名前
「では、行くか」
不意に肩を抱かれ、私の身体は龍神様の胸におさまった。慌てた珠樹が何か言っていたが、私は自分の顔が熱くて何も聞こえない。
一瞬、本当に一瞬だけ、身体が浮いた気がした。大きく浮きあがる感覚があり、すぐに深く深く落ちた、気がした。実際には龍神様の腕にしっかりと抱きかかえられ、身体に痛みはない。だが、珠樹は違ったようでドサリという大きな音とともに鈍いうめき声が聞こえてきた。
「いってぇ……。雪花、大丈夫か?」
必死で龍神様の胸を押し、なんとか腕から逃れる。声のした方に顔を向けると、目に入ってきたのはキョロキョロと部屋中を見回している珠樹に見慣れた天井と壁。
「ここって……」
さっきまで、確かに龍神様の社にいた。それなのに、一瞬で村長の家。
やっぱり、神様なんだ。
「まずは、村長と話をしたい。呼んで来い」
龍神様の低く静かな声が部屋に響くが、呆気にとられている珠樹は動くことができない。
代わりに、部屋の外からは聞きなれた足音が聞こえてきた。そうだよね、珠樹の落ちた音、今のこの家には結構響いたと思うよ。こんなときに、家の中でこんな大きな物音がしたら……。
木刀を片手に勢いよく襖をあけた村長と婿様は、私達を見て一瞬で時を止めた。『穴のあくほど見つめる』の見本のように龍神様を見つめる。涼しい顔で笑みを浮かべている龍神様が、逆に不自然で……。
「龍庭の村長。我が妻の申し出を受け、春を呼びに来た。まずは、そなたと話がしたい」
龍神様の声に村長の時は動き出したが、必死で頷くばかりで声は出ていない。そうだよね、まさか、本当に龍神様の妻になって戻ってくるなんて、思っていなかったよね。
「其方には、話したい者もおるであろう。行け」
シッシッと音がしそうな勢いで、追い払われた私。絶対、私の事『妻』なんて思ってないでしょう、なんて心の声は置いておき龍神様の言う『話したい人』の所に駆けだした。
「姉様、奥様!」
土間まで走ると、無邪気に笑う美羽を隠すように怯えた表情の二人がたたずんでいた。その怯えは、十日、なんて約束は無いも同じなのだろうと思わせるには充分だった。
「奥様、姉様。大丈夫。龍神様は私の事を『我が妻』と呼んでくださいます。春を呼ぶ、とも約束して下さいました。幼子の供物など不要、と村の民に仰せくださいます」
「龍神、様?」
「はい。本当にいらっしゃったのです。ただ、今は春を呼ぶことができずにおります。でも、確かに雪花と約束して下さいました。春を呼ぶ、と。私は、美羽を守れました」
言葉足らずに、なんとかつなげた私の言葉。奥様にはうまく伝わらなかったようだが、小さい頃からずっと私のつたないお喋りに付き合ってくれていた姉様にはなんとか伝わった。
嬉しさからか、私を憐れんでなのか分からないが涙がとめどなく流れている。『雪花、雪花』と名を呼びながら私の肩を抱いてくれる。龍神様と同じように抱いているのに、全然違う。小さい頃から知っている、私の姉様。強かった姉様の腕が、かずかに震えている。
大丈夫だよ、姉様。美羽は私が守るから。絶対、守るからね。
「雪花、姉様、母様。龍神様が、呼んでいる」
いつの間に側に来たのか、珠樹が暗い顔で私達を呼びに来た。龍神様、村長との話しは終わったのかな。何を、話したのだろう。
