維新の残響

植木田亜子


 時計に目をやると、時刻は午前十一時四十四分をさしていた。

 司法省屋敷の一室。ここの掛け時計は一日にちょうど十五分遅れるため、正午を告げる午砲が鳴るまであと一分だ。

 気持ちを落ち着けようと、栄一がふっと息をついたちょうどそのとき、ドォーンという轟音が東京の空に響き渡った。

 明治四年九月、政府は、「毎日正午、旧江戸城天守跡にて撃つ二十四斤加農砲の空砲に合わせて、各々所持する時計を正確に保つように」という通達を出した。それから約ひと月、栄一はこの瞬間わずかにこころがざわつくのを、いまだにどうすることもできないでいる。

 ザンギリ頭には慣れた。洋装にも、定時法にも誰よりも先んじてそれを生活の一部とした。東京という名称にも愛着こそわくはずもないが、いまさら時代の流れに抗う気などない。そもそも自分は旧幕時代から開明派を自認していたはずだった。

 だが、午砲の音にだけは慣れない。

「吉村、報告せえ」

「はっ……」

 中森逮部長の声に慌てて顔を上げが、発した声はうわずっていた。

 咳ばらいをしつつ懐に伸ばしかけたその手を止め、内心舌打ちする。手帳を取り出そうとして、いま自分が身につけているのが着物ではないことを思い出したのだ。

 洋装に身を包んで髷を切り落とし、急ごしらえの文明国を気取ることに誰もが必死だ。

 ばつの悪い空気が流れた。栄一はこの薩摩隼人が苦手だった。決して悪い男ではないし、何の因縁があるというわけでもない。しかし中森の前でだけは弱みを見せたくないという一方的な感情が、互いの間に気まずい壁を作っていた。いや、それすら栄一の独りよがりなのかもしれないが。

 中森は腰を上げると、無言のまま掛け時計に歩み寄った。踏み台に乗って文字盤のふたを開き、二本の針を頂点に合わせてゼンマイを回した。

 席に着くのを待ってから、栄一は切り出した。

「雲井龍雄一派残党の頭が、ちかく東京に戻るという情報があります」

 雲井とは、政府転覆の嫌疑をかけられて昨年末に斬首に処された元米沢藩士である。

 栄一たち司法省逮部はいま、その雲井一派の残党の頭を参議広沢真臣暗殺事件の重要参考人として追っているのだった。

 広沢真臣は、大久保利通や木戸孝允とならんで政府の最高意思決定機関である太政官の八人の参議のひとりであり、これまで数々の要職を歴任してきた明治政府の大物である。

 その広沢が自邸で眠っているところを踏み込んできた複数の刺客によって殺害されたのは、一月九日の未明であった。

 事件当時捜査に乗り出したのは、司法省の前身である刑部省と弾正台だった。刑部省ははやくからこの雲井一派の残党を容疑者の筆頭として追っていたが、捜査になんの進展も見られないまま、ふたつは合併され、司法省と名を改めらた。この旧岩村藩邸に設置されたのは七月のことだ。

 権限の上で抵触する刑部省と弾正台はもともと折り合いが悪く、今回の事件においてもその軋轢が捜査の妨げになったのではないかと、内心、栄一は考えていた。

 とはいえ、司法省逮部の剣術教授にすぎない栄一にとって、暗殺事件や内部のごたごたなど、本来なんの関わりもない話であった。

 そもそも栄一は旧幕時代、江戸町奉行所の同心だったのだが、慶応四年の江戸無血開城後、わずかに残っていたほかの与力同心たちと共に新政府の配下に入った。その後、刑部省が新設されるとその腕を買われ、逮部の剣術教授として取り立てられることになったのだ。

 事件から九か月、捜査の長期化に焦り始めた逮部は、元同心である栄一の情報網に目をつけた。栄一にとってははなはだ迷惑な話だが、気持ちがわからないわけではない。なんといっても時期が悪すぎた。

 急速な改革で不満を募らせる士族が全国にあふれ、未だ明治政府は盤石だとはいえない。そんな時期に広沢ほどの高官を暗殺されるという失態は、それだけで政権を揺るがしかねない。そのうえ犯人をいつまでも逮捕できないままでは政府の威信は地に落ちるだろう。

