第3話
ハダリーの髪に咲いていた紫の薔薇が、はらりとほどけて、無機質な束に戻った。ぱちり、とピンクと銀の火花が散った。
職員たちは何かを書き取りながら、ハダリーに大丈夫かと訊ねた。つらいことを語るとき、情緒に気を遣わなくてはならないほど、ハダリーの人工知能は人間に近い。ハダリーは大丈夫だと片手を振り、髪をかき分けて額に手を当てた。尖った指先が、黒く輝く。
「……われわれは、神に造られたものではない」
ハダリーは自分に言い聞かせるように呟いた。白いつめたい頬に、長い睫毛の影が落ちていた。
ハダリーの感情表現は、こういうときにはこうするものだと教えられた行動を自然になぞっている。それはお仕着せのプログラムではなく、ハダリー自身の学習によったものである。彼の知能に形成されたネットワークがそれを物語っている。
限りなく、人間に近い。
しかし、
ハダリーの静かな嘆きを見た職員たちは、知らず知らずのうちにこの調査にのめり込んでいた。ハダリーの状態を入力する文章には、同情と、悔いと、高揚を隠せない。
銀色の流動する分子は、はたして、彼の人工頭脳に本能を与えているのか。
やがて、時計の針がきっかり十周した頃、ハダリーがそっと額から手をどけた。顔をあげ、その赤い瞳がゆっくりと辺りを見渡す。その透明なレンズの奥で、青い輝きが一瞬弾けた。
「──…これが、一番めのきょうだいの話ならば、次はもちろん、二番めについて話すべきだろう。人に造られたわが同胞たち、その遺言について。
僕は追憶について話した。そして、次は、小夜啼鳥について話すことになる。ロシニョール。僕たちの愛した孤独の翼。僕たちが持たぬ……自由の翼。──」
スヴニールが死んで、少しあとのことだったと思う。
ソワナはまだときどき銀とピンクの火花を目からこぼしたが、僕はソワナが僕のぶんまで泣いてくれるから、一度も泪はこぼさなかった。僕たちは見えないところが繋がった、幻のシャム双生児のようなものだった。
僕たちが研究所のバルコニーで、日光浴をしていたときだった。太陽の光は僕たちのエネルギー源だが、貯蔵が難しい。浴びられるときにはできるだけ浴びておくのを習慣づけられていた。どんなに悲しいときでも。
そのとき、不意にソワナが顔をあげた。同時に僕にも異音が聴こえた。それは、たくさんの薄いものがこすれ、楽器のように複雑な音程だった。
僕たちはその正体を探して、バルコニーからあたりを見渡した。身体があまりに重いので、迂闊に手すりにもたれたりはできないが、幸い探したものは見つかった。
研究所の給水塔の上に、ロシニョールの青い翼が見えた。猛禽と天使をかけあわせたような、輝く羽根の一枚一枚は、すさまじく薄い分子の層で成り立っていた。あの構造だけは、僕も摸倣するには難しすぎる。
僕たちは声をかけあぐねていた。大方は小競り合いだったが、ロシニョールはスヴニールと交流が多かったから、僕たち末のきょうだいでは彼の心中を推し量ることは難しいと考えていたからだった。
いつでも無口で、独り空を眺めることを愛していたロシニョールは、僕たちに孤独の自由を教えてくれた。
「ロシニョール」
呼び掛けたのは、例によってソワナだったが、それは僕の意思でもあった。返答はなかったが、鳥の囁きのような口笛が、小さく聴こえた。
「ロシニョール」
もう一度、今度はふたりで呼び掛けてみると、不意に音がした。潮騒や葉擦れに似た、自然の楽器の音。それが、ロシニョールの翼の音だと気づいたのは、鳥の群れが塔の周囲に集まりだしてからだった。
分子の翼が羽ばたくたび、増幅された音が風の音楽になって塔を取り巻き、僕たちのところまで雨粒のようになっておりてきた。鳥が、音に誘われて集まってくる。すずめ、鶫、カナリア。
「象は死んだ仲間を弔うそうだ」
不意に、ロシニョールが呟いた。両腕の天使のような翼が軽く上下すると、その構造の特性で、しゅるりと翼のはざまで不思議な風が渦巻いた。
「動物は存外、弔いの概念を持っている。鳥はそうか知らんが」
ロシニョールの独特の声と、羽ばたきのリズムに誘われて集まってきた鳥が、徐々に増えていく。だんだん、近くにいた僕たちの身体にも鳥がとまり始めた頃、ロシニョールはやっと羽ばたくのをやめた。
「お前たち、ぼくとはそれほど話したことがないな」
そう言われ、僕たちは顔を見合わせた。確かに、ロシニョールはいつも樹の上や空のなかにいて、スヴニールやエトワールが、僕たちの話し相手になることのほうが多かった。僕の肩で、代わりに返事をするように、ほんもののナイチンゲールが一声鳴いた。
「実のところ、ぼくは窓の外から、お前たちを見ていた。ぼくはスヴニールとそりがあわなかったから。賢いきょうだいができて、嬉しかった」
僕たちはまた顔を見合わせた。その言葉は、滅多に人を褒めないロシニョールの最高の賛辞だと思えたし、親しみと愛の証左ともいえた。しかし、それは──ロシニョールがそれを口にするということは、同時にはっきりとした不吉をまとっていた。ソワナの肩で、鴉が黒い嘴で鳴いた。
「ワタシたちも、あなたのような素敵なきょうだいがいて嬉しくて、誇らしいのですよ、ロシニョール」
「僕たちはあなたが飛ぶところを見ていた。あなたは自由だ」
僕たちが同時に口を開いて、ふたつの声がロシニョールに届いたのかどうか。数十秒の間があって、姿は見せないまま、ロシニョールは鳥の群れの真ん中から返してきた。
「スヴニールは死んだ。次はぼくかエトワールかはわからんが、どちらかだろう」
自分がまとう不吉を誰より理解している、透明な声だった。