村長の待つ部屋へと向かうが、一歩進むごとに空気が重い。春を呼ぶには、やはりまだ時間がかかると言うのだろうか。それでも、龍神様は、美羽を救ってくださると信じたい。
「珠樹、龍神様と村長の話し、聞いていた?」
「ああ、まぁ」
「春は、呼べそう?」
「ああ」
珠樹の言葉は、きっと真実だろう。でも、なにかおかしい。そうは思ったものの、姉様の安心した顔を見るとそれ以上の事は聞けずにおとなしく引き下がるしかなかった。
龍神様は縁側に座り、庭を眺めていた。葉をつけることもできず立ち枯れている木、雑草すら生えることが出来ずに、むき出しになっている土。龍神様の瞳は、怒っているようにも、悲しんでいるようにも見える。
「ああ、我が妻よ。戻ったか」
人を食ったような龍神様の言葉と伸びてくる腕に、思わず身体を固くした。花嫁、と言うからには慣れねばならないのだろうが、珠樹の前で龍神様から腕を伸ばされるのは、どうしても慣れることはできない。
「ああ、そなたが姉様か。これまで、妻が世話になった」
姉様に向かって優しげな笑みを浮かべた。龍神様って、やっぱり女性全般好きなんだなぁ、なんてどうでもいいことが頭に浮かぶ。角の生えた頭を凝視しながら、姉様は美羽をしっかりと腕に抱きなおし、震える唇を動かした。
「龍神、様?」
「そうだ。我は供物など、欲してはおらぬ。ましてや幼子など……」
呆れたように溜息を漏らした龍神様に、姉様が目を丸くしている。
「供物は、幼子はいらぬと?」
「いらぬ」
供物を欲するような神だと思われることが相当に不快ならしく、心底嫌そうにきっぱりと言い放った。なにも、そこまで……。龍神様って、やっぱり、ちょっと、大人気ないかも。
安心したように息を吐いた姉様が、一時ののち、真直ぐに顔を上げた。
「さすれば、雪花も、お返しいただけますか?」
姉様のすがるような瞳に龍神様がたじろいだ、ように見えたがそれは一瞬のことで。すぐにまた、人を食ったような笑みを浮かべる。
「それは、出来ぬ。雪花は供物ではない。妻だ」
『しかし』と続ける姉様に、開いた手を向け言葉をつなぐことを許さない。
「春を呼ぶのには、我が妻は必要だ。そなたは、春を呼ばずともよい、と?」
口元は笑っているのに、その瞳は逆らうことを許さない神の瞳だ。
外に人の気配が近づいてきた。村長に不満を抱く人の悪意を感じる。穏やかで朗らかで、頼りになる大人たちだったのに、変わってしまった。冷たい川を前に、入れと言われた時の記憶がよみがえる。怖い。怖い。恐怖が、ひどく胸を冷たくする。
「案ずることはない」
龍神様の穏やかな声が、私の側の空気を軽くした。
「ここで待っていてもかまわんが、どうする?」
「……行きます」
龍神様の妻となり、春を呼ぶと約束をした。違えず戻ったことを、皆に知らせなくては。龍神様は龍庭を見捨てたりはしない。春は必ず来ることを、知らせなくては。
心を強くもたなくては、負けてはいけない。自分に言い聞かせ龍神様に付いて庭に出ると、村の男達が美羽の桜の木を囲むように立っている。怒りをあらわにする声を、村長が必死になだめている。この村でずっと暮らしているけど、こんな光景見たことない。春が来ないことで、みんなそんなに変わってしまったの?
