第5話 空色の出会い
朝早くに起きた僕は、暖かい陽射しの中、セイレンブルクの自然を堪能していた。
「森の中はいいな。人がいないし、静かで落ち着く」
街も落ち着いた雰囲気があってよいが、やはりこの緑の豊かさがこの国の持ち味だと思う。見つけた小川に近づき、その中で動き回っている魚を見つめる。
そういえば昨日は、宿で川魚を食べさせてもらったな。あの魚はこういう所から取っているのだろうか。
何度も思うことだが、セイレンブルクに来て本当に良かった。疲弊していた心も体も、少しずつ癒されているような気がする。今だけは、味わってきた苦しみも、孤立無援になってしまったという事実も忘れて、このまどろむような時に身を任せていた――
「誰かー!! 助けてー!!」
……困っているのは分かるが、もう少し後か、あるいは僕がいなくなってからにして欲しかった……。
森の中という状況を鑑みるに、おそらく獣にでも襲われているのだろう。
携えていた槍を持ち、声の聞こえた方へと急いで向かう。
「どうして襲ってくるの!? 私はただ友達になりたかっただけなのに~~!!」
今度の声はかなり間近に聞こえる。草木を掻い潜っていくと、薄い青色の髪をした若い女性と、彼女に向かってゆっくりと近づいていく大きな熊が見えた。すかさず熊と女性の間に割って入り、熊に向かって槍を構えた。
「え!? あ、ありがとございます!!」
「僕が槍を使って牽制するから、君はその隙に逃げて!!」
「え、えと、はい!」
彼女は少しためらった後、全力でその場から離れていった。
「……さて、どうするかね」
生き物を殺すことにそれほど抵抗はない。なるべく無駄な殺生は避けたいが、人を襲うような熊は別。この場で殺すべきだろう。僕にはそれができる。
槍に殺気を込め、致命傷を食らわすための隙を見計らう。
――さあ、いつでも来い。
「……がう」
すると意外なことに、その熊はすぐさま後ろを向き、森の茂みの中へと帰っていった。
「……ありゃ?」
これは拍子抜けだ。咆哮を上げて襲いかかってくるとばかり思っていたが、猛獣というのは案外諦めが早いものなのだろうか。
「あの! 大丈夫ですか!」
熊が去ってからしばらくすると、さっきの女性がこちらに戻ってきた。
「ん? 君、逃げたんじゃないの?」
「えと、そうなんですけど、心配になったので戻ってきちゃいました。……それに、元はと言えば私のせいなので……」
「君のせいって、どういうこと?」
彼女はしばらくの間ためらった。正確な時間は分からないが、気まずい空気が流れるぐらいには十分な長さだった。その雰囲気に耐えきれず、僕が口を開けようとした時、ようやく彼女は話し始めた。
「実は……」
* * *
「……あきれた。まさかそんなことをする人がいるとはね……」
話しを終えたその女性は、顔を真っ赤にしてうつむいている。
ことの
……これは驚いた。脱帽した。そんな価値観の人間が、ここまで生きてこれたということに対して。
「ほんとにごめんなさい! 私が
「いやいいよ。それに聞いた限りでは、あの熊にそれほど敵意はなかったようだしね」
セイレンブルクの生き物は、やはりとても温厚ならしい。だからこういう人でもやっていけるのかもしれない。
「あの! お詫びがしたいので、ぜひうちの喫茶店にいらしてください!」
「喫茶店? 君は喫茶店をやっているのかい?」
「はい! 妹と一緒に経営してるんですけど、お客さんからの評判もけっこういいんですよ~」
「そうなのか。じゃあお言葉に甘えさせてもらおうかな」
「ありがとうございます!」
彼女は人懐っこい笑みを浮かべ、とても嬉しそうにしている。
「あ! そういえば、お名前何て言うのですか?」
「ああ、レイオスだよ。君は?」
「私はマリヤって言います! 気軽にマリって呼んでくれるとうれしいです!」
少し気恥ずかしいが、要望されている以上断る気にもならない。
「そう呼ばせてもらうよ。よろしく、マリ」
「よろしくです! レイオスさん」
それからマリヤと共に森を抜け、街の中にある建物の前までやってきた。その建物の正面は彩り豊かな花で飾られており、思わず感心してしまうような美しさだった。
「ここが私達の喫茶店です!」
「へえ、ここが……」
「どうぞ! お入りください!」
「うん」
マリヤが開けてくれたドアから、店の中へと入っていく。店内もなかなか良い雰囲気だ。心踊らせるような鮮やかさと、我が家に帰ってきたような安心感が同時に込み上げてくる。
「今はまだ開店前なので、遠慮なくお好きな席に座っててくださいね~」
