第8話 堕ちて、堕ちて

ドラッグストアから帰ると彼女の返事はなく

やけに家の中が静かな気がした。

嫌な予感が脳裏をかすめる

リビングにも自室にも彼女の姿がなかった。

最後に確認したのはバスルーム

真っ赤に染まった湯船の中にだらりと片腕をつけたままタイルの上でへたり込んでいた。

「夏乃子!夏乃子!」

いつか、そう、すべてが崩れ出したあの時のように全身全霊をかけて彼女の名を呼び続ける。

戻ってこい、あの時と同じなら早く目を開けて「沙緒李」って呼んでよ。

震える手で携帯を取り出して電話をかけた。

コール音でさえもどかしい。早く、早く、誰か出て。

「はい、どうされましたか?」

「友人が、血が、たくさん流れて大変なんです。お願いします。助けてください。」

「落ちついてください。すぐに行きますから。住所を・・・」


助けがくるまでの間、彼女の体を温め続けた。

血の気の引いた顔をして、どんどんぬくもりが彼女から逃げて行っている気がするんだ。

白くて柔らかい彼女の肌が、土色にそして硬くなっている気がするんだ。

違う、気がするだけ。

近くにあったタオルで傷口をかたく縛った。

お願い。夏乃子。お願い。神様。

やめて、やめて、行かないで。


駆けつけた救急隊員が私の腕の中の夏乃子を引き離して担架に乗せた。

「意識なし。呼吸停止。心肺停止。心臓マッサージ開始します。」

隊員の掛け声とともに彼女の胸が強く押されて体がはねた。

それなのに彼女は顔色一つかえないで瞳をとじたまま動かない。

酸素マスクを顔に掛け、手際良く担架ごと彼女が救急車へ運ぶ。

ピクリとも動かないタオルを何重にも巻かれた左腕が不自然に担架からはみ出して振動がつたわるたびにへにゃりへにゃりと踊っている。


さっきまで胸の中にいると思っていたのに

あっけなく行ってしまった。

すべてが別世界でおこっているかのように実感がない。

それなのに、両手にべっとりとついた深紅の液体が嘘ではないと嘲笑っているのか。

その手を強く組んでただ祈るしか道はなかった。


困った時だけ神頼みか。

普段ろくに信仰もしていないくせにな。

だから見放されたの



お通夜が終わっても、家に帰る気にはなれなかった。

彼女のいないあの家に帰るなんてできそうにない。

空いたベッドも、食卓も、お箸も、歯ブラシも、洋服も、靴も、なにを見ても辛いのに、触って思い出しては泣き、泣き疲れて立ち直ってはまたなにかが目に入って、を繰り返していた。

いつのまにか雨が本格的に降り出して、傘の花が街に咲いた。

そんなときだ。

携帯のスクリーンに顔が照られてはっきりと見える。

なにを見ているのか。あのとき、私を、もてあそんだときと同じ顔をして

あいつが、にへにへと笑っているではないか。

夏乃子をぼろぼろにした、あいつが。


考えるよりも先に体が動いた。

人気のない暗い雑木林のそばで

私は持っていた傘をあいつの喉元に向かって突き立てる。

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