朝食を食べ終えると、洗面所で歯を磨いて顔を水で洗った。

 自室に戻り、学校指定のグレーのバッグを手に持つと、もう一度鏡を見て、自分の髪の毛を軽く撫でた。

 そのとき不意に、バタンという音が背後から聞こえてきた。美名はその音に驚いて、身体をビクッと痙攣させた。

 振り向くと、今日は学校に持っていかない生物Ⅱの教科書が、床の上に落ちている。

「あれ、なんで?」と美名は独り言を言った。

 この教科書は、さっきまでは学習机の上に置かれていたはずだ。それが、なぜ床に落ちたのか。部屋の窓は閉まっている。もちろん風などは吹き込んで来ていないし、部屋の中には自分以外には誰もいない。

 美名はさっき理佐から聞いた、夜中に聞こえるという不思議な音の話を思い出した。まさか、マンションの中に小動物が侵入しているのだろうか。小さい昆虫などならともかく、鉄筋コンクリートの建物の3階に、そんなことが有り得るのだろうか。

 気味の悪さを感じたが、いくら考えてもこの場で解答が出てこない。

 落ちている教科書を手に取って、机の上に戻した。

 机の上には、美名が小学校の入学式の日に近所の公園で撮影した、父母と美名が映った写真が、フォトフレームに入れて飾ってある。

 満開の桜の樹の下で、笑顔の父母と少しまぶしそうな顔をしている6歳のころの自分。この写真をデジカメで撮影したのは、当時小学4年生の宏司だった。公園のベンチの上に立ち、手元のディスプレイを不安げな表情でのぞいて、こちらにデジカメのレンズを向けてきた兄の姿を、美名は今も覚えている。

 その写真を眺めて、あのころの家族は平和だった、などと思うと悲しさが胸の底から込み上げ、ため息が出た。

 スマホの画面で時間を確認した。午前7時40分。

 悲しい思いを振り切るように、自室を出た。そしてリビングの向こうで洗い物をしている唯介に、

「いってきます」と声を掛けた。

「あ、ちょっと待って」

 唯介が蛇口をひねって水を止めると、エプロンのスソで手をぬぐってから、テーブルの上にあった小銭入れを手に取った。

「はい、バス代」

 小銭入れからほじくり返すように硬貨を取り出して、360円を美名に渡す。

「ありがとう」

「じゃ、四時に学校の前まで迎えに行くから。もし着いてなかったら、電話かけてね。いちおう、傘持っていくの忘れないように。それじゃ、いってらっしゃい」

「いってきます」再び言った。

 合成皮革の黒光りする靴を履いて、マンションから出た。

 エレベーターで1階に降りてマンションのエントランスから出ると、先ほどゴミを捨てた金網ボックスの横を通り過ぎ、最寄りの「山之井二丁目停留所」に向けて歩き始めた。


 3分も要せず、まだらに錆びてくたびれた時刻表を示してあるバス停に到着する。時刻表の上部には、「山之井二丁目停留所」と書いてあるが、漢字の「二」のプリントが一部剥げてしまっていて、一見すると「一丁目」と勘違いしてしまいそうだ。

 ここからバスに乗る人はほかにいないらしく、到着を待っているのは美名のほかには一人もいなかった。

 美名はいつもは学校に自転車で通学しているのだが、雨が降る日もしくは降りそうな日は、バスで通学することにしている。自転車通学の学生のほぼすべて、降雨の日は雨合羽を着て学校指定のバッグにビニルのゴミ袋をかぶせて行くのだが、美名が高校一年のころ、雨の日に誤って道路わきの用水路に落ちて大けがをして以来、唯介の勧めもあって雨の日限定でバス通学にすることにした。

 朝の通勤通学の時間帯でも、勤め人はマイカー通勤、学生は徒歩か自転車通学がほとんどなので、地方都市の路線バスはそれほど混雑しない。郊外を一度遠回りするようにしてから美名の通う学校前に到着するので、要する時間は自転車とほぼ同じくらいだった。雨に靴やバッグが濡れる心配をしながら自転車に乗るよりは、はるかに快適だった。

 しかし、路線バスは午後からは本数が減るため、午後3時32分に学校前に到着するのを逃せば、次に来るのは午後4時50分で、帰りが少し不便になる。だから雨の日の帰宅は、唯介が自動車で迎えに来るのが習慣になっていた。

 クリーム色のボディに二本の緑の線が車体を水平に一周して取り囲むよう塗装してあるバスがやってきた。プシュー、という炭酸飲料のふたを開けたときのような音を立てて、ドアが開いた。

 バスに乗り、「アカンベー」と舌を出しているような格好の発券ボックスから、整理券を抜き取った。バスの運賃支払いは非接触IC決済に対応しているが、雨の日以外にはまず乗車しない美名は、決済カードを所持していない。

「このバスは、○○港経由市役所前行きです。お乗りまちがえのないよう、ご注意ください」という録音された丁寧な日本語の女性のアナウンスが聞こえてくると、入口のドアがひじの関節を伸ばすときのように動いて閉じた。

 乗客は15人ほどしかいない。ほぼ全員、スーツを着た男女で、学校の制服を着ているのは美名ひとりだった。

 運転手のすぐ真後ろの席に座る。

 痙攣するエンジン音を立ててバスが動き始め、窓の外の景色が後方に向かって流れていく。

 道路の左右にはケヤキが街路樹として植えられていて、深い緑のなかを沈み込んでいくように錯覚してしまう。

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