第二十八話 託された、想い。
『行きましょう! 将太君!!』
『ああ!』
立ち上がった私たちに雨守先生は念を押す。
「いいか?
二人のことは『誰も知らないまま』の状態を守れよ?
深田も姿を見せるようなことはするな!」
『はい!』
そのまま私たちは飛び上がって階上の図書館に移る。ずっと同じ場所で朋子さんは小さくなっていた。握りしめたすまーとふぉんを、じっと見つめて。
『それにしても。』
二人で朋子さんの背後に回りながら、将太君は不意に小さく笑った。
『なに?』
『あの堅物だった薫姉ちゃんが。
よくこんな子どもができちゃったなんて話、すんなり受け入れてたね?』
『そ、それは、将太君よりこの時代の経験だって、長いもの!』
……そうじゃないわ。本当はわけがわからないくらい今も動揺してる。
だって子どもを産むって、契りを交わすこと……儀式とまではいわなくても、結婚して最初に迎える「大切なこと」だと思っていたもの。
でも、るみちゃんが毎晩描いてるあんな絵を見ていて……自分だってその行為に好奇心が強くなっていくのは確かだったし。それ以前に雨守先生に接吻した時だって、もし、もしもあのまま気持ちを押さえられなかったら……うううん、本当に抱きしめて欲しいって思っていたもの。
好いた人となら、私も赤子を授かりたかった? ええ、それはきっとそうだわ。
将太君が、私にそれを望んでいたなんて。
驚いてしまったけれど、でも。
私は嬉しかったんだ。
死んだ身で、例えそれは叶わなくても。
『薫姉ちゃん。』
『え?』
今度は将太君は笑いもせず、真剣な目を私に向けていた。
『俺は和真を信じるよ。だからこの朋子も俺が守る。』
『うん! そうよね! 将太君にしかできないもの!』
『だからってんじゃないけど。』
いきなり将太君は私を包むように体を重ねてきた!
びっくりしたのと同時に、いままで経験したことのないような、穏やかで優しい、心地よい感覚に全身が浸っていく……。でも。
『なにをするの?』
恥ずかしさから体を離してしまった。将太君はそんな私を見みつめながら静かに笑った。
『ありがとう、薫姉ちゃん。
俺が俺でいるうちにって、俺の我儘だよ。
嫁さんにはできなかったけど、大好きだった。じゃあね。』
そう言うと将太君の姿は、私の目の前で、すうっと消えてしまった。
『将太君ッ?!』
その瞬間、朋子さんはびくっとしたようにお腹にそっと手を当てた。
「動いた?
まさか……まだそんなに大きくなってないはずなのに!」
将太君の魂が今、お腹の子に宿ったんだわ。まるでそれが分かったかのように、朋子さんは深く頷いた。
「うん。私が弱気になっちゃだめよね。この子のために。
かず君、私はあなたを信じてる。
人にどんなことを言われても、私も逃げないから。」
雨守先生が私の体をとおして、私の思い描いていた将太君の姿を彼に具現化できたんだから!
きっと私は今の朋子さんの思いも和真君に伝えられる!!
将太君、今度は私の番よね?
朋子さんの肩に手を置き、そのまま彼女の胸まで沈める。今の朋子さんの気持ち、確かに受け止めたわ!
同時に和真君がいる場所はすぐわかった。国語研究室!
るみちゃんが補習を受けている教室を間においているから、そこに行くのは十分可能だわ。
次の瞬間、飛び込んだ国語研究室の真ん中には、あの武藤先生とさっき写真で見た和真君が椅子に掛けて向き合っていた。
和真君のワイシャツは、ところどころにシミが。これって、機械油? 働いていた町工場からそのまま来たのね。
と、武藤先生は目つきこそ最初から鋭かったけれど、さらに威圧するかのように語気を強めた。
「高卒と大卒では収入だって全然違うのよ?」
「く……。」
その言葉に、和真君は膝においた拳にぎゅっと力を入れた。お金が必要なのは、変わりないもの。
武藤先生の言葉に和真君の瞳は揺れていた。
私は和真君の肩に手を置く。
ねえ、わかるでしょう和真君! これ、朋子さんの想いよ?!