はしっこの席に座る。人がいないとは言え、やはり目立たない場所の方が落ち着く。少しすると、マリヤが水とお手拭き、それにメニューを持ってきた。
「なんでも好きなメニューを注文してくださいね!」
マリヤはにこりと微笑んでいる。
こんなに他者から親切にしてもらったのはいつ以来だろうか。幼き頃に捨てたはずの感情が少しだけよみがえる。
「そうだね……。じゃあこのハムトースとミルク入りコーヒーにしようかな」
「かしこまりました!」
注文を聞いたマリヤは、小走りで調理場と思われる場所へ向かっていった。
「……意外と様になってるな」
クマさんエピソードを聞いた時は、まともに生活できているのかすら疑問だったが、どうやら仕事はちゃんとやれている……のかもしれない。
「お待たせしました! こちら、ハムトーストと、ミルクコーヒーになります!」
お盆の上にのせられていた二品の食べ物が、木でできたテーブルにそっと置かれていく。
「とても美味しそうだね」
「そう言ってもらえると嬉しいです! コーヒーは妹のメアリとたくさん研究してるので、ぜひ味わってみてくださいね!」
「うん、頂くよ」
勧められたコーヒーをそっと口に含んで味わってみる。
コーヒーの苦みがミルクで中和され、まろやかな味わいとなっている。
だが特筆すべきは、コーヒーの苦みが単なる苦みに留まらず、もっと深く心を引き寄せるようなコクを醸し出している点だ。その深い味わいが、本来感じるはずのない甘さすら引き出しているように思われるほどだ。
「……本当に美味しいね、これ」
「本当ですか! お口に合って良かったです!!」
僕は苦すぎるコーヒーは得意じゃないので、普段コーヒーを飲むときは砂糖を入れたりミルクを入れたりしているが、このコーヒーならブラックでも楽しめるかもしれない。
コーヒーを飲んで一息した後、今度は美味しそうな香りを放つハムトーストを口にしてみる。
うん、これもなかなか美味しいな。
ハムトーストとミルクコーヒーを交互に味わい、ゆっくりと完食する。
「ごちそうさま」
「お粗末さまでした~」
空になった皿を、マリヤが取り下げてくれる。
「ありがとう。お代はいくらかな?」
「そんなのいいんですよ~。危ない所を助けてもらったわけですし」
「まあ、そう言ってくれるなら……。そういえば、この店は妹さんと経営してるって言ってたけど、他にも人を雇ったりしているのかい?」
「いえいえ、妹と二人だけで活動してます」
「そうか。それは大変そうだね」
「そんなことないですよ~。けっこう楽しくやれてます!」
にこにこ笑顔の彼女は、本当に楽しくやれてそうだ。僕も思わず頬が緩んでしまう。
「それならよかったよ」
ぎし、ぎし、ぎし。不意に誰かが階段を降りる音が聞こえてくる。
「あ、どうやらメアリが目を覚ましたようです」
「なるほど、この店の二階に住んでるんだね。僕はもう帰った方がいいかな」
「いえいえ! まだごゆっくりしてくれて大丈夫ですよ~」
「いやでも……」
そう言っているうちに階段を降りる音が途切れ、奥の方にあるドアが開いた。するとそこから、黄色い髪をした女性が出てくる。
「おはようお姉ちゃん。あれ、その人誰?」
「この人はね、私が森でくまさんを怒らせちゃった時に助けてくれたの」
「……どういうこと?」
それからまた、例の脱帽エピソードが飛び出した。ふむふむと話を聞いていた妹さんだが、次第に怒りをこらえるかのような表情に変わっていく。
「何あほなことやってるの!!」
「ご、ごめんなさいぃ~~」
「自分のことはまず置いといて、もしそれであの人が怪我したりしたらどうするの! ちゃんと考えて行動してよね!」
「ほんとにごめんなさい~~」
「ほら、私じゃなくてあの人に謝るの!」
泣きそうになっているマリを連れてこっちへ向かってくる。
「このたびは、うちの姉が迷惑をかけてしまい、まことに申し訳ありませんでした!!」
「も、申し訳有りませんでしたぁ……」
二人で謝りに来ているその様は、姉と妹と言うより、もはや母と子だ。
「いやもういいよ、本当に。メアリさんも顔を上げて。美味しいコーヒーとご飯も頂いたわけだし」
「ほ、ほら、レイオスさんもこうおっしゃてるわけだしね?」
「むー、お客さんがいいならいいんだけどさ……。お姉ちゃんは後でお説教だからね!」
「は、はひぃ~」
マリヤはもう涙目になっている。
なんと、さっきのは説教じゃなかったのか……。これでは、姉と妹との力関係が完全に逆転してい………ん?
