抜けると古い対空兵器を引っ張り出したり、急いで魔術師に救援要請したりしないといけなくなり、リッチ抜き戦争ではドラゴン族に蹂躙されることが確定しているし、リッチ出奔翌日、勇者は朝起きたあと顔を覆って絶望していた。お疲れ様です。
リッチは自分が北の戦線においてどれだけ重要なポジションにいたのかを全然知らないし、興味もなかった。
『勇者が剣を向けた先にいるやつを殺す』というのがリッチの主な業務内容であり、これは『勇者が剣を向けると、空を舞うドラゴン族はたちどころに地上へと落ちた』という『勇者スゲェ』なエピソード作りに利用されている。
リッチもリッチで吟遊詩人が語る『勇者の剣の力』については聞いていたし、それが自分の力であって勇者の剣の不思議パワーでないことは把握していた。
しかし、ことさら自分の活躍を喧伝することもなかった。
自分がなにを言おうとも、すでに『見下されている』自分の言葉なんか世間に届くはずがないとあきらめていたし、勇者の功績になっているなら、勇者とたもとを分かつことがない自分に不都合ではなかろうと判断していたからだ。
根本にある人間不信によって人に期待をしない死霊術師は、人が『正しい話』より『耳触りのいい話』を好むのをよく知っていて、『自分の活躍』は『耳触りのいい話ではない』というのを理解していた。
だからなにを言おうが無視されるだろうし、下手にアピールすればなぜか怒られたりするのを経験から学習し、そういう面倒なことを避けるためにことさらのアピールをしなかったのだった。
「……さて、ここまで来たはいいが……俺はなにをしたいんだろう?」
魔王を倒せるぐらいの力があるだろうから、試してみたい。
そういう欲求はあったのだが、いざここまで来てみると、なんかもう帰りたい気持ちだった。興味本位で長い距離を歩いているうちに『別にそんなことする必要ある?』みたいな気持ちになってきたのだ。
たしかに生命の保護は死霊術師としてすべきことではあるのだが、それはあくまでも『研究を長く続けるため』であり、自分が死んでは意味がない。
リッチボディについては物理無効にして魔法にも強い耐性を持ち、食欲、睡眠欲をふくむあらゆる生理的欲求から解放され、いつまでも高い集中力で活動を可能にするものという情報を持っている。
ここ最近の活動でそれは間違いではなく、この体は本当に規格外に強いものだということも、検証している。
しかし、相手は魔王だ。
戦いでは『ありえないこと』が起こる。
それはロザリーやレイラを見ていれば嫌でも学習できることだ。あの細身で小柄な少女たちが、あの筋肉の太さと骨格のサイズでありえない力をふるうのを見ていたではないか。魔王が『そういうもの』ではないとなぜ言えるのか?
「どうしよう、リッチになってテンション上がってたな……やっちまったかもしれない」
『リッチ化』は死霊術師にとっても賭けであり、成功したのはマジで嬉しかったのだ。
なんなら命を失う覚悟さえもしていたのに、リッチになり生きている━━こいつは奇跡ですよ。
ありえない仮定だが、もしリッチ化直後に見も知らぬ魔族に声をかけられて『うちで研究しませんか』と言われたなら、普段『魔族は蛮族』と思っている自分であっても、その言葉を信じて、のこのこ魔族の領地まで行ってしまったかもしれない。
そのぐらいのはしゃぎっぷりだったのだ。
しかしこうして長い距離をとぼとぼ歩いて来たら、今さら帰るのも面倒くさく、しかも黙って軍を抜けてしまったこともあり、その釈明にかかる労力などを考えると、泣きそうなほど面倒くさい。
俺はなんて無駄な時間を……とそのへんに腰を下ろして地面に視線を落とす。
誰か迎えに来てくれないだろうか。あと軍への釈明もうまいことやってくれないだろうか。助けてほしい。
その時、リッチに影が差す。
顔を上げて自分の前に立つものを見上げると……
そこには、白髪褐色肌の、妙に派手派手しい身なりをした、魔族の少女がいた。
ほぼ人族のような見た目なのだが、頭の左右にでっかい角が生えているので、たぶん魔族なのだろう。
しかしドラゴンでもなくアンデッドでもなく、サイズや肌の質感から巨人でもない。
「リッチ?」
その魔族はおそるおそる、という感じでリッチへ呼びかける。
「リッチのことを知っているのか?」
「…………」
その時に少女が浮かべたのは本当に複雑な表情だった。
リッチに読み取れたのは『悲しそう』という色合いのみであったが、もっと人の表情に精通した者からは、悲しみの中にわずかに混じる喜びや、あるいはあきらめといった感情さえも読み取れただろう。
複雑な表情は一瞬で消えて、あとには楽しげな、そしてどこかからかうような笑みが残った。
「リッチってばこんなとこでなにしてんの? 散歩?」
「散歩……まあ結果的には散歩かもしれない。実はちょっとはしゃいでしまって、勢いでここまで歩いて来たんだけれど、歩いているうちに冷静になってしまって、今はものすごく後悔しているところなんだ」
「なに? どこから来たわけ?」
「あっち」
「人族の方じゃんね。なに、なんでここまで来たわけ? 研究したいなんかがこっちにしかなかったとか?」
