第58話 発表

 私は自分の顔が好きではない。だから化粧や洗顔の時など必要最低限しか鏡を見ることはない。


 そんな私が、もう一時間以上鏡の前にいる。


 鏡の中の私は、いつもよりも目がぱっちりしているような気がした。いつもより血色も良い気がする。全ては胸元で揺れるダイヤモンドのマジック。そして、「お誕生日おめでとう」という言霊。


 これは非日常空間の余韻から来る眩さではないのだろうか。そう錯覚してしまう程にキラキラしている。これは、私が生きている間は恒久的だと思われる太陽というモノの光に当たった時、より一層強く輝くのだ。だからこれは、ちゃんと現実の出来事。現に、鏡にはちゃんと映ってるし、肉眼で確かめてもここにある。なのに、未だ信じられなくて。


 年齢なんて、二十歳を過ぎてからはほとんど数えなくなった。元々年齢が一桁の頃から実家では私の誕生日なんて習慣がなくなったし、この歳になると悪気なしにサバを読んでしまうこともある程無頓着になる。でも、いざ祝ってもらうとこんなに舞い上がってしまうなんて、我ながら現金なものだ。それも、半年遅れなのに。


 実は竹村さん、今年の夏に総務の新人を捕まえて私の個人情報を調べることに成功し、虎視眈々と決戦の日が来るのを待っていたらしい。だけど案の定その日も仕事に追われて遅くまで残業。せめてプレゼントだけでも渡そうとするも、さっさと家路を急ぐ私を呼び止める勇気が出ないまま、ストーカーよろしく電車に乗って家までついてきてしまったとのこと。運良く私の家に上がり込んだのは良いものの、またしても『あと一歩』が踏み出せなくて、私がお手洗いへ行った隙にベッドの下へ箱をスライドインさせたと話していた。これだけを聞くと馬鹿じゃないかと思うけれど、日頃の仕事ぶりを知る私は彼が可愛らしくて仕方なかった。


 竹村さんは、あの後私をお姫様抱っこしてベッドに寝かせると、すぐに会社へ向かってしまった。私は不調であることに自覚があったので、大変申し訳ないけれどイベントの撤去作業は不参加を決めた。


 それからどれぐらい眠ったのだろう。気づいたらカーテンの外は夕闇になっていて、スマホにはメールやら電話の着信やらが届いている。私はそれを一つずつ処理することにした。


 まず、雪乃ちゃんから。着信は三件。メールは一件。トークアプリのメッセージも一件。私はメールに返事することにした。


 無事に体調も緩和して退院したこと。竹村係長に家まで送ってもらって、今は自宅にいるということ。撤去作業に参加出来なかったお詫び。そして、竹村係長に「好き」と言われたこと。


 友達とのメールと仕事のメール。それらの違いがまだよく分からない私は、なんとか文面を打ち込んで送信。その苦労を露とも知らぬ雪乃ちゃんは、またすぐにメールを送って寄越した。


『自分で言わずに相手に言わせるなんて、のりちゃん先輩はなかなかのテクニシャンですね!ところで、小百合さんには会えましたか?』


 臥せっている時のうわ言など、運が良ければ忘れてくれていると思っていたのに。私は仲良しのお化けなのだと説明した返事を送ったけれど、やはり信じてはもらえなかった。


『燃え尽き症候群っていうやつかもしれませんね。しばらくしても見えるようであれば、有休とってお祓いに行ったらいいと思います!』


 もしかして、小百合はお祓いなどが行われる寺社仏閣といった聖域に近づくとあの世へ行ってしまうのだろうか。この度妖としての格が上がって出歩けるようになったようだが、十分に注意するよう早めに伝えておかねばなるまい。


 次は新田くん。着信一件、メール一件。そう言えば、入社した頃の新入社員歓迎会で連絡先を交換していたのだった。こちらも私はメールで返事をする。内容はほぼ雪乃ちゃん宛と同じだ。新田くんからも小百合に関する質問があったのだけれど、正直に答えてみると、その反応はかなり微妙なもの。


