龍神の妻が春を呼ぶ
麗華
終わらない冬
冬は、嫌い。
寒くて、静かで、泣きたくなるほどの真っ白な世界。
自分が一人だってどうしても知ってしまう。
だから、大嫌い。
どれだけ泣いても、帰ってきてくれなかった。
どんなに後を追いたくても、白い雪に消された足跡を追うことはできなかった。
どんなに忘れようと思っても、忘れることなんてできなかった。
高い山に囲まれた、ちいさな村、
冬は雪深いが、山は雪解けの水を蓄えどんなに雨の少ない夏でも水は常に豊富にある。周りを囲む高く険しい山のおかげか、隣国に面しているにも関わらず戦に巻き込まれることもない。静かに暮らすことを望む、平和で穏やかな村。その昔、龍神が傷を癒すために作った村、との伝説が残っており今でも龍神を祭っている。
「
「はぁい……」
わかっていますよ。日が暮れることも、早くしないと冬に間に合わないことも。でも、私と
ブツブツと口の中で呟きながら、嫌がる枝を筵で抑えて、縄を巻きつける。もう少し……。
「雪花の腕は、短けぇなぁ」
呆れたように笑いながら私の手から縄を奪いさっさと巻き付けてくれたのは、村長の息子、
「ほら、さっさとそっちの小さい木の雪がこい、終わらせちまって帰ろうぜ」
珠樹が指したのは、私の背よりも小さい、今年植えられた桜の木。珠樹の
立ちすくんだまま悩んでいれば、さっさとしろと小突かれた。
「お前、気にしすぎなんだよ」
「……だって、私、縁起悪い」
雪の降る夜、村長の家の前に捨てられた私。今でも、時々夢を見る。雪の中、泣きじゃくる私、振り向きもしない細い背中。私の泣き声に珠樹が気付いてくれなければ、私はそのまま凍えて死んでしまっただろう。
そんな私が、望まれて愛されて産まれた村長の孫娘に触れるなんて恐れ多い。そう言って、夏も秋も、姉様の子供どころか、桜の木にすら近づかなかった私を、馬鹿にしたように見ていた珠樹。
「姉様は、お前の事も、妹だと言っている」
珠樹の不機嫌な声に押され、渋々と桜の木の雪がこいを始める。まだ細く、折れそうな枝を筵で優しく巻いて、縄を巻きつける。この大きさなら、私の腕でもできるけど、やり方が悪くて枝が折れたらと思うと春になるのが少し怖い。
「早く終わらせろ。飯にするぞぉ」
いつの間にか、村長はもう家の中に入っている。今日にでも雪が降るのではないかと思うぐらいの寒さの中、珠樹と二人、なんとか日暮れまでに雪がこいを終わらせた。
「寒かったぁ。手、痛いよぉ」
家に入れば、奥様も姉様も指先をかじかませた私達を気遣い、桶に温かい湯を張ってくれていた。二人並んで手をつけるが、かじかんだ指を急に温めると痛くて、痒くて、そのくせ中々感覚は戻らない。顔をしかめた私をみて、珠樹が笑う。
「雪花の手は、小さいなぁ」
「……」
ちょっと前まで、珠樹だって、同じぐらいだったくせに。その言葉を呑みこんで、桶の中の指をゆっくりと動かす。
「雪花、
姉様が、柔らかく笑う。婿様も、ありがとうなと笑う。意味ありげに私を見る珠樹に、おおらかに笑う村長と奥様。ここは、暖かい。
もう顔も覚えていない、雪の中私を捨てた母。どんな事情があったのかは知りようもないけれど、この村で、この家の前に捨てて行ってくれたということには感謝している。おかげで私は子を捨てなければならなかった母の元に育つよりも、ずっとずっと幸せだったと思う。
今年、村はいつもよりもずっと早くに白く染まり、深く深く埋まった。風も冷たく強く、薪の減りもいつもよりもずっと早い。
いつもよりもずっと、春が待ち遠しかった。
冬が終わる頃に降る冷たい雨は、固くなった雪をとかし沢を作る。いつもなら日ごとに暖かくなっていく日差しに、白かった地面に緑が広がっていくはずだ。