「ここまで、とはな……」
龍神様が、言葉と一緒に深く深く息を吐く。
ここまでひどいんです!だから、早く春を呼びたいんです。うらみがましく送った視線に気付くことなく、龍神様は穴のあくほど皆を見つめる……。
「いい加減にせんか」
村長の低い声が空に響き、一瞬、本当に一瞬だけ空気が澄んだ気がした。が、すぐ後にやってきたのは、それまでよりもずっと淀んだ空気。誰も何も言わないのに、空気が村長を拒絶する。
「我こそは、龍庭を守る竜神なり」
決して大きくはないが、龍神様の透き通った声が響く。さっきまでのよどんだ空気が、一瞬で澄んだものに変わった。
「我の力不足、心より詫びよう。だが、我は幼子など欲してはおらぬ。幼子とはいえ、龍庭の民。民を供物とするなど悪鬼の所業。其方らは、我を悪鬼と思うておるのか?」
静まり返る村の民。幼子はいらぬ、と言われたからには、供えるわけにはいかないよね。母親達は、皆涙ぐんでいる。うん、やっぱり我が子を龍神様にささげよう、なんて思うわけないよね。少し、安心した。
「アンタが、龍神様だって証拠は?春が来るって、証拠は?」
龍神様が、龍神様であることを疑っている。低い空、淀んだ空気。疑わしげな、憎々しげな瞳で見つめている男に龍神様が笑う。
「日暮れまでに、村中の桜を咲かせよう。それを、証としてはもらえぬか?」
人を食ったような笑い声が響く。まだ固く、色もついてない枝先。十日で春を呼ぶことも無理だと言っていたのに、日暮れまでに花を咲かすなんて出来るはずない。それでも、龍神様の顔には不安の色は微塵も見えなかった。
「龍神の名にかけて、誓おう。明日より、春がくる。この曇天の空は
龍神様の力強い言葉に、皆呆気に取られている。そうだよね、そんなこと信じられるわけがない。それでも、日暮れまでぐらいなら待とうと思ってくれたのか、殺気立った空気が少し柔らかいものに変わっていった。
皆が引きあげた後、龍神様は美羽の桜にふれ慈しむように言葉をかけている。
昨夜は十日以内に春を呼ぶことすら無理だと言いきっていた。あれが嘘だとは思えない。それなのに、日暮れまでに桜を咲かせる、明日からは春が来ると誓った。珠樹は、何も言わない。村長は龍神様に頭を下げ、背中を震わせていた。
「間男、縁側に茶を運んでくれぬか。もう少し、庭を見ていたい」
「……はい」
素直に返事をした珠樹に構うことなく、ゆったりと歩き出す。どうしていいのかわからない。ついていくことも出来ずに黙って立っていれば、村長に肩を押された。
「行け」
……はい。
さっきと同じように縁側でぼんやりと座っている龍神様。何をしているのだろう。これで、桜が咲くのだろうか。
「来たのか。座れ」
側に行けず、黙って立ち尽くしていた私に龍神様が笑って手招きをした。
「日暮れまでに、桜が咲くのですか?」
「妻が、夫を信じられぬと?」
クツクツと笑うその顔は、いたずらを仕掛けた子供のよう。神様相手なのに、ちょっと可愛いかも、なんて思ってしまった私は罰あたりだろうか。
「お茶、です。雪花の分も」
無言で並んでいる私達の間に、ちょっと不機嫌な珠樹がお茶を置く。ありがとう、と言おうと思った時には、もう、珠樹は背中を向けていた。なんだか、ずっと珠樹不機嫌だな。
「そなたは、我が妻であろう?なぜ、あの間男をそこまで気にかける?」
珠樹を目で追っている私をからかうように、頬を指で撫でる。ビクリと震えた肩に、龍神様が慈しむように大きな手を乗せる。妻って、本気で思っているの?
「珠樹が、機嫌が悪いと、気になるんです。小さい頃から一緒でしたから、気になります」
納得したのか、からかっただけなのか、龍神様は柔らかく笑ってまた庭を見つめる。会話が、続かない……。
「あの、私、
突然の私の名乗りに、龍神様は切れ長の目を丸くして、こちらに視線をむけた。龍神様は、『妻』とか『花嫁』とか、からかうように呼ぶ。『妻』と呼ばれるたびに、私は供物にされたのだと思い知らされる。名を呼ばれない私は、私ではない気がして悲しい。供物でもよい。龍庭に戻れなくてもよい。だけどせめて、私でいたい。
「雪降る夜に、この村に来ました。だから雪花。姉様がつけてくれたのです。『妻』ではなく『雪花』と呼んでいただけますか?」
「私が、其方の名を呼んでよいのか?」
龍神様ってなんだか、やっぱり神様だからかな。私の感覚とは、違うのかな。
「雪花と、お呼びください」
「わかった」
「私は、なんとお呼びすればいいでしょうか。龍神様、でかまいませんか?」
「……
朝陽、と言った?リュウジンサマ、と一文字もかぶってないけど、それが名前なのかな?
