19、葛藤――それぞれの想い
―――
研次はいまだに彼女の気配が残る玄関先で、ボーッと突っ立っていた。
「…春香…さん。」
口の中で呟いてみると、その言葉の響きの心地良さと胸の高鳴りに自分で驚く。
そしてどんどん煩くなった心臓の鼓動を押さえるように、片手をそっと胸に当てた。
自分の気持ちはもう既に決まっている。この痛いくらいの鼓動が証拠だ。
きっと初めて会ったあの日から、彼女に心奪われていたのだろう。可愛らしさの中にある芯の強さに、どうしようもなく惹かれたのかも知れない。
だけど自分はただの弱虫で、そのくせプライドだけが高くて……
傲慢ですぐにカッとなるタイプだった。
十年経ってそんな自分を変えようと誰も知らない街に行って大人しく生きると決めたけど、そう簡単に人は変わらない。突然良い人になんてならない。
自分の奥深くに隠し持った衝動を、いつか彼女の前に晒してしまうかも知れないという恐怖が研次を躊躇わせていた。
そして研次に次の一歩を踏み止まらせていた原因はもう一つあった。
それは、春香に初めて会った時から感じていた違和感というか既視感の存在。
先程の背中がいつか見た光景の中にあったような気がするのだ。
いつだったかは思い出せないが……
「俺はもう、普通の幸せなんて望んじゃいけないんだ…」
それだけの事をしたのだから。一人の人の人生を、台無しにする程の事を……
「…ごめんなさい…ごめんなさい……!」
冷たい玄関の床に膝まずいたまま、研次はいつまでも謝罪の言葉を口にしたのだった……
春香はソファーに投げつけた鞄の中から微かに鳴っている携帯を慌てて掴んだ。
『お兄ちゃん』の表示に、何かあったのかと急いで出る。
『春香か?』
「私じゃなかったら誰よ。」
慌てて出た事が何となく恥ずかしくなって、春香はわざと冷たい物言いをする。それに対して機嫌良さそうに笑った兄に内心ホッとした。
以前兄の携帯で看護師から電話がきた事があって、体調が思わしくないとか病院の廊下でリハビリ中に転んだとかいう内容だった事を思い出して心配したのだ。
しかし取り越し苦労だったようだ。まだ笑っている兄に少々腹が立った春香は、わざと聞こえるように咳払いをした。
「で?何か用?」
『父さんに会ったよ。』
「…え……?」
『お父さん』という懐かしい響きに、一瞬声が出なくなる。脱力した体はそのままソファーに吸い込まれた。
「うそ……」
『嘘じゃない。病院に来たんだ。まったく…手ぶらで来るなんてケチだよな。17年ぶりの再会だっていうのに。』
「え…ちょっと待って。お父さん生きてたの?」
『あぁ、元気そうだったよ。まぁちょっとやつれたかな。歳もとったし。』
何でもない事のようにそう言う兄に、段々怒りが沸き起こる。まだ喋り続けている陽気な兄の言葉を遮るように大声を上げた。
「ちょっと!そんな事よりお父さんは?今そこにいるの?」
『いや、もういない。ついさっき帰った。っていうか、これから何処に行くつもりなのかもわからない。』
「はぁ?」
『春香。詳しい事は会って話そう。今日は休みだろう?今から来れるか?』
どうやら電話ではできない込み入った話のようだ。春香は先程までの威勢はどこへやら、小さい声で『わかった』と呟いた。
「じゃあ今から行く。」
『わかった。気をつけて来いよ。』
「うん……」
『ピッ』と短い音をたてて通話が切れる。
春香は呆然としながら、切れて画面が真っ黒になった携帯をしばらく見つめていた。
―――
父との思い出はそんなに多くはなかったが、記憶の中の父はいつも優しかった。
厳しい一面もあって兄を叱っている姿は何度か見たけど、自分に対してはそういう所は一切なく、怒られた事はあまりなかった。
体が弱かった母の事をいつも心配して、どんなに忙しくてもほとんど残業なしで帰ってくる程優しい人だった。
そんな父を母は心の底から大切に想っていただろうし、父も母の事を愛しているんだと信じて疑わなかった。
両親が離婚すると知らされた時、何かの冗談かと思った。
『そうだ、今日はエイプリルフールだ!』ってカレンダーを見て笑い飛ばそうと思ったのに、4月はとっくに過ぎていた。
口を開けて固まる春香に向かって涙ながらに言った母の言葉を、自分は一生忘れないだろう。
『ごめんね。こうするしかないの。ごめんね……』
『ごめんね』……?
そんな事言うくらいなら別れて欲しくなかった。いつまでも家族仲良く暮らしていきたかった。それなのに……
子どもの自分から見ていても、お互いに嫌いになった訳じゃないのはわかっていた。
きっとまだ二人は想い合っているのに……
何で?どうして…?って何度も心の中で繰り返していた。
あの時まだ9歳の春香には、離れていく両親の真意が理解できなかった………
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