『のりちゃんって、そういうタイプの子だったんだね。前から、ちょっと変わってるとは思ってたんだけど。僕はちょっと無理かも』


 無理とはなんだ。失礼な! 私もよくよく考えると、新田くんみたいに他部署の上司へ楯突くタイプは苦手だと思う。だって、生意気すぎるもの。絶対に近い将来、痛い目に遭うよ。


 最後に竹村係長。じゃなくて、竹村さんモードの彼から。メールが一件だけ届いていた。


『気分はどう? 撤去作業は無事に終わったよ。これから総務の打ち上げに呼ばれてるから今夜は会いに行けない。代わりに小百合を向かわせるから、ちゃんと食事するように』


 目を閉じれば、何度でもあの瞬間を脳内で再生することができる。『好きだよ』という言葉はたった四文字だけれど、私の心を奪うには十分過ぎた。『好き』でも、『好きだ』でもなく、あの四文字だからこそ、私の曖昧で認めきれていなかった彼への気持ちは確信に変わり、いつか私も伝えられたらいいなと思えるのだ。


 その時、少し温もりのあるそよ風がふっと頬を掠めた。


「おや、結恵。随分と元気になったものだね。昨日までとは別人じゃないか」


 しなりのある色っぽい声。この部屋で聞くのは久々だ。


「小百合! おかえりなさい!」

「ただいま。おかえり」


 今日も小百合の足は透けていない。まるで人間になったかのよう。なのにその神秘的な存在感は損なわれていないどころか、ますます強調されている。人ならざるもの特有のものなのだろうか。圧倒的な『気』を感じる。


「小百合がここにいない間、ほんとにほんとにいろんなことがあったんだよ」

「そうだねぇ」

「私、がんばったんだよ」

「知っているよ」

「それにね、ちょっと大人になったんだよ」

「まだまだだと思うがね」

「ねぇ、小百合」

「何だい?」


 抱き合う私達。私よりも小百合の方が少し背が高い。私は身体を少し離して、芸術的にまでに整った小百合の顔をじっと見つめた。


「ありがとう。私、小百合が吹かせてくれた風のおかげで……」


 嗚咽がこみ上げてきて、とても言葉にならない。あの日、エアコンが壊れた日、私はこの世の終わりを迎えたかのような気分だった。今こうして小百合が存在してくれるだけでもありがたいのに、イベントも無事に終わり、竹村係長には特別な言葉をもらった。このままでは、小百合よりも早く成仏してしまわないか不安になる。


「確かに、私を風を送った。でも、ちゃんとそれを肌に感じて自分のモノにしたのは結恵だよ。結恵が、がんばったんだ。全部、結恵の成果なんだよ。もっと自信をもちなさいな。ね?」

「でも、でも私」

「もっと胸張りな。光一の隣に立つと決めたのだろう?」

「……そういうことになるのかな。私、まだよく分からなくて」


 小学生じゃあるまいし、「付き合ってください」「はい!」がセットになった台詞が無くともそういったものが成り立つことは理解できている。高価なプレゼントももらってしまい、告白までされてしまった。だけど、それで今の生活がどう変わるかと言えばどうなのだろう。相変わらず隣の席で仕事して、週末は小百合と会うついでに一緒にご飯を食べる生活が続く。それだけなのではないか。


「やれやれ。光一が不憫になってきたよ。いいかい、結恵? もっと光一を信じてあげなさいな」

「信じるって、以前から信頼はしてるけれど」

「ちょっと違うね」


 小百合から放たれる『気』が強くなった。


「良いことがあって楽しい時や人生が明らかに上向いている時は、放っておいても人は大勢寄ってくる。でも、そうじゃない時は知らぬ存ぜぬと冷たいもの。本当に信頼できる人っていうのはね、自分が辛い時、地獄の奥底に落ちた時にでも一緒にいてくれる人のことさ。結恵は、どうしてあの時光一の家に行ったんだい?その時の気持ちを決して忘れてはいけないよ。そして、いつか光一が危機と向き合う時には必ず結恵が支えてやるんだ」