だが、今年の冷たい雨では雪はまく解けきれず、ところどころに現れるのが暗く冷たい土だけ。地面は暖かい日差しを浴びる事もできないので、いつまでも裸のままだ。これでは、今年は作物は育たない。箱に土を入れて各自の家の土間に置き、種を植えることでなんとか芽を出すことはできたが、いつまでもここに置いても実りは見込めない。何より、土間における程度の量では、全然足りない。
暦ばかりの春が来て、ようやく雪がこいを取った桜の木は寒そうに枝を震わせている。春が来るのが怖い、なんて思っていたのが申し訳ない。
「龍神様に、願わんとなぁ」
村長が、酒を呑みながら呟くと、奥様も姉様も目を赤くしている。
村を囲むようにそびえる山には、龍神が住んでいるとされている。毎年、秋にはその時の作物を供え、神楽を舞い、一年の感謝、来年も気候に恵まれるようにと願う。
冷たい春を暖かい春に変えてもらうために、もう一度龍神様へのお供えをするという。龍神様へのお供えよりも、その分食べたほうがいいのでは、なんて言葉はのみこんだ。村長がやると言うのだから、やるのだろうな。
「雪花。姉様さまが呼んでいる」
土間に並ぶ弱々しい緑を眺めながら、ぼんやりとしている私を、珠樹が呼びに来た。
何だろう? 子供のころから、穏やかで優しい姉様。用があれば自分が来る人なのに。すぐに行くよ、と立ち上がると一瞬、眩暈がした。青くなったであろう私の顔をみて、珠樹の眉間に皺が寄る。
「雪花、最近食べてないだろう」
……だって、居候の身で、いつまで冬が続くかわからないこの状況で、貴重な食料食べられないよ。姉様の子供だって、そろそろ食事を取り始めるのに。
「平気。姉様、どこにいるの?」
「……美羽の、桜の木」
桜の木、かぁ。なんだか、嫌な予感がするなぁ。枝でも折れていたかな?
「姉様。桜の木、どうかした?」
まだ姉様の背よりもずっと小さい桜の木。そう言えば、去年は気候が良かったのにこの木、育ちが良くない。私達にはわからない、何か気候の変化とかあったのかもしれない。もっと、良く見ておけばよかった。
「雪花。珠樹。これから話すことは、お父様には内緒よ?最後まで、ゆっくり聞いてね」
姉様は穏やかな口調で、私達に諭す。珠樹は一瞬戸惑いを見せたが黙って頷き、私はこれから言われるであろうことを、予感した。
「この村はね、私が産まれるよりも、お父様が産まれるよりもずっと前から、とても気候に恵まれていたの。水は豊かで、光に恵まれ、私達が暮らすには充分な作物が実る村だった。龍神様が守ってくださっていたから。でも、何をお怒りになっているのか、春が来なくなってしまった。このままでは、皆飢えて死んでしまう。だから……」
姉様の声が震えている。桜の木を見つめているその顔は、娘を案ずる母の顔でもあった。
「村の皆で、考えたのよ。どうして龍神様が怒っているのか。どうしたら、龍神様がまたこの村を守ってくれるのか。皆で、考えたの」
「……うん」
知っている。何度も何度もこの家に村の大人たちが集まっていた。私も珠樹も、話を聞く事は許されなかったけど、帰る女達の目が赤くなっていたのを、知っている。嫌な予感しかしなかった。
「前の春は、何ともなかった。それなら、昨年、何か龍神様の気を害することがあったんじゃないかって事になったの」
嫌な予感が、現実味を帯びてきた。小さいままの桜の木。去年の春、望まれて産まれた美羽。
「去年産まれた子が、龍神様の気に障ったのではないか、って事になったの」
珠樹が息を呑む音が聞こえる。私の足は、今地面に付いているのだろうか。目の前にいるはずの姉様が、遠くにかすんでいく。
「……それで、どうするんだ?」
「去年産まれた子を、龍神様に、差し出すの」
姉様が、芽も出せないでいる桜の枝に愛おしそうにふれる。
「そんなことをしても、春は来ない。我が子を差し出す母の元に、幼子を差し出す村に、春は来ない。この村を守る龍神なら、そんな事望むはずなんてない!」
珠樹の声が震えている。憤りが、伝わる。
「村の皆の、命がかかっているの」
