第7話

「帰り、カラオケに行くんだけど、一緒に行かない?」


 その日の放課後、鹿乃にふたたび誘われた。しかも彼女の友人である、いわゆる『上層階級』の面々もともなって。


「み、観たいアニメがあるので……」


 千明は昼と同じように、いや新たに加わった圧迫感から汗を増量させて瞳の回転数も速め、断った。


 逃げる足は脱兎のそれだ。その際に揶揄するような嘲笑が浴びせられなかったのがせめてもの救いか。


「なんで断っちまったんだ。お前が風呂場でいつも歌ってるクソマイナーアニソンとか、それこそ地下アイドルメドレーでも歌っときゃウケただろうに」


 ネロは、やや棘のある苦言を呈した。夕暮れの高架下のコートで、誰かが置き忘れたバスケットボールを手に、少年の姿となったネロと千明は対峙していた。


「……それ、本気で言ってる?」


 未経験者というネロの構えに隙はなく、今オフェンスとしてボールを手にした千明は攻めあぐねていた。

 もっとも、千明にしても体育の授業以外の経験は皆無だが。


「どー考えても吊るし上げ目的じゃん。オタクを珍獣扱いして、酒の肴にするのが目的なんだよ」

「いや未成年……それはさすがに穿った見方過ぎやしないか?」

「わかんないよ! 仲良くしていたクラスメイトとのやりとりが、ある日突然黒板に前面に張り出される! それが女子校ってもんなんだよ」

「マジで? 俺の世界でも女は恐ろしかったが、まさかお前もそんな目に遭ってたとはな」

「いや、今のはネット情報だけど」

「完全に邪推じゃねーか! ……遠目からは、そんな悪い娘らには見えなかったぞ?」


 ネロはボールを奪う気配も見せず、ただ千秋の前に立ち塞がったままだ。

 ボールを持ったままフェイントを駆けながらすり抜ける。そのままシュートを決めようとするが、ゴールに弾かれて足下に転がり戻ってきた。

「僕は」

 それを拾いなおして、縫い目をまじまじと見つめる。目線を決して彼へと投げないままに、強張る舌と唇を必死に動かす。


「今のままで、良いから」


 ボールをギュっと挟み込むようにしたまま。


「君とこうやって、くだらない話をしたり、マトモにしたこともないような1on1とかやっちゃったり、ゲームしたり、コスチュームにケチつけ合ったり……そういうのがあれば、僕は充分だから」


 言った。言ってしまった。なけなしの勇気を振り絞って、自分の正直な気持ちを。

 本来は、あの碧眼をまっすぐに見据えて言うべきなのだろう。だが言っている最中も、口にし終えた直後も、顔を上げられず、真っ赤になって俯く。


 頭上で、レールラインが通過していく。

 その音の洪水の波の中で、ふぅと少年が息を吐く気配があった。


「千明」


 ポンと掌が落とされる。頭の上に。

 動かすことなくただ置かれた。そうだ。秘密がどれだけ多くとも、辛い目に遭おうともただそれだけで、自分は多幸感に包まれることができる、


「俺は、いつまでもいるわけじゃねぇぞ」


 ――はず、だっ、た。


「俺の務めは、お前を幸福にすることだ。だから当然、お前周りのゴタゴタが片付けば契約は終わりだ。俺たちは別の道を行く。だから、面倒を見ていられる今のうちに忠告しておくが、友達のひとりやふたり、自分で作」


 れ、とは続かなかった。その前に、彼の顔面めがけてボールを投げつけた。ボールはその鼻柱を折ることができず、寸前に引き戻された掌によって防がれた。


「わ……」


 今まで持ち上がらなかった顔が、目が、揚がる。だがそれは、自発的にそうしたというよりも、見えない手が抗いようのない強引さで彼女の髪を掴んで引きずったといったほうが正しかった。

