霧の街、桜の下。

第1話

 白い世界で息を止めていた。

 どれほど周りを見渡したって先は見えない。退屈さに任せておもむろに伸ばした手が白に飲み込まれて見えなくなる。それほどに深い、見渡す限りの白い海原の中、ここがどこなのかすら見当もつかない霧の中に、僕はいた。わかるのは建物の中ではないということと、何かの樹の真下だということ。背中を預けている茶色くて粗い幹の表皮を手で撫でてみる。快い心地はしない。ザラザラとした表皮は少し強く擦ればこの手に傷を作るだろう。けれど、他にすることもない。何となく幹から腰を浮かして、すぐにまたもたれる。少しでも何かに縋っていないと、拠り所を持っていないと、霧に連れ去られてしまいそうだった。それが怖くてここから動けずにいた。

…何も見えない、ただただ真っ白な世界、というのは存外に恐ろしいものだ。自分以外の生き物がいなくなってしまったのではないかという焦燥に駆られたことも一度や二度ではない。けれどこの樹があるから、僕はまだここにいるんだと確かめられる。その確認に、意味があるのかなんてわからないけれど。


ああ、いつからこうしているんだっけ。


 気の遠くなりそうなほど繰り返した問いをまた浮かべて溜息をついた。上を見ても下を見ても白い靄があるばかり。気が狂いそうになりながら、それでも僕がまだまともで居られるのは、多分この現実から逃避を続けているからに違いなかった。…どうしようもないほどに浅はかな望みを反芻しながら、ただ一人のひとを眼前の霧の向こうに描き続けたから。

叶わないとは自分でも思っている。けれど、望まずにはいられない。


──もし、願いが叶うなら。


 また飽きもせず、僕は望みを反芻する。

 もし、この願いが叶うのなら、君に会いたい。我慢強くて、でも脆くて、一人を貫く強さを持っているくせに、寂しがり屋な、笑顔がかわいい、君。その姿を瞼の裏で思うたび、小さな声で君の名前を呟いてため息をついた。

僕のため息に呼応するように、白い靄がうねって一人のひとの形をつくる。

揺れる長い髪。凛とした聡明な瞳。まっすぐ伸びた背筋。僕を見つめて緩む頰。折れてしまいそうなほど細い身体。消えてしまいそうなほど儚い白い肌。

あの頃と同じその姿にその腕を掴もうと手を伸ばす。

白い肌に指が触れて、白い靄がさっと散る。そこにあるのは元の何もない白だけ。

わかっているさ。毎日毎日、目の前に現れる彼女は自分の作った幻想だ。

わかっているさ。…それでも。

それでも、散るとわかっていても、白い靄に手を伸ばさずにはいられない。


──君は今、どこにいるのだろう。


白い世界で僕は思う。君の今を、君の姿を、思い続けている。


 退屈でたまらない時間も、茶色い幹を背もたれにして目を閉じていれば過ぎていった。まあ時間感覚なんてもうほとんどないのだから時間をつぶす意味