彼女の声で彼女の言葉どおり、そのまま渡すわ!!
すると和真君はぎゅっと閉じていた眼を大きく開き、顔を上げてまっすぐに武藤先生を見た。
伝わったんだわ!
武藤先生はそんな和真君に一瞬驚いたように体を引いた。でも、すぐに畳みかけるように和真君に詰め寄った。
「あなたの成績で就職なんてもったいないのよ!
いい? センター試験は受けなさい!!」
「武藤先生は。」
力強い和真君の声に、武藤先生はまたも一瞬体を引く。
「なによ?!」
「僕が将来どうしたいかなんて、一度も聞きませんでしたよね?」
「あら? そうだったかしら。
どうするもなにも、いい大学に入ってからいくらでも選べばいいのよ?
安易に入れるようなところじゃダメなの。
あなたにはその実力があるのだから受けなさい!」
「わかりました。受験すればいいんですね?
先生の望みどおりの大学は受けます。」
その言葉に武藤先生の表情は一転してほころんだ。
「そう? なら、それでいいわ。」
「でも、僕は就職しますから。いいですね?」
「いいわ。
事実、学費もあなたの家には大変でしょうから、それ以上無理強いはしないわ。
その変わり、落ちて私の指導経歴に泥を塗らないでね?」
「わかってます。」
すっと席を立った和真君は、一礼すると胸を張って研究室を後にした。そして戸を閉めるなり、ほっとしたのか大きなため息をつく。
でも、また顔を上げた時は晴れ晴れとした、決意をもった表情だった。
その後、しばらくして。
和真君からの着信を知らせる画面に、朋子さんはぴくっと身を起こした。
そしてまた司書さんの目を盗むようにして図書館を後にする。
私は今日最後の補習の授業を受けているるみちゃんの教室の廊下に移り、そこから外を見下ろした。
駐輪場に隠れた朋子さんの、改めて電話に向かう微かな声が私には聞こえる。
やっぱり安心したのか、それは涙交じりにうん、うんと何度も頷いていた。
やがてまた朋子さんは駐輪場から顔を覗かせて、左右を見回し、人がいないことをたしかめると、そのまま小走りにかけていった。
慌てないでね。転ばないように。
将太君を、よろしくね。
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『将太君、朋子さんのお腹にいっちゃいました。』
私は一人、美術準備室に戻っていた。雨守先生は穏やかな声をかけてくださった。
「産まれたら、もう今までの記憶はない。君の思い出も。
新しい名前をもらうからな。
深田、寂しいんじゃないか?」
『そうですね。でも、私は大丈夫です。』
顔を上げてそう答えた。先生も静かに一言だけ返してくださった。
「そうか。」
人に好きになってもらえるって、こんなに嬉しいことだったんですね。それを私に教えてくれた将太君のこと、私は忘れませんもの。
「ああ~ッ 雨守先生~、慰めて~ッ!」
いきなり私の後ろ、開けっ放しだった準備室の入口から、るみちゃんは倒れ込むように飛び込んできた。
「なんだよ、暑苦しいな。」
「この暑い中、一日補習だったんですよぉ? それも苦手な科目ばかり~。」
煙たがる雨守先生に、るみちゃんは泣きごとを言う。ようやく終わったものね(初日が。あと三日よ?)
すると隣の美術教室から正木さん、副島君も入ってきた。
「なーに? 浅野! 苦手で点取れないから補習受けてるんでしょうが?」
「お前、そろそろ進路真剣に考えないと! 来年苦労するぞ?」
二人に呆れられ、るみちゃんは頭を抱えながら喚いた。
「だから私のおつむは、まだそこまで辿りついていないんですってば~。」
るみちゃんは、この先、誰を好きになって、どんな未来を築くのかしら?
和真君、朋子さんを見ていたら、そんなことを楽しみに感じてる自分に気がついた。
私、ずっと見ているから。
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