村を守る長の娘が、嫌だと言えるはずがない。
姉様の目は、真っ赤だ。美羽が産まれたときに、あんなに幸せそうにこぼれた涙を、今は必至で堪えている。そんな姉様と珠樹を見て、少しホッとしている私は、最低だ。
「龍神様へ差し出すのは、幼子だけじゃない。雪花は、妻として龍神の元へ……」
ああ、やっぱり。覚悟はしていたけど、私も、だ……。
神へのお供え物は、若い女。この村で一番イラナイ若い女は、この村の誰の娘でもない、私だ。
「なんで、雪花が?」
さっきと同じように憤ってくれる珠樹。ああ、ありがとう。でも、いいの。大丈夫。それがこの村の為になるなら、大丈夫。だって、私、この村の者じゃないもん。拾ってもらっただけだから、この十年、幸せだった恩返しをしなくちゃね。
恰好よく姿勢を正してそう言ってやろうって決めていたのに、覚悟していた事だったのに、いざ私の口をついて出たのは、完全に行き先を間違えた恨みごとだった。
「私を捨てて、皆で助かるの?そんなの、ずるい!私だって、死にたくない。龍神の妻なんて嫌! 龍神なんて知らない。私はこの村の者じゃないもの。龍神の怒りなんて、関係ない」
行き先違いの言葉は、姉様にも珠樹にも深く刺さっていく。わかっている。私と美羽を生贄にしようなんて決めたのは、二人じゃない。拾ってもらって、ここまで育ててもらって、充分な愛をもらった。それを、関係ないなんておかしい。でも、姉様の優しい眼差しに、言っちゃいけない言葉が止まらない。
「姉様だって、私の母様と同じよ。子供を見捨てて、平気なんだ!」
あふれた涙が、止まらない。私は泣きながら、その場を逃げ出した。
嫌だ、嫌だ。私一人で、死にたくなんてない。
今年の春も、夏も、来年も、その次も、もっとずっと。珠樹と、一緒に居たい。
どうして、私なの?嫌だ、嫌だ。姉様も村長も、嫌いだ。
泣きながら、母様が消えていった裏山に入った。小さい頃、ここに登れば母様がいるような気がして、辛いことがあると泣きながら登った。そんな私をみて、珠樹が裏山を「泣き虫山」と呼んでいた。姉様は、そんな珠樹をたしなめながら、必ず迎えに来てくれた。もうすぐ私は捨てらえる。姉様も珠樹も、もう迎えには来てくれない。私一人で龍神の妻に……。
子供のように、声をあげて泣きじゃくった。嫌だ、嫌だ、と何度も叫んだ。顔も覚えていない母様に恨みごとも散々言った。
泣くだけ泣いて、少し落ち着いた頭に浮かんできたのは、苦しそうに語った、姉様の顔。憤ってくれた珠樹の顔。我が子のように、可愛がってくれた村長と奥様。
月も星もない、真っ暗な空。雪は溶けているとはいえ、凍り付くような風は冬のものだ。春はまだこの村には来ない。
これは、もう仕方ないよねぇ。こんな寒くて、昼も夜も暗くて、これじゃぁ蓄えが無くなったら、皆死んじゃう。私だって、この村が無くなったら生きてなんていけない。ちょっと早いか遅いかだもん。皆が助かるかも知れないのなら、仕方ないよねぇ。だってやっぱり、他に行くところなんて、ないし。
「姉様に、謝らなきゃ」
ひどいこと、言った。真っ赤に染まっていた姉様の瞳。姉様は、子供を捨てて平気な母親なんかじゃない。
「覚悟はしていたんだけど、姉様も珠樹も優しいんだもん」
優しい眼差しに、ちょっと甘えてみただけ。大丈夫。私、これまで幸せでした。
うん、帰ったら、言えそうな気がする。
「よし、帰ろう!」
気合いをいれて、元気よく立ち上がる。ちょっと気まずいけど、村長には内緒の話なんだから、きっと大丈夫。クルリ、と振り返れば少し離れた場所に珠樹がいる。ああ、やっと覚悟を決めたのにまた揺らぐ。
「珠樹? 迎えに来てくれたの?」
逃げ出さないように見張っていた、なんて言わないでね。たとえ思っていても、言わないでね。
「……」
無言、かぁ。まぁ、いいでしょう。
「帰ろう?」
