5、混沌――絶望




 透は何日も深い深い混沌の中にいた。そこには闇がずっと果しなく続いていた。透の知らない不思議な場所だ。

(俺はいったい…ここは何処だ?)

 そう思った瞬間目の前が明るくなり、透は眩しさに目を瞑った。

『透…』

「え…?今の声は……」

 恐る恐る声のした方を見た透は、驚き過ぎてしばらく口がきけなかった。

「…母さん……」

 五年前に亡くなった母がそこに立っていたのだ。

「どうして…」

『あなたに会いに来たの。』

「俺に…?」

『あなたは今、生死の境をさ迷っているのよ。』

「あぁ…そうだ。俺はあの時……」

 透は思い出した。昼下がりのコンビニで強盗に刺された事を。

「あいつに刺されたんだ!確か左足を……」

 透は刺された所を見ようと顔を下げたが、そこには何もなかった。触っても何の感触もない。

 もしかしたら自分はもう助からないのかと不安になり、目の前の母を見た。

 彼女はあの頃のまま、つまり五年前に亡くなった時のままだった。

 もちろん死んでいるのだから変わりようがないとわかっているつもりだったが、いざそのままの姿形で目の前にこられると正直戸惑ってしまう。けれどそれは一瞬の事。今の高校生になった春香とそっくりな母の顔を、透は懐かしい気持ちで見つめていた。


『透、あなたはあのを置いて一人だけこっちの世界にくるには早すぎるわ。まだ希望はある。そんなに簡単に諦めちゃダメ。』

「………」

『本当はまだまだ生きなくちゃいけないの。あのを一人にしないであげて?』

「母さん……」

 透の頭の中に可愛い妹の姿が現れては消えていった。

『私の代わりに春香を…守ってね。』

 透は寂しそうな母の顔をしばらく見つめた後、はっきりと頷いた。

「わかった。」

 そう言いきったのを聞くと母は微笑んだ。

 そして――静かに消えていった。

 透は母が消えていった場所をしばらく見つめると、ふっと息を吐いて目を瞑った……





 ゆっくりと瞼を開いて一番最初に見えたものは、白い天井だった。半ばボーッとする頭で二、三度瞬きをした。

「お兄ちゃん!」

 何処かから声が聞こえ、透はその方に顔を向けた。

「お兄ちゃん……」

「…はるか…?」

「ええ、そうよ!良かった…お兄ちゃん!!」

 妹の春香が手に持っていた花瓶を脇のテーブルに置くや否や、思いっ切り抱きついてきた。

「うわっ!春香…いたた…

 」

「あ、ごめん!怪我してたんだった…。そうだ、先生呼んでくるね!」

 そう言うと、春香は慌ただしく出ていった。

「ふぅ~…」

 透は体を布団に押しつけ、ゆっくりと息を吐いた。

(生きてる…俺は……。そういえば夢で確か…)

 目覚める前に見ていた夢を思い出した。五年前に亡くなった母が出てきて、自分を救ってくれたのだ。

(ありがとう…母さん…)

 透は感謝の気持ちを噛みしめながら心の中でそう呟いた。


「お兄ちゃん?先生が来たわよ。」

 その時、春香がドアから顔を覗かせた。後ろから白衣を着た医師が病室へと入ってくる。軽く会釈をしてきたので、透もベッドの上で上半身を起こしながら会釈を返そうとした。

「うっ…!」

 体が思うように動かない。そのままベッドに沈んだ。

 太腿の辺りが焼けるように痛い。

「くっ!…つっ……」

 もう一度起きあがろうとするが、やはりうまくいかなかった。

 激しい痛みに顔が歪む。下半身がズキズキと痛くなってきた。

 透は傍に立っていた医師をすがるような目で見た。

「佐伯さん…大変心苦しいのですが…。ナイフが思ったよりも深く、靭帯まで損傷していました。これから出来る限り手を尽くして治療に臨みますが、貴方の足はもう……。リハビリの成果によっては将来歩くところまで回復する可能性はあります。しかし、今のところは何とも……」

「そんな……」

 歯切れが悪くなる医師を愕然とした表情で見返す透。そんな兄を春香は決意のこもった眼差しで見つめていた。

「…お前は知ってたのか?」

 透は妹を見た。嘘だと言ってくれ……そんな想いで…

「うん。手術した後、この川崎先生に。最初は信じたくなかったけど……」

 疑いようのない事実に、透はベッドの上で沈痛な面持ちで目を閉じた。

「でもね、お兄ちゃん!私がずっと傍にいるから!だからリハビリ頑張ろう?私が一生、一緒にいるから…」

 春香がすがりついて、顔を涙で濡らしながらそう言った。

 透はそんな妹の頭を優しく撫でながら心の中でため息をつく。

 妹を守ると母に誓いながら、逆にその妹に励まされるとは……。自分が情けない。

「あぁ、頑張ろうな。一緒に……」

 透は涙を堪えながらそう言った……




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