「朝陽様、ですか?」
「様、はいらぬ。朝陽だ。昔、そう呼んだ者がいた。其方も、朝陽と呼んでくれるか?」
頷く私に龍神様の口元が緩んだ気がしたのは、きっと気のせいではないと思う。龍神様を、朝陽なんて呼んだ人がいたんだなぁ。どんな人だったのだろう。
「雪花」
「はい」
声が、空気が重い。私の意志とは関係なく身体が固くなるのがわかる。
「日暮れまでには必ず春を呼ぶ。だが、黒龍の力で遠ざけられている春を無理に呼ぶには、私の神力を相当に使う事になる。そうなれば、いざ黒龍の宝珠と対峙した際、其方に傷を負わせるかもしれぬ」
「……はい」
春を呼べるぐらいの神力がある龍神様が、これまで取り戻せなかった黒龍の宝珠。他の龍の宝珠には手を出せないなんて言っていたけど、本当にそれだけなのだろうか。自分がこれからすることが、急に怖くなってきた。
「夫とは、妻を守るものと聞く。情けない夫となることを、詫びよう」
黙って頭をさげる朝陽に、声も出なかった。十日以内に春を呼んでほしいって言ったのは、私。朝陽は、私の我儘をかなえてくれたのに……。
朝陽は、本当に龍庭を大事にしている。民の心が荒んでいるのを嘆き、己の力不足を責め、一人で春の来ないこの村を悲しそうに見つめていたのだろう。
「それでも、我の力の限り、其方を守る。違えることは、しない」
まっすぐに見つめる緑の瞳に、私の背がスッと伸びる。
黒龍の宝珠は、必ず取り戻します。いや、言いすぎました、お手伝いします……。
モゴモゴと口の中で言葉を濁した私に、朝陽が笑った。
「雪花は、頼もしいな」
いや、それ昨日も聞きましたけど、本気で言っているのかな。私、頼もしくなんてないんですけどね。首をかしげる私に、朝陽が笑う。うん、まぁ、いいや。
「間男。桜を咲かせる。お前の父を呼べ」
「は、はい」
お茶をだしたらすぐに引っ込んで行ったはずの珠樹が、隣の部屋にいた。全部聞いていたのか。神様の会話を盗み聞きなんて、すごい奴。でも、珠樹にも会えなくなるんだよね。声がしたあたりに視線を投げると、朝陽が笑った。
「夫の前で、他の男をそんな目で見るものではない」
その声は、男女のヤキモチなんて色っぽいものではない。なんというか、子供をからかうような口調。朝陽は、きっと私のことを『妻』なんて本気では思っていないんだろう。
「龍神様。桜は、咲きますでしょうか」
村長と一緒に桜の側にいた婿様が、今にも泣き出しそうな顔で膝をついて朝陽に答えを求める。村人にやられた傷はまだ深く、痣は青から黒に変わっている。
「お前は、我が言葉に真を感じぬと?」
朝陽の冷たく言い放った一言は、まっすぐに婿様に刺さった。声も出ずに固まる婿様の代わりに、『申し訳ございません』と頭を地につける村長。朝陽は氷のような瞳でまっすぐに婿様を見ている。朝陽の身体から、神力というのがあふれている気がする。優しくて穏やかな顔を見せてくれていたから忘れていたけれど、龍神様なんだ。
怒れる神に、人がかなうはずなどない。
怖い。怖い。でも、私以上に婿様は怖いはず。
「あ、の。龍神様を信じられぬわけではございません。ただ、不安なのです。この村の民は皆、不安なのです。婿様も、姉様も、私も」
絞り出した声は震えている。婿様を庇わなくては、朝陽と婿様の間に行かなくてはと願うのに足は全く動かなかった。
「そう、脅えるな。すまなかった」
困ったように頬を撫でられ、こわばっていた体から少しだけ力が抜けた。途端に、周りの空気も軽くなったようで、瞬きすらできていなかった婿様が慌てて地に頭をつけて謝りだした。
「いや、もうよい」
