第47話 思惑の斜め上
職場へ電話した私は魂をどこかへ忘れてきたかのような抜け殻になっていた。
「どうしたの?」
顔面蒼白とはこのことか。私は尋ねる白岡さんの方をまともに見ることができなかった。
「森さん、冊子の印刷データ、印刷屋さんに納品するのを忘れていたそうです」
「え?!」
私たちの会話は周囲の方々にも聞かれていたらしい。途端に広がるざわめきとひそひそ声。あの冊子の存在はまだ限られた人にしか知られていないけれど、明らかに何らかのトラブルがあったことが見て取れたのだろう。
「紀川!」
声がした方を振り向くと竹村係長がやってきた。すぐさま、白岡さんが私に変わって事情を説明してくれる。
「申し訳ございません! これは私のミスです」
森さんのミス。それは先輩である私のミス。私が最後の入稿まできっちりと見届けば良かったのだ。もしくは、入稿完了の報告がなかなか来ないことにすぐ気づくべきだった。
視界は夢の中にいるみたいにふわふわと揺れている。まずは印刷屋さんに電話しようか。ふと、あの顔と返事だけは良い担当営業マンの顔が浮かぶ。あれだけ『これは大切な冊子で、納期がタイトだ!』と根回ししたり、いつも以上に紙などの事前打ち合わせを丁寧にしてあったのに、向こうもすっかり忘れているのだろう。確か、発注書まで先に出していたのに、なぜこうなってしまったの?! なぁんて、他人のせいにしてはいけない。
これは、私の責任だ。
『最先端への道のり』。これは文字通り梅蜜機械が最先端の機械を製造してシェアを伸ばすまでに至る山あり谷ありのエピソードを含む社史であり、お客様に対して梅蜜機械が今後目指していく心意気と道筋を示すものでもある。そして、私が社内デザイナーの意地をかけて創り上げた渾身の作品(マスターピース)だ。
でも、イベント当日までは、当日と本日を含んでも丸三日。通常、今回の冊子の半分である二十ページものであっても、製版、印刷、製本に土日込みで十日程かかる。どんなに急いでも一週間よりも早く印刷が上がってきた試しはない。
だから、
もう、
間に合わない。
あんなに苦しんで考え出した『社内デザイナーだからこそできること』。社長にまでご協力いただいて大掛かりなインタビューを行い、白岡さんや高山課長はもちろん、橋本部長などの営業や、総務の飯塚部長も巻き込んで念入りに校正した。こんなの、前例が無い。副社長にも『完成が楽しみでならない』とのお言葉をいただいていたのに、結末がこんな形になるなんて。
私が、イベント準備に忙しい中、竹村係長なんかに現(うつつ)を抜かしていたから罰が当たったのだろうか。いや、私は本気でやっていた。終電を逃して、竹村係長の自宅を寝るだけの宿のように使っていた時期もあった。
でも冷静に考えると、この冊子はお土産の一部だから、これがなくてもイベント運営には支障が無いのだ。発表するはずだった新機能を搭載した裁断機が完成しなかったわけでもないし、パフォーマンスしてくれる羽衣雅の皆さんがドタキャンしたわけでもない。故にこれは、最悪の事態ではない。
だから、もう、私は……
「紀川、しっかりしろ!」
気づいたら、竹村係長が私の肩を激しく揺さぶってきた。
「大丈夫。後三日しかないけど、後三日もある!」
「それって、同じこと言ってません? 何の解決にもなりませんよ」
「馬鹿か、お前。こういう時に最後まで足掻けるかどうかで社内デザイナーの価値が決まるんだよ!」
何それ? そんなことで社内デザイナーの価値をはかられてたまるものですか! 私は中身で勝負しているのだ。そして、私はこの渾身の作品に日の目を見せてあげたかった。
……あ、そっか。
だからこそ、私はまだ諦めちゃいけない。
私は、社内デザイナーだから!
この晴れのイベントで、梅蜜機械の魅力を発信するのを諦めてはいけない。
これは、私の仕事だ。
「竹村係長、すみません。私、うっかり諦めようとしてました」
「だと思った。そんな血迷ったことしても、俺は諦めないからな!」
こんな時に俺?
「まずは、社に戻ろう。印刷データに誤りが無いか自分の目で再確認して。同時並行で印刷屋にも連絡を入れよう!」
「はい!」
社用車で職場へ急ぎ戻ると、大泣きした名残りのある森さんが私を出迎えた。私の顔を見るなり、腰を百二十度ぐらい折って謝りたおしてくる。
「紀川先輩、申し訳ございません」
「森さん、今は泣いてる場合じゃない。印刷を間に合わせることに全力を注ごう。お説教はイベントが終わってからね!」
私はそのまま森さんを振り切ると、竹村係長と共にたまたま席にいた営業の橋本部長と副社長の元へ向かって謝罪。お二人からは「最善を尽くせ」との命を受ける。総務の飯塚部長は掴まらなかったので、森さんが準備した印刷データに不備が無いか確認しようと自席に戻った。すると、慌ただしい足音が近づいてきて……
「あ、高山課長」
この血色を無くして狼狽した様子。この雰囲気、私は知ってる。まさか厄介事じゃないでしょうね?! ピリピリした空気の中、高山課長は気まずそうに口を開く。
「……大変だ」
はい。悪い予感が的中してしまいました! 全然嬉しくない!
「どうされたんですか? そんなに大事なんですか?」
正直言って、れいの冊子が未だ印刷できていないこと以上の事態なんて考えられない。ところが、高山課長は私の思惑の斜め上を行く言葉を吐き出した。
「当社、梅蜜機械は、あのCADソフトメーカー、風神システムを買収した!」
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