第26話 今日は良い日!

 マフラーを忘れて外出先してしまった私は、首をコートの中へすぼめるようにして会社に戻った。社内規則通り設定十九度の空調でもオフィス内は十分に温まっている。おそらく、ひしめく社員の活気とパソコンの熱が多少なりとも貢献しているのだろう。


「紀川さん、朗報だ!」


 コートを職場の隅にあるパイプハンガーへ片付けていると、高山課長が近づいてきた。基本的にこの人は、竹村係長に次いで厄介事を持ち込む人だ。思わず私は身構える。


「例の件、社長に報告したよ!」


 高山課長の表情や足取りを見るに、これはお叱りコースではなかったようだ。


「大役、お疲れ様でした。これで関係者全員、安心してリリースに向けて準備できます」


 高山課長によると、社長は全く驚かなかったばかりか、まだその開発に手をつけていなかったのかとおっしゃったそうだ。なるほど。今回の新機能のアイデアは元々社長案だったのね。でもいつもなら、「もっと優先すべきことがあるだろう!」と必ず何らかの難癖をつけるのがお得意なはずなのに。


「社長、すごく機嫌が良くてな。何かいいことがあったのだろうな」


 高山課長は私の耳に口を寄せると、こそこそと教えてくれた。私は少し離れたところにいる社長の机に視線を送る。うちの社長、梅蜜正(うめみつ ただし)氏は、自分の机をここ本社二階フロアに置いている。一応本社七階には社長室があるのだけれど、社員と近い場所で仕事がしたいとの意向からほとんど使われていないのだ。


 社長は機嫌が良い時は血圧計をよく使っている。測定完了のピピピという音がよく聞こえてくる時は機嫌が良い兆候だ。随分ご高齢なので、興奮すると頻繁に測定するようにしているようだ。


「でも、何で御機嫌が良いんでしょうね?」


 私は素朴な疑問を高山課長にぶつけてみた。高山課長ははっとした顔をしたけれど、何も声を発さないあたり思い当たる節はなさそうだ。私の経験上、これは悪い兆候でもある。社長の機嫌が良くなることが、下っ端社員にとってありがたい案件だとは限らないのだ。


「高山課長、なんだか私、不安です」

「不安は不安を呼ぶんだ。良いことだけを考えよう」


 高山課長はそう自分に言い聞かせるようにして頷いていた。分かりますよ。高山課長がまた矢面に立つことになるかもしれませんものね。お疲れ様でございます。


 席に戻ってしばらくメールチェックしていると、定時になった。外出前に竹村係長へ送信したメールの返事は届いていない。竹村係長はびっくりする程レスポンスが早い人なのに。


 と、首をかしげていたら、竹村係長が席に戻ってきた。


「おぉ、おかえり」

「先程戻りました。報告は先程電話で済ませましたし、もういいですよね?」

「うん、いいよ。良かったな。値引きしてもらった挙句、ちょっと早い夕飯にまでありつけて」


 私は、お弁当屋さんでの一幕について竹村係長に電話で報告していたけれど、御主人にお弁当をご馳走してもらったのは黙っていたのだ。なのに、なぜバレてるの?!


「さすが。やっぱり若い女の子効果もあるのかな。僕が行ってもこうはならなかっただろう。良かったな、紀川」

「ありがとうございます」


 最近、竹村係長が優しい気がする。社長ではないけれど、これも何かの前兆か。


「でも、各百五十円引きはデカイよな。……あ、そうだ。じゃ、あそこの店のポスター、食堂と社員通用口の脇に貼っておこうか。総務からの許可は下りると思う。うちの食堂はあまりメニューが多くないから外の弁当とってる人も多いし、少しは宣伝に貢献できるんじゃないかな」

「そうですね! 明日にでも御主人に伝えます!」


 私も、あのお弁当屋さんのために何かできないかと考えていたのだけれど、こんな発想はなかった。さすがだったのは、竹村係長だ。一瞬キュンとしてしまったけれど、目の前にいるのはオジサン。私は道を踏み外してはいけないとばかりに首を横にブンブン振った。