 冷たいネロの眼差しを、直視してしまう。


 上ずった声を、詰まらせながら言った。


「分かってるよそんなコト! 自意識過剰! うぬびれれんなこのバカ!」


 そう口汚く罵る。怒りに任せ、だが本心とは相反した言葉が、切れた精神の堤から発せられた。


 もう自分で自分の留めようもなかった。

 千明の身体は冷たい鉄の板によって押し出されるように痛みとともに打ち出され、ネロから離れていく。


 後ろから伸びる彼の影が形も見えなくなった時、逃走は緩み、とぼとぼと、頼りないものとなった。


 代わりに、自身の情けなさはネロへの憤りへ置換されていく。


 人の心や事情には深々と踏み込んでくるくせに、自分の真実には立ち入らせない。

 彼は何も本心を打ち明けないくせに、惨たらしい事実だけは飾ることなく、鞘に納めない剣のままに押しつけてくる。


 そうされる自分の気なんて、知ろうとさえしないで。


「ネロの、バカ……っ!」


 ようやく紡いだ言葉は震えて湿っていた。

 それが感情を押しとどめていた最後の一葉だった。熱を持った眦から、涙が流れ続けた。


 ・・・・・


 ネロはしばし立ち尽くした後、自身の額にあらためてバスケットボールを自罰的に押し当てた。


(少し、性急過ぎた)


 それはネロとて認めることだ。誰かに指摘されるまでもなく、正論であっても、いやなまじ反論の余地のないことであるがゆえに、人が傷つけるなどということは。


 そして自分がに遭ったのは、そういうところも遠因としてつながっているのだろうとも思う。


 だがしかし、今回の場合はこれで良かった。むしろ疎まれ、みずから遠ざかるほどの荒業でなければならなかった。


 ――猛獣が、背後に迫っているこの状況下では。


「いるんだろ、せっかくこの姿晒して人払いまでしてやったんだから、出てこいよ。隠密行動なんざ不慣れなことしてんじゃねぇや」


 夕闇の中から人影が伸びる。

 千明のものではない。帰ってくる道理がない。大理石柱のように、長く、太く、大きく、濃い。


 ネロの識る男が、そしてネロを知る男が、背後に立っている。


「もし逃げるとするならば、この世界に来るとは思っていた」

 影が精悍な音声を発した。

「貴様が妙な趣向に傾倒しだしたのは、この世界の芸術展や小説からだったからな。よほど愛着があるのだろうと踏んだのは、果たして正解だった」


「――相変わらずどうしようもないバカだな、お前」

 千明の先例から反省はしていた。それを踏まえれば、言わずに済んだことだろう。だが、言わずには言われなかった。

 

 自分を追ってこの世界に渡来した。

 男は自分の目算を誇っていたが、ネロにしてみればそれは誇るどころかとんでもない浅慮、軽挙妄動以外の何物でもなかった。彼がすべてを投げ打って企図したことを、すべて破算させるに等しい行為だった。


 もっとも男を言葉を尽くしてそれを説き、叱責したところで、相手に理解などできないからそこからは溜息に留めたが。


「討つにせよ弁明を聞く気があるにせよ、ここじゃ手狭だろ。ちょっと移動しよう。なんならバスケでもして気持ちの整理でもするか?」


 揶揄ともとれるような調子でそう言って、オレンジ色の硬球を足下に転がす。

 男は……ロットバルム公王イグニシア・シドーケロンはそれに鋭い一瞥をくれた後に、低く答えた。


「必要ない」

「そうかい。じゃさっそく、場所を移すか」

「己がこの世界に斟酌する必要など、ないのだからな」

「あ?」


 ネロと彼とは互いにその為人を知る仲ではあった。

 だが、それでも彼はかつての同級生であり同業者の愚直さを、ネロ自身の言うところの馬鹿さ加減を甘く見ていた。


 次の瞬間、イグニシアは握りしめた鉄棒で宙を両断した。風の圧が、その切っ先にさえ触れずしてボールを繊維ごと引き裂いた。

 その空間に過剰に供給された酸素によって、着火の炎が膨れ上がる。そしてボールの残骸とネロの身柄を、瞬く間に劫火が飲み込み大きく爆ぜたのだった。

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