「私、できるかな」

「できるよ、絶対に。ほら、私もいる」

「そうだね」


 私は、小百合の手を握った。












 そして月曜日。週末はスーパーとホームセンターに行った以外は徹底的にゴロゴロしたため、もう立ちくらみもしない。私は少し早めに出勤した。


「高山課長、おはようございます!」


 職場に着くと、課長も早めに出勤していたようだ。既に仕事を始めていた。


「あ、紀川さん! もう大丈夫? 無理せず休んでも良かったのに」

「いえいえ、事後処理もいろいろ残ってますし。撤去作業をサボってしっかり休ませていただきました。本当にご迷惑をおかけいたしました」


 私はしっかりと頭を下げた。


「そうそう、れいの冊子。いつもの印刷屋でも印刷が始まってるよ。社長が社員全員に配ると言い出してね。飯塚部長によると、役員の間でも好評だったそうだよ」

「あぁ……ほんと良かったです」


 あの冊子は通常のカタログのように直接的な販売ツールにはならない。梅蜜機械のブランディング構築には貢献できるけれど、あれを読んだからといってすぐに製品がバカ売れするようなものではない。どちらかと言えば、ジワジワと滲むように静かに広がる効果しか期待できないものなので、社内ではあまり支持が得られないのではないかと心配していたのだ。


 高山課長はさらに励ましてくれる。


「あれだけがんばって作ってたんだから、当然の結果だと思うよ」

「うふふ。これで給料も上がってくれたら言う事ないんですけどねぇ」

「それは何とも言えないなぁ」


 苦笑いで交わされてしまった。昇給の時期は過ぎてしまったから、確かに今アピールしたところで遅すぎたかもしれない。



 他の経営企画部メンバーは始業ギリギリになって出社してきた。イベント終了直後よりも、皆すっきりとした顔をしている。その中で、高山課長だけは表情が固い。なんとなくそれが気にかかるが、朝礼はいつも通りに始まった。取り仕切るのは高山課長。


「まず、イベントは本当にご苦労様でした。まだ全ての引き合いや成約数は集計されていないが、数億単位になっていることは間違いない。ドレスを使った型紙作成から始まる一連のプレゼンテーションもかなり大きな反響を呼んでいる。風神システム買収の件と並んで、業界新聞各紙の一面は全部うちの記事だ」


 円になって集まっている面々はしっかりと耳を傾け続ける。


「ドレスデザインを提供してくださったフルティアーズ様からも『素晴らしいイベントだった』と橋本部長経由で伝言を預かっているし、『最先端への道のり』も海外顧客には特に評価されているらしい」


 白岡さんが拍手を始めた。それに竹村係長と高山課長も続く。全員が手を叩いた。互いに互いを褒め称え、無事に終了した喜びを分かち合う。


「経営企画部って、本当にすごいチームですよね」

「そうですよね。このメンバーならば何でもできるんじゃないかって気がしてきます」


 坂田さんと雪乃ちゃんが声を上げる。私も同じことを考えていた。自分がイベントを成功させたこのチームのメンバーとしてここに立っているということ。そして社内デザイナーとして、これまでの集大成とも言うべき冊子を作りあげることができたこと。どれもが、私がこれまでの人生で感じたことのない強い『自信』を与えてくれている。経営企画部(ここ)でならば、私はもっと強くなれる。もっと良いモノを作っていける。もっと、役に立つ人になれる。


 わっと湧き上がる部内。その中で、高山課長は誰よりも早く平静を取り戻した。そこにだけ張り詰めた緊張感が漂っている。ただならぬ雰囲気に他の人も気づいたようで、すぐに静かになった。


 高山課長は、全員を見回す。そしてすっと息を吸いこんで、吐いた。


「実は今日、皆に発表しなくてはならないことがある」


 営業の方で、電話の着信音が鳴っている。誰も取らない。経営企画部の面々は、高山課長の動向に集中する。不安と期待が入り交じった複雑な空間。


 高山課長は、ゆっくりと口を開いた。






「我ら経営企画部は、今月末をもって解散する!」





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