★3-5:嵐の夜に

 二人が海辺の小屋に棲みついてから、十数日が経った。


 あれから小屋のよほど近くまで嵐が来ているのか、外は風が吹き荒れ、窓枠がバタバタと忙しく揺れている。

 天井からの雨漏りも激しく、染み入る雨水を受けるためにと、部屋のところどころに置かれたお盆から、水滴が金属に当たって跳ね返る音が、小気味よく鳴っていた。


 そんな雨音の溢れる部屋で、柔らかな座椅子に一人くつろぐのは、獣人パロン。もはやここでは服など着るつもりも無いのか、その白い裸体を堂々と晒している。

 机の上には甘い林檎の香りが匂い立つ果実酒と、栞の挟まれた本が置かれていて、それらはいずれも彼女が小屋の中を探して、地下倉庫らしき場所から見つけてきたものだった。


「ふぅ……」


 長い睫毛に縁どられた目を開くと、満月のように幻想的な銀色の瞳が現れる。閉じていた本に手を伸ばし、栞の挟まれたページを開く。そして横目でチラリと、彼女はベッドの方を伺う。曇りのない瞳の中央に映るのは、静かに寝息を立てて上下する、人間大に盛りあがった布団。

 しばし眺めて、パロンは悩まし気なため息をつくのだった。


「はぁ……彼、思ったより早く治っていますわね……。ざんね……いえ、そんなことを考えてはいけませんわね……」


 変化術を使って彼女が臓器の肩代わりをしてあげなくとも、ヴェニタスは自力で最低限の身体維持機能を果たすまで回復し終えていた。あの不死鳥にやられた傷を癒すためにパロンが寄り添っている必要性は、もう無い。

 彼女はそれが気に入らなかった。


 椅子に腰かけたまま、果実酒の入ったカップを手に取って、軽く傾け一口だけ飲む。


「雨、続きますね」


 カップから口を離すと、そっと語りかけるように呟いて、物憂げに窓の外を眺めた。


「飲みます? お腹、流石に空いているでしょう?」


 引き続き語りかけるが、返事はない。

 やがて、大きなため息をついた。


「はあ」


 そうそうに、彼女はカップと本をテーブルに置いて、立ち上がった。

 寝息を立てるベッドの方へと、速足で近づいていく。


「妻が話しかけているのに、寝たふりですか」


 パロンは布団を掴むと、一気に引き剥がした。


「ぐ……」


 部屋の隅まで布団を放り投げて、彼の姿を一望する。

 そこに転がっていたのは、筋肉質な体を芋虫のようにずり動かしてパロンから逃げようとする、四肢不具の男。腕と足の根元まで、両手両足は綺麗さっぱり彼女によって喰い尽くされて、達磨のように変わり果てていた。


「お可愛い姿ですこと」


 十数日に渡る彼女の変化術による治療の結果、首から下まで神経がつながったのか、ようやく体を動かせるようになっていた。ただ、動かせる部分というのは、これもまた、彼女の手によって、残念ながらほとんど無くなっているようだった。


「うふふ」


 彼女はうっとりと頬を歪めると、ふさふさの尻尾を激しく振りながら覆いかぶさり、逃げるヴェニタスを上から捕まえた。


「もうずいぶんと、何も食べてないでしょう? 水分を補給しないといけませんわ」


 てらついた唇を差し出す。先程まで口に含んでいた果汁酒の香りを匂わせて、粘性を持った唾液が雫となり、口端から細長く垂れている。

 ヴェニタスは、げんなりとした顔をする。


「……いらない」

「あ、それって新手の愛情表現ですか? はいはい、またそうやって誘うんですね。分かりました分かりました。もう、もっと素直になってくれてもいいんですよ?」

「……そうじゃない」


 短い一言ですら、上手く伝わらない。彼女はもはや何を言われようが、我が道を進む。


「ほら、ちゃんと飲んで栄養をつけないといけませんわ」

「ならそこのテーブルにある果実酒をくれ……。何をどう考えれば、俺の飲み物がお前の唾液になるんだ……」

「アルコールよりは、わたくしの愛の方が貴方の体にいいかと思いまして」

「ふざけ――うっ!」


 馬乗りになって、覆いかぶさりながら、口移し。ついでに貪るように口内を蹂躙する。果汁が口端からこぼれ、首までつたう。林檎の甘い匂いが支配する。

 口を離すと、水滴玉の橋を相手の口に架けながら、余裕の顔で笑う。


「ほら、呑んで」

「……」


“――呑まないと、また首を絞めますわよ“


 びくり、とヴェニタスの動きが止まる。

 パロンはそんな彼の首元で囁き、喉仏を繰り返し優しく舐め上げる。

 彼女はやがて、こくりと彼の喉が嚥下する動きを、舌先で感じ取った。


「あ、ああ……新入り、もういい加減にしてくれ、もう十分だ」

「はい、また間違えましたね。新入りじゃなくて、パロンですよ、パロン。んふふふ」


 冗談めかした声色で、機嫌よく歌うように言葉を紡ぎながら、彼の頬に右てのひらを添えて、柔らかく微笑む。


「っ……!?」


 その笑みは、この十数日をパロンと過ごしたヴェニタスにとって、身を焼いた不死鳥の業火よりも恐ろしいものだった。このままでは尻尾で首を絞められ、口を手でふさがれ、鼻は唇で覆われて呼吸を奪われる。幾度も繰り返されてきた“おしおき”を躊躇なく実行されてしまうのだから。


「ぱ、パロン……」


 ヴェニタスはひどく焦燥していた。度重なる強要と拷問に精神がすり減り、思考がぼやけていた。彼女に対しての怯えも混じり、ひとつ屈してしまった。


「はっ、はあああああっ! えへ、えへへへへ、やっと……やっと言えましたわね。この口が、わたくしをそう呼ぶのに、随分と時間がかかりましたこと!」


 パロンは顔を真っ赤に染めて、狐耳をぺたりと倒すと、ひととき満足そうにぶるぶると震えた。彼の頬に当てた手の位置をゆっくりとずらし、彼の唇に親指をひっかけて弄ぶ。


「あ……ああ。だからパロン、もう、いいだろ? こんなことはもう……」

「いいえ。それとこれとは別ですわ」


 彼女は嬉しそうに髪をかき上げ、いそいそと裸体を密着させ、火照った顔を急接近させた。

 嵐が強まっていく。

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