先ほどとは打って変わって穏やかな声が婿様を包む。空気が、柔らかい。
「案ぜずとも、桜は咲く」
一瞬の後、朝陽の右手が龍の手に変わった。太く、大きく、鮮やかな緑の腕。長く伸びた爪は、まるで鎌のよう。皆が息を飲み見つめる中、龍の手は自らの角を握り勢いよく手折った。手折られた角は、龍の手によって美羽の桜の根下に埋められる。
「この桜、次の春が来るまで決して手折るな。どんなに枝が伸びても小枝一本折ることはならぬ。花びら一枚、葉一枚も人の手で落とすことは許さぬ」
背中を向けたまま小さく言葉を紡ぎ、その場に崩れ落ちた。
「龍神様!」
村長がすぐに駆け寄ったが、その顔は真っ白で、龍のものとなっていた右腕は人のそれに変わっていた。
自力ではとても動けない朝陽を珠樹が部屋に運び、姉様は白湯の用意、奥様は寝間の用意とバタバタと動き回る中、私は一人、身動きもできずにその場に立ち尽くしていた。
朝陽は自らの身体を痛め、神力を使い、無理に春を呼んだ。これでは、供物をささげた村の者と何も変わらない。私は、春を呼ぶために朝陽を供物としたのだ。
私は、どんなに無理なことを頼んでいたのか全くわかっていなかった。
目の前の桜の木が、グルグルと回って見える。気持ち、悪い。
「雪花?」
珠樹の声で、我に返った。どれだけ時間がたったのか、珠樹は落ち着きを取り戻しているようだ。
「龍神様が、呼んでいる」
呼んでいる。そうか、意識はあるんだ。よかった。
細く漏れた息に気付いた珠樹が、心配そうに私の顔を覗き込む。ああ、やめて。今は、珠樹に見られたくない。
「ありがとう。行くね」
「……ん」
一瞬、珠樹が私の腕に手を伸ばしたが、その手は私に届くことはなく固く握りしめられた。
「朝陽……。大丈夫、でしょうか?」
真っ白な顔で壁にもたれて座っていた朝陽が、力ない笑みを返してくれた。
「情けない姿を見せた。我もここまでとは、思わなかった……」
情けなくなんてない。情けない、なんて思うはずがない。ちゃんと伝えたいのに、声を出したら泣いてしまいそうで、黙って首を振る事しかできなかった。
「明日の朝には、身体は動く。陽が昇る頃にはここを発つ。今宵のうちに、支度をすませておけ」
「明日の朝、ですか?」
そんな、こんな状態なのに、明日の朝に発つなんて無茶だ。2,3日休んでからでないと、朝陽の身体が……。
「角がなくなったことで神力が減り、思うように身体を動かせなくなったのだ。時間をかけて治るものではない。少ない神力で身体を動かすことに慣れればよい。我が角に宿る神力でこのあたりの土に春を呼んだが、それは一時しのぎにすぎぬ。少しでも早く、黒龍の宝珠を手に入れて、本来の春を呼ばねば」
「身体が慣れるまで、待ってからでも」
「この状態では、私の身体は半年も持たぬ」
身体が、半年も持たない?それがわかっていたのに、あんなに迷いなく自ら手折ったの?
これまでずっと、龍庭の村を守ってくれていた龍神様。何も悪くないのに、春を奪ったなんて勝手に恨んでいた。本当は、きっとずっと守りたかったのだろう。
ごめんなさい、ごめんなさい。
ダメ、ここで泣いたらずるい。そう思うのに、涙を止めることができない。
「そう泣くな。本来の春を呼べれば、土に埋めた角は必要なくなる。角がもどれば私の身体も元に戻る。雪花が、黒龍の宝珠を手に入れるのを手伝ってくれるのならば、なにも問題ない」
困ったような顔をした朝陽が、私の頬に手を添えて笑ってくれる。
「角、戻せるのですか?」
あんなに見事に手折り、土に埋めたのに。また、朝陽の頭に戻るの?本当に?