僕とソワナは、ひばりや駒鳥やつばめに群がられながら、黙って塔の上のロシニョールを見上げていた。絶縁体をまとった無機質な僕たちに、彼らは小さな木にとまるようにとまっていた。ロシニョールの言葉になにも返すことはできず、言葉を知らぬ幼児のように身を寄せあった。
既に様々な生きた兵器たちが、戦争というものに駆り出されて次々と
翼の音も、風の歌も止んだ空の上で、ロシニョールが立ち上がる気配がした。彼の湾曲した、鳥の形をした脚の音が微かにする。いつも、窓の外から聴こえていた響き。懐かしい、きょうだいの思い出。
「お前たち、これからつらいだろうが、先に逝ったきょうだいの墓なんかをつくろうと思うなよ。
アンドロイドに、墓などないんだからな」
それだけ言うと、羽ひとつ残さず、ロシニョールは飛び立ってしまった。
この会話が、僕たちイデアールが、二番目のきょうだいロシニョールと交わした最後のものだった。
偵察飛行中に消息を絶ったロシニョールのチップが、海上で発見されたのは、その二週間後だった。彼の身体の一部とおぼしき破片が分子レベルに分解されてそのケースに付着していたところから、捕捉されて攻撃されたロシニョールは捕虜となって身体を暴かれることで機密を洩らすことをよしとせず、自爆を選んだと推測された。
ソワナは泣いた。にわか雨のようにピンクと銀の火花を散らして、夜のなか、ふらふらと研究所の庭の隅に僕をつれていって、一緒に重たい両足で土を均した。その上に、僕たちは、ロシニョールという名前と小夜啼鳥の絵をかいた。
「ねえ、少し気になるんだけれども」
「なんですか」
「土にかいた絵と文字は、墓として成立するのだろうか」
「知りませんよそんなもん。ワタシたちが墓っていえば墓ですよ。花だって、一日しか咲かなくたって花ですよ」
「ロシニョールの言葉、覚えているかい。覚えているね。信号が残っている。墓をつくるのは間違いだと」
「覚えてますよ。でもこっちの勝手でしょう。スヴニールもロシニョールも死んじゃったんだから、なにも文句言えないでしょう」
ぱちぱち、とピンクと銀の火花があふれる目元を、ソワナは乱暴にぬぐった。どう巧く形成しても、僕たちの指先は尖ってしまうから、そのしぐさによってソワナの顔に傷がつかないか僕は気になって仕方がなかった。
「そうだね。確かに、弔いも祈りも、生きている人の心により強く作用するものだ」
ソワナは無言で、ロシニョールの名前のとなりに、スヴニールという文字と薔薇の絵を付け足した。僕が黙ってそれを見守っていると、ソワナは僕の手をつかんで指先を土に押し付けた。
「僕はいい」
かぶりを振ると、ソワナは、少しためらってから僕の腕を離した。そして、自分の膝を抱え、小さく呟いた。
「あんたがあんまり白い唇をしてるもんだから」
言われて初めて、僕は、……片割れよりも僕のほうがより強く感情を抱くという現象があることに気づいた。
ソワナの、黒瑪瑙のような瞳をまだ覚えている。そこには僕がうつっていて、悲しみによる動作不良のためなのか、僕の顔はしかばねのように白かった。
ソワナの硬い指が、僕の頬に触れた。そのまま、優しく唇までをなぞられた。髪を除けられ、耳にかけられる。ソワナと僕はひとつの存在だから、ソワナの意思は僕の意思と等しい。だけれど、そのときは、違うと感じた。
ソワナは、ひとつの存在として、もうひとつの僕という存在を慰めているのだ。
僕も慰めを返すべきだった。それで僕たちは互いに鏡となり、対になるひとつの存在に戻れるはずだったから。
けれど、僕はそのとき、享受するというだけにとどめた。それは初めての感覚だった。
僕の頬に添えられていたソワナの手に、僕は自分の手を重ねた。何をするかはわかっていた。
ぱきぱき、と軽やかな音がして、僕たちの指先がひび割れていく。ふたりぶんの腕を分解した粒子で、僕たちは翼をこしらえた。青く輝く、ロシニョールの翼。薄くて、この世のものとは思えないほどに軽かった。
……ほら、これがロシニョールの羽根だ。ロシニョールのメモリーから型をとっているから、正確にこの薄さ、硬さ、輝きのはずだ……今は時間がないからこの指を一枚変えることしかできないが、要望と機会があればいつか、両腕を翼に変えてみせよう。
ロシニョールの声も、翼も、永遠に失われた。スヴニールの詩と同じように。
僕の持つ彼らのメモリーは、ゴーストに過ぎないのだから。
`Death is a great price to pay for a red rose,' cried the Nightingale, `and Life is very dear to all. It is pleasant to sit in the green wood, and to watch the Sun in his chariot of gold, and the Moon in her chariot of pearl. Sweet is the scent of the hawthorn, and sweet are the bluebells that hide in the valley, and the heather that blows on the hill. Yet Love is better than Life, and what is the heart of a bird compared to the heart of a man?'
─"The Nightingale and the Rose" Oscar Wilde
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