子供の時みたいに、手を差し出すと、黙ってつないでくれた。小さい時、母様が忘れられなくて、何度も探しに行こうとした私を、姉様とこうして迎えに来てくれたなぁ。あの頃より大きいけど、同じように暖かい。
ああ、やっぱりまだ、死にたくない。でも、珠樹が飢えて死ぬなんて、もっと嫌。
「仕方ないんだよ。わかっているの、本当は」
自分に言い聞かせるためにも、頑張ってなるべく明るい声をだした。
「姉様が、心配している」
「……うん」
早く帰って謝らなくちゃね、と言うと珠樹は痛みを堪えるように頷いた。
「お帰り、雪花」
私を見た姉様はにっこりとほほ笑んだ。さっきの話は夢だったのではないかと思うぐらいにっこりと。ううん、姉様ってすごい。
「ただいま、姉様。さっきは……」
謝りかけた私の唇に姉様の指があたった。目が、何も言うなと訴えている。ああ、そう言えば、村長には内緒なのだっけ。後で、と姉様の小さな唇が動く。黙って頷き、その夜は薄い粥を口にした。いつもの春なら、もう食卓には山菜や山鳥が並ぶのに。今年は寒いせいか、川魚すら見かけない。
「雪花。起きている?」
「姉様?」
明りも持たずにソロソロと襖をあけて入ってくる姿に、雪を怖がって姉様の部屋に入り込んだ小さかった私の姿が重なった。姉様は、黙って布団に入れてくれたっけなぁ。
「後で珠樹もくるけど、先に二人でお話しましょう」
暗くて良く見えないけど、きっと笑っているのだろう。声がかすれているけど、きっとそれは風邪かなんかで。ああ、ダメだ。涙がでる。やっぱり、龍神様の生贄なんて、嫌。呑みこまなきゃ、と思う言葉が喉まであがってくる。
「雪花、龍神様なんて、いると思う?」
「……へ?」
私の間抜けな声は、思ったよりもずっと大きく響いて、慌てた姉様に口をふさがれた。いや、だって、ねぇ?姉様は、村長の娘なのだから、村が信じている龍神様を、居ないなんて言っちゃダメでしょ?混乱する私の額に姉様の手が優しくふれる。
「私はね、居ないと思っているの。もし、居たとしても、珠樹の言うとおり、美羽みたいな幼子や、雪花みたいな若い娘の命を欲するような者は、神様じゃない。ささげて、気が済むのは村の人だけ。そんな龍神様に、雪花も美羽も渡せない」
姉様……。
嬉しくて涙がでた。姉様は、龍神様よりも村の人の気持ちよりも、私を取ってくれるのだ。うん、私、姉様の為なら何でもできる。だから、龍神様のお嫁さんなんて、嫌だって、言ってもいい?言うだけだったら、聞いてくれる?
「雪花。だから、逃げなさい。龍神様への供物としてささげられる前に、今夜のうちに」
「へ?」
本日二度目の、間抜けな声。もう、とクスクスと笑う姉様。
「珠樹が、雪花と一緒に行くわ。私達は、美羽を連れて行く」
いつも穏やかに笑っていた姉様。こんなにも強い瞳をもっていたなんて、知らなかった。優しく、穏やかな、母親。いいなぁ、美羽。羨ましい。
「話は、終わったか?」
空いたままの襖の外で、珠樹と婿様が立っていた。姉様は、黙って私の手をひき立たせ、部屋の外へと促してくれた。
「村長と、奥様は?」
姉様は、黙って首を振った。
「長が、村を捨てて逃げるわけには、いかないでしょう?」
何を言っているの?私達が逃げて、二人が村に残ったら、大変なことになる。そんな事、姉様だって、珠樹だってわかるでしょう?すがるように二人を見るが、二人とも私と目も合わせない。
「お父様もお母様も、私達が今夜逃げるって知っているわ。大丈夫、この村の長だもの」
姉様の震える声。
行くぞ、と美羽を抱いた婿様が姉様を促す。姉様は、一度だけ私を抱きしめて、すぐに婿様と出て行ってしまった。
「少し、時間をおいて出るから」
そう呟いた珠樹の声が、震えている。月も星もない、真っ暗な空。これから、私達はどこに行ったらいいのだろう。
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