「ああ。大丈夫だ」
力強く笑ってくれた。その顔にホッとした私は、やっぱりずるいのだろう。
「私はもう少し休ませてもらう。雪花は桜が咲くのを見届けてくれるか。私の角が呼んだ春だ。雪花に、見届けてほしい」
行っておいで、と背中を押される。体よく追い出されたような気もするが、側にいても何もできない。
素直に桜の木のそばに行くと、村長と珠樹が蕾を付けた桜を見つめていた。さっきまでは、枝の一部のような固い茶色の蕾だったのに、今は柔らかそうに膨らみ、桜の花びらが少し、見えている。
曇天だった空からは青く澄んだ色が見え、空気は柔らかく、暖かい風が吹いてる。
本当に、春を呼んでくれたんだ。
「日暮れまでには、咲きそうだね」
「ああ」
珠樹の声が固い。村長も、無言で桜の蕾を見つめている。その顔は、春を呼んだ龍神様への感謝の気持ちなんてものではなさそう。朝陽への畏怖とでもいうのだろうか。自分たちとは違う、龍神。強き者は必ずしも皆に慕われるわけではない。わかっている。
「村長。龍神様も私も、明日の朝にはここを出ます」
だから、そんな顔しないで。大好きな村長の、そんな顔見たくない。
「……そうか」
一言だけつぶやいて、家の中に入ってしまった。目の前が、滲んで揺れる。村長は、まっすぐにものを見る。本質を見ることができないのは愚かなことだと、教えてくれた。それなのに、村長は朝陽を見てくれていない。春を呼んだ。龍神でも、それは決して楽なことではない。
「お前も、行くのか?」
不安そうな珠樹の声が、私の視界を取り戻した。
「当たり前でしょう?黒龍様の宝珠を、取り戻さないと」
約束したとき、アンタもいたでしょう?と言えば、心配そうな顔が目の前に迫る。
「わかっているのか?龍、だぞ。春を呼んだ、季節すら操る人外の力を持つ龍。その龍でもこれまで取り戻せなかった宝珠だ。それを、お前が取り戻すなんて……」
珠樹の言葉を、乾いた音が遮る。私の手は、ヒリヒリと痛みを覚え、胸には珠樹の言葉が刺さり、言葉にならない感情があふれてくる。
「朝陽は、自分の身体を顧みずに春を呼んでくれた。村を、救ってくれた」
そう。龍神だから、簡単にできたわけではない。我が身を削り、痛みを伴う行為だったはず。それなのに、迷いなく救ってくれた。供物とされた私の願いを、聞いてくれた。これまで一緒に生きてきた村の民は、何一つ私の願いを聞いてくれなかったのに。
「悪かった」
聞き取るのも困難なほどの小さな声。私が顔を上げたときには、すでに珠樹の背中は家の中に向かっていた。
後なんか、追うものか。
涙なんて、流すものか。
声を上げることも、動くこともできず、私は桜のそばに立ち尽くした。
「桜は、咲きそう?」
姉様が、美羽を背負いながら桜を覗き込む。揺れる背中が心地よいのか、美羽はウツラウツラと船をこいでいる。
「うん。ほら、もうすぐ」
枝には、柔らかい桜の花びらをひとまとめにしたような蕾がたくさんついている。これなら、間違いなく日暮れまでには咲くだろう。数日のうちに、満開にもなるかもしれない。裸だった土には、わずかだが緑も見えている。今年も、龍庭はたくさんの作物に恵まれ、にぎやかな秋祭りを行えるだろう。幼子の供物は不要だ。嬉しいのに、珠樹と村長の顔が頭から離れず、私の口からはため息が漏れた。
「今夜ねぇ。龍神様に何をふるまったらいいのかわからないって、父上と母上が嘆いていたわ。ねぇ、龍神様、粗末な食事でもお許しくださるかしら?」
心底心配しているのだろうが、どこかフワフワとした悩みを口にする姉様は、私の大好きな姉様のまま。
「姉様は、龍神様が怖くはないの?」
船を漕ぐ美羽に手を伸ばしながら呟いた私の声に、姉様は何を言っているんだ?とでも言わんばかりの顔をして、その後すぐに得心したように笑いだした。