「……研究? 俺が研究をしていることを知っているのか」
「リッチは研究者じゃん」
「……君はリッチを知っているのか?」
「ウケる。あたしほどリッチを知ってるの、この世に一人もいないじゃんね」
「……まさか、君も死霊術をやっているのか!?」
リッチを知っているということは、死霊術に対してある程度以上の知識があるということである。
少なくともこの時点の死霊術師が持っている知識からは、そうとしか推測できなかった。
すると少女は、また、複雑な表情になった。
やはりリッチからは『悲しい』程度しか読み取れない顔だった。
今度の表情は、さっきよりもずっと、からかうような笑顔にとって代わられるのが早かった。
「死霊術はやってないけど、マジ詳しいから。ほんとあたしより知ってるのいないし。ま、なんも覚えてないんだけどね」
「どういうことなんだ……」
「忘れるように言われてるから。でも、ま、リッチならあたしが忘れきれなかったことを教えてもいいかも? どうする? 帰る? あたしと来る?」
「君と行く」
「……あっそ」
少女はかすかに微笑んだ。
そして、
「んじゃ、行こっか。ここで座って話すの、疲れるじゃん」
「俺は疲れないんだけど、まあ、君の知識に興味があるからね。君の体調や願望には配慮しよう。……ところで君は、魔族なんだろう? なんていう種族なんだ?」
「…………」
ここで少女が沈黙するもので、リッチはようやく自分の発言のまずさに思いいたった。
ここは魔族の領地である。
魔族と人族は戦争をしている。
つまり、自分と、魔族の少女は敵だ。
今はリッチ化していてアンデッドにも見えるだろうし、そもそも相手は『リッチ』という存在に敵対的ではないようだから、話ができそうになっている。
けれど、自分が人族だとバレれば、相手は話す気をなくしてしまうかもしれない。
リッチは『なにか知識や見解を持っていることをにおわせた人が、その知識・見解を提供せずに黙り込んでしまう』ということにひどくストレスを覚える方であった。
言い淀むな、言え━━そう思わされることが人の社会ではあまりにも多かったのである。
目の前の少女とここで敵対してしまうと、『リッチについての情報をにおわされたまま、黙られてしまう』という事態におちいる。
それだけはなんとしても避けたい。
だから、リッチはこう補足することにした。
「一つ、君がしているであろう勘違いを訂正しておきたい」
「……?」
「俺は君の種族を知っている。なにせリッチは魔族がわの立ち位置だからね。しかし……出てこないんだ」
「は?」
「種族名は知っている。なんとなく出掛かっている。しかし……出て来ない。そう、リッチは━━固有名詞を思い出すのがうまくない」
「……」
「だから君の種族を問うたのは、知らないとかじゃなく……いや、本当に知らないとかじゃなくてね? 確認なんだ。なんとなく覚えているけど、うまいこと思い出せないのが気持ち悪いから、正解を聞きたい……そういう気持ちなんだよ」
「…………
「ああ、もちろんだとも。なにせリッチも魔族みたいなものだ。仲間だ。フレンドだ。だから君から色々聞きたいと思っている。そういう……アレなんだよ」
言葉を重ねれば重ねるほど嘘くさい。リッチは嘘が苦手なのだった。
しかし。
少女は、笑った。
「んじゃ、色々思い出していこっか。やっぱ、またあたしのとこに来てくれたんだね」
「ん? あ、ああ。そう、そういう……アレだよ」
どうやら『リッチ』と彼女が知り合いらしいことが察せられた。
リッチは内心で焦りながら知り合いぶることに決める。さもないと騙そうとしたことがバレて、情報提供をしてもらえなくなるかもしれないからだ。
少女は本当に、本当に嬉しそうな笑みを浮かべて、
「あたしは、ドッペルゲンガーだよ」
「そう! それだ! いやあ、思い出せてよかったなと思います」
「じゃ、行こ。あたしんち、綺麗にしてあっから。こういう日が来るかもって思って、部屋とかも用意してあるし」
ドッペルゲンガーがリッチの手をとる。
なにかまずい事態が進行している感じはあったが、リッチは今さらあとに退けない。
「えー、あー、そのー……これもちょっと記憶にあいまいなところがあるから聞くんだけど、君の家っていうのは」
「あそこ」
デコった爪が指す先を見る。
そこにあるのは━━
「……魔王城?」
「あたし、今、『魔王』じゃんね。ほら、前にリッチが魔王を殺したから、空いてるとこに入ったっていうか━━ま、ここらへんも覚えてない感じじゃんね。ゆっくり話すわ。お互いに時間はいくらでもあっから」
「そ、そうだね。リッチもそう思います」
少女━━種族ドッペルゲンガー、立場魔王の彼女がリッチの手を握る力は、強い。
力の強さ、ではなく。
そこにこもった、情念の強さ、とでもいうのか。
そんなものに骨だけの手をがっしりつかまれて、リッチは自分がなにか大変なルートに入ってしまったのを、なんとなく感じていた。
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