「……竹村係長。あの、もう一つ話があるんですが、今いいですか?」



 はい、そこにいる森さん。目を輝かせない!「ついに言っちゃうんですか?!私、応援してますから!」っていうテロップが目の前に流れている気がするけれど、スルーしよう。


「竹村係長から宿題いただいてましたよね?私、早速答えを見つけました」

「早かったな。実はこちらも、もらっていたメールの件で話がある」


 竹村係長の瞳は期待に満ち溢れている。その雰囲気に少したじろいでしまうけれど、これは自信をもってプレゼンしたい。


 私たちは経理部の隣にある打ち合わせコーナーに移動した。










「なるほど。つまりは、『社史』を作るっていうことでいいんだな?」


 一通り私の話を聞いた竹村係長は腕を組んだまま天井を見つめている。


「そんな堅苦しいものじゃないんです。ただ、うちの歴史を通して、梅蜜機械の強みや拘り、良さをプロモーションする冊子を作りたいんです。文は私が書きます。たぶん、高山課長も添削してくださると思いますし。制作自体はいつも通り私が。写真は浜寺主任の趣味がカメラなので、依頼したいと思ってます。だから外注は印刷ぐらいです」

「一つ大事なことが抜けてるぞ。インタビューは?」


 インタビュー。もちろん相手は社長。やはり、会社の歴史を草創期から完璧に語ることができるのは、この人しかいない。


「社長に直接……私が話を伺いたいのですが……」


 社長の席はとても近い。私の席からちょうど十歩ぐらいのところにある。毎朝挨拶もする。でもきっと、社長は私のことを知らない。多くいる女子社員という一纏めにされた群れの中にいる1匹の……蚊みたいなものだろう。それぐらいちっぽけで、羽をいくらばたつかせたところで雲の上のお方とお話することなんて魔法でも使わなきゃ実現しない。


「できないことはないと思う」

「竹村係長が同席してくださるんですか?」

「いや、僕じゃ駄目だ。もっと上の人だな」


 竹村係長でも駄目なのか。事態は困ったことになっているはずなのに、ちょっとほっとする。八歳も歳上のデキル仕事人のオジサンが、急に身近に感じられた。


「たぶんこれは、どうにかなるだろう。最悪、社長に尋ねたい質問事項をまとめた上で、副社長経由で誰か適当な人から確認してもらおう」

「ご無理言います。よろしくお願いします」

「いいよ。これは良い案だと思う」

「私、お弁当屋さんのお弁当がとても美味しいと思いました。でも、御主人のお話を聞いたら、もっと一品一品の味が愛おしく感じたんです。きっと、こういうストーリー性のあるバックグラウンドって人の心を動かせると思うんですね」

「産直市場で売られる野菜の袋に生産者の顔写真が載っていたり、テレビで開発秘話をドラマチックに披露された製品が売れたりするのと同じかもな」

「はい、それです。うちは安全で丈夫な機械を売っていますけれど、この三十年間にはいろんなエピソードがあって、そうして始めて今この場所に立っているんだと思うんです。もっと、製品の特長だけではなく、別の方向性からのプロモーションもできるはずなんです」

「梅蜜機械(うち)の良さ、伝わるものができるといいな。きっと完成したら、社員にも読んでもらうといいだろう。自社の歴史を知ることは自社への愛着に繋がる。自分の仕事に誇りをもてる。そして、自信に繋がる」


 竹村係長は、隣に座る私の手を握った。私は反射的に身体を固くする。嫌というよりも、驚きの方が勝る。


「紀川、なんでそんなに自信ないの? 仕事がんばることは良いことだし、上司としてはやる気ある部下は大歓迎だ。でも……ちょっと必死すぎることがある。今もそうだ」


 この人は、本当によく私のことを見ている。時々、私の行く先々に監視カメラでも備えてるんじゃないかと思うぐらい、私の行動を尽(ことごと)く当てたり、知っていたりする。


 そして、そっと私の心の中に滑り込んで、いつの間にかド真ん中で仁王立ちしていたりするのだ。


「竹村係長、今夜空いてます?」

「今夜って、もう夜だけど」


 そうですね。ふと壁の時計を見上げると、もう六時半。


「まさか、紀川から誘ってくれるとはなぁ。今日は良い日だな!」



 ほんとだ。私、なんて恥ずかしいことを。

 でも、これは会社で話すべきことじゃない。場所を変えなければ。私が竹村係長に聞いてもらいたいのは、私の過去の話である。


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