「ああ、旦那様が龍神様に叱られたらしいわねぇ。でも、失礼なことを言ったでしょう?美羽を助けてくれたのだから、怖くなんてない。雪花のことも、とても大切に思ってくれている素敵な婿様だと思うわ。でも、雪花は?龍神様が怖い?龍神様の妻は、嫌?」
怖い?私が、朝陽を?さっき、婿様に怒った時は確かに怖かった。
角を持つ、人外の者。初めて姿を見たときは、人ならざる姿に驚いた。でも、私を見つめるその瞳を怖いとは思わなかった。私を妻と呼び、笑うその姿は穏やかで……。
「怖くは、ないです」
「……そう」
姉様は笑って、美羽のお尻をポンポンとたたきながら背を揺らす。この光景をみるのが、何より好きだった。
「桜、咲いたね」
笑った姉様の指先には、柔らかな花びらがのびやかに広がっていた。
日暮れ前、村長は婿様を連れて集会場にむかった。帰ってきたときには少し穏やかな表情に変わり、手には誰からもらったのか、酒を持っていた。
「雪花。龍神様の食事は、部屋に運んだ方がいい?」
奥様が、重湯にも近い粥を作りながら聞いてきた。調子が悪そうだから、部屋の方がいいのかもしれないけど……。
「いいえ、皆と一緒に。私、呼んできます」
「朝陽?起きていますか?」
そっと襖をあけると、薄暗くなった部屋の中、壁に寄りかかって眠る白い顔が目に入った。布団が敷かれているのに、横になった気配はない。龍とは、こうして眠るのだろうか。
「私も、これからはこうして眠るのかな?」
思わず口からでた言葉に、眠っていたと思っていた朝陽が笑いだした。
「お前は、好きに眠ればよい」
クツクツと笑うその姿は、先ほどよりもずっと楽そうだった。
「そんなに笑わなくても。起きていたのなら、返事ぐらいしてください。食事ですよ、一緒に食べましょう」
一瞬、朝陽の顔が曇った。確かに『一緒に』という言葉に反応したのがわかる。今日私が感じた、疎外感。朝陽は、きっともっと感じていたのだろう。でも……。
「朝陽が春を呼んでくださったから、セリがあります。今年初めての、セリの粥です」
感謝の気持ちも、ちゃんと伝えたい。
「……では、馳走になるか」
少しけだるそうに私の肩につかまり立ち上がる。肩に触れた手は、まるで氷のようだった。
何もなくて、と申し訳なさそうにした奥様が、龍神様のためにお客様用の茶碗に粥を入れる。米の形も残っていないセリの粥。村を救ってくれた龍神様を迎えるには、粗末すぎる食事であることは承知しているが、今はこれで精一杯。
「秋になったら、雪花と一緒にまたいらしてください。そうしたら、たくさんたくさんご馳走しますから」
姉様の言葉に、朝陽が笑う。うん、朝陽って、女好きだ。すっごく、好きだ。その姿を見て、珠樹がさらに機嫌を悪くする。それをからかう様に、わざと視線を投げる朝陽。やっぱり、朝陽大人気ない……。
片付けも終わり、部屋に戻ると湯浴みを終えた朝陽が月を眺めていた。濡れた髪に月の光が落ち、一本残った角は月の光を反射して輝いている。
「見惚れたか?」
黙って見つめていたことに気付かれて、笑われる。いや、確かに見惚れていましたけど。
なんだか、朝陽って子供みたい、なんて言ったら怒るかな?
気まずさに視線をさまよわせると、並べられた布団が目に入った。そうか、私『妻』だった。固まった私に、朝陽が声を上げて笑う。
「今の私にそんな力はない。案ぜずともよいから、眠れ」
そう、ですよね。具合悪そうだし。そう思うと、急に眠気に襲われた。図々しいとは思いつつ、先に布団に潜り込むとすぐに意識は遠のいた。
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