「あれ? そういえば妹さんは髪を染めてるのかい?」
きょうだいなら髪の色も同じか似た色になるはずだ。
「え、この髪は地毛だよ?」
「そ、そうなのか。えーと、二人はきょうだい、で合ってるんだよね?」
「あ! いい忘れてました!」
マリヤがはっとしたように口を開ける。
「実はその、私とメアリは血が繋がってるわけじゃなく……。でも私にとっては妹同然なんです!」
つまり、いわゆる義兄弟と言うものなのだろう。
「……なるほどね」
少し驚いた。白の国サントニアだったらこんなことはそうそうない。なんとなくわかっていだが、この国の民は髪の色の違いに対しておおらかなようだ。
「髪の色と言えば、レイオスさんも変わった色をしてますよね~」
やはり髪の話になったらそこに行き着くよな……。
「ああ、これね。僕の母親は白の民なんだけど、どうやら父親はそうじゃなかったみたいでさ」
「え、ひょっとしてお客さん、サントニアから来たの?」
「ええ!? そうなんですか!?」
マリヤも妹さんもちょっと、いやけっこう驚いてる。予想してはいたが、面倒なことに変わりはない。話題が向かないようにもっと気をつけておくべきだった……。
「まあ、そうなんだよ。この国に憧れて、つい最近入国したんだ」
「そうだったんですか……。髪が白くないから気づきませんでした……」
そりゃ言ってなかったからね。聞かれない限り言うつもりもなかったし。
「へえ~お客さん、あの白の国から来たんだ……」
マリヤの妹が興味深そうに見てくる。
「お客さん。よかったらさ、サントニアのこと聞かせてよ。サントニアから来た人に話を聞ける機会って、あんまりないからさ」
「……そうだね。また今度来た時にでも話すとするよ……」
こんな風にあの国のことを聞かれるのが嫌というわけではないが、今はなるべく思い出したくないのだ……。
「メアリ、そのくらいにしときなよ。レイオスさん困ってるし」
マリヤが妹さんをたしなめた。意外と姉っぽいところもあるようだ。
「あー、そうだね……。ごめんねお客さん、迷惑かけちゃってさ」
「……いいんだ。気にしないでくれ……」
そうは言ったものの、やはり苦しい気持ちになるのは避けられない。あの国での日々は、やはり僕にとってはつらいものでしかなかった……。
「ご、ごめんね! なんか詮索しちゃってさ……。お詫びに、何かこの店の品を振る舞うよ!」
「え? いや、もうマリからコーヒーとハムトーストを頂いたわけだし……」
「まあまあ、そんな遠慮しなくていいからさ! 私にもお姉ちゃんを助けてくれたお礼させてよ」
見切ってはいたが、妹さんはやはり押しの強い性格のようだ……。
「……じゃあ、このホットケーキを一つ」
「かしこまり!」
「ごめんなさいね。メアリはちょっと元気すぎるところがあるから……」
「いや大丈夫だよ。むしろ感謝している。こうやって色々話せるのは僕としても嬉しい」
サントニアではこんな風にのんびり人と話すこともなかったしな。
「それならよかったんですけど……。レイオスさん、母国の話をしている時なんだか辛そうだったので……」
「……そんなことはないさ。気のせいだよ」
隠せていたつもりだったが、彼女は思ったより勘がいいようだ。人の感情を読むのがうまいのかもしれない。動物に対してもそうであって欲しいものだが……。
「それにしても、ずいぶんしっかりしてる妹さんだね」
「そうなんですよ~。私が困ってる時、いつも助けてくれるんです! そのぶん怒られるのもたくさんですけど、とっても頼りになる自慢の妹です!」
「ははっ、君が今日みたいに怒られてるのが目に浮かぶよ」
「ええ~。想像しないでくださいよ~」
そう言いながらも、マリヤは妹のことを自慢できて嬉しそうだ。僕も僕で、久々に声を出して笑ってしまった。
まだ出会ってからそれほど時間が経っていないのに、こんな風に仲良く話せるなんていうのは、実に不思議だ。今までこんなことはなかった。セイレンブルクに来たことで、僕の人生にも少しだけいい風が吹いているのかもしれない。こんな時間が続けばいいのに、なんてがらにもないことを思ってしまう。
「お待ちどおさん! ホットケーキだよ!」
調理を終え、こちらへとやって来た妹さんが、皿に乗せられたホットケーキをテーブルに置いた。
皿の上に重ねられたホットケーキには、メープルソースらしき物と、白いクリームのようなトッピングが添えられている。
「その白いのは、今、巷で流行りのクリームチーズだよ! 美味しいと思うから、ぜひ味わってみてね!」
「うん」
まず最初は、メープルだけを絡ませ、ナイフで切り分けたホットケーキを一口食べる。
うん、おいしい。暖かくてふわっとしてて、甘さも調度よく保たれている。いいデザートだ。
そのままいくらか食べた後、今度はメープルとクリームチーズの両方を織り混ぜて頂く。
もふもふしたホットケーキの食感とメープルシロップの甘さが伝わった後、クリームチーズのすっきりした味わいが口の中を透明にしてゆく。
「どうだい? お客さん」
妹さんがにこにこしながら聞いてくる。
「うん、最高」
「でしょ! これけっこう自信あったんだ~」
本当にうまい。コーヒーと言いホットケーキと言い、この店の品はたいしたものだ。
「それじゃあごちそうさま。今日はこのぐらいでお
席を立ち、出口へと向かう。
「レイオスさん、今日はありがとうございました」
「こちらこそありがとう。とても美味しかったよ」
それに、楽しい時間も過ごさせてもらったしね。
「またいらしてくださいね! 異国の地だと困ることもたくさんあるでしょうし、相談に来てくれれば、いつでも力になりますから!」
「ありがとう、また来るよ」
別れの挨拶を交わし、店を後にする。
優しい風を感じながら歩き続けて、ふと上を見上げてみると、翳りひとつない、透明な青空が広がっていた。
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