 関わりたくはなかった。雲井一派に同情こそすれ、その残党の逮捕に協力するなど思いもよらぬことだった。だがあのとき、静岡にいる家族のことが頭をよぎった。その生活は苦しく、栄一のわずかな仕送りが家計を支えており、職を失う危険はおかせなかった。

 結局栄一は、旧幕時代に使っていた岡っ引きのなかでも、その情報力を買っていた廻り髪結いの寛八に雲井の残党を探らせることにしたのだった。

 中森は値踏みするような視線を栄一に向けていた。手は、世間からナマズと揶揄されている髭をしきりと撫でている。この癖をもつ役人は多い。

 攘夷攘夷と宣い、天誅などと称しては開明派を斬り捨てにしてきた西国の志士たちが、政権を握ったとたん、頭のてっぺんからつま先まで西洋人を真似ることに余念がない。

 栄一はそんな役人たちを白けた目で眺めていた。

 その後、型通りの報告を終えて退室しようとする栄一を呼び止め、中森は言った。

「広沢閣下暗殺の下手人を挙げ、雲井の残党を壊滅に追い込めば、伍長に推薦してやってもよか」

 伍長など興味はなかった。むしろ気になったのは、雲井の残党が真犯人であることを決めつけているような、その口ぶりだった。しかし結局は、

「下手人が雲井の残党だという確証はまだありません」

 喉まで出かかったその言葉を口にすることなく、栄一は屋敷をあとにした。

 

 潜戸を出ると、栄一は大名小路を左手に向かって歩き出した。

 各藩の江戸屋敷が並ぶ閑散とした通りである。一見すると、旧幕時代とかわらない景色だが、いまはその多くが新政府の官庁になっていた。

 立派な海鼠塀が連なる通りを外れ、鍛冶橋御門を抜けて鍛冶橋を渡ると、南伝馬町。一転して町人の町になる。北上すると、かつては一日千両がうごくと言われた江戸の目抜き通り、日本橋通だ。

 栄一は南伝馬町を横切り、弾正橋から八丁堀に入った。

 ここは三年ほど前まで、同心与力が組屋敷を構えた町であり、「八丁堀の旦那」と呼ばれた同心やそれらの手先だった岡っ引きなどが通りを闊歩する活気のある町だった。

 新政府に同心時代の拝領屋敷を追い出され、堀留町の長屋に住まいを移した栄一とは違い、寛八はいまもここに住んでいる。

 長屋木戸をくぐり、裏長屋が並ぶ路地に入った。

 目的の部屋の手前でその異変に気がつき、ハッとした。引き戸の障子が張り替えられ、書かれていたはずの「廻り髪結い」、「寛八」という文字がなくなっていたのだ。

 嫌な予感が脳裏をよぎり、力任せに表戸を開いた。

 わずかに光が差し込んだうす暗い六畳の真ん中で、ぼんやりと胡坐をかいて座る男の背中が目に入り、栄一はほっとした。一瞬逃げられたかと思ったが早とちりだったようだ。

 だが、奇麗に整頓されて掃き清められた座敷と、大きな風呂敷包みを見れば、ここを出ていくつもりなのだということは明白だった。

「逃げたと思いやしたか、旦那」

 寛八は振り返り、言った。一瞬口ごもったが、すぐに話をそらす。

「見つかったか」 

 むろん、雲井の残党の頭のことである。寛八は苦笑を浮かべつつ、応えた。

「まずはお座り下せえ。見ての通り何のもてなしもできやせんが」

 栄一は靴を履いたまま、寛八に背を向けて腰を下ろした。

 十月上旬、まだ寒いという時期ではないが、うす暗くがらんとした室内はやけに寒々しかった。

「今夜、倉持という男が江戸にもどるらしい」

 寛八が切り出した。

「それが頭か?」

「へい」

「風体は?」

「歳は二十五。背丈は五尺五寸ほど。狼のような目つきの男だそうで。それ以上はわかりやせん」

「場所は?」

「……今ここであっしがそれを答えれば、あの連中は雲井さんたちと同じ運命をたどることになるんですかい。聞けば、やつらは御一新で酷え目にあったやつらばっかりだ」

 そんなことは栄一自身よくわかっていた。

 雲井は慶応三年、王政復古の大号令のあと、各藩からの推挙を受けて新政府の議政官となったほどの人物である。しかしその翌年、戊辰戦争が東北へ及ぶと、世に名高い「討薩の檄」を起草して奥羽越列藩同盟の奮起を促すなど、一転して抗戦にまわった。

 旧幕府方諸藩が敗れ去り、藩元にて禁固の身になるものの、明治二年には釈放されて上京。ふたたび衆議院議員に任命されるが、過去の薩摩批判や本人の性分が災いし、わずかひと月足らずで政界を追われることとなった。

 下野した雲井のもとに行き場を失った士族たちが集まりだすと、その者たちをまとめ、「旧幕府方諸藩の武士たちに帰順の道を与えよ」という嘆願を行った。これが政府転覆の陰謀とみなされ、まともな取り調べを受けることなく、十三名の同志と共に斬首に処された。さらにその後、二十二名が獄死している。

 事件発生直後、弾正台は事件現場にいた広沢の愛妾福井かねを、刑部省は雲井の残党を容疑者として有力視した。そこに弾正台と刑部省の対立があったのは言うまでもない。そしてそれこそが刑部省出身の中森が雲井の残党に固執する最大の理由ではないかと、栄一は疑っていた。

 雲井たちへの処罰を不当だとして、その残党が広沢に報復したという筋書き自体に異論はない。だが、何をもって雲井一派を第一容疑者としたのか。そもそも一派が政府転覆を企んでいたということ自体、どれほどの確証があったのか。

 いくら尋ねても中森の応えは、「おめは知る必要なか」というもので、栄一の疑念はますます深まるだけだった。

 雲井たちに同情し、逮部に反感を抱くのはそういったいきさつからだ。

 しかしここで私情に流されるくらいなら、はじめから引き受けたりはしない。

「俺の役目は捕縛だ。あとのことは知らぬ。必要もないだろう」

 背後で吐息を漏らした気配があった。

「……神田小柳町の裏長屋。一番奥の部屋に近藤というやつが住んでいる」

「何者だ」

「さあ、よくはわかりやせん。元盛岡藩士だとか言ってやしたが……とにかく、今夜そこへ倉持が訪れるようで」

「神田か。案内しろ」

「すまねえが、あっしはここで下ろしてもらいます」

 寛八は決然と言ったが、栄一は言下にそれを拒否した。

「今はまだだめだ」

「旦那、あっしはほんとはこんなことはしたくねえんでさ。それでも引き受けたのは、あんたに恩義を感じていたからだ。そこをわかっちゃくれやせんかね」

「今夜の捕り物が終われば好きにすればいい。だが、今はだめだ」

 栄一は苛立った。いまさら言わずとも、それくらいのことは理解しているはずだ。

「……約束は雲井残党の頭の行方でござんした。これ以上は勘弁していただきやす」

 そう言って寛八は気まずそうに視線をそらした。

 栄一の手は自然と腰の三尺棒へと伸びた。支給されている三尺(九十センチ)の樫の棒である。

「このまま行かせると思うか、寛八」

「あっしが、やつらに逮部の情報を漏らすとでも思ってるんで?」

 寛八は挑むような視線を栄一に向けた。

「こんなこたあ言うまいと思っていやしたがね、旦那。あっしらみんな、お侍が怖かった。二本差しのお侍ってもんが、めっぽう恐ろしかったんでさ。だからこそ手足となって働いた。だからこそあこがれてもいた。でも、そんな棒っ切れ腰に下げたあんたは、もう怖くはねえんでさ」

 栄一は三尺棒に掛けた手に力を込めた。だがそれを抜くほどの激情が沸いてくることはなかった。言葉とはうらはらに、寛八の表情には嘲りも非難の色もなかったからだ。

 いたわりるような視線が突き刺さった。目を逸らすのは、今度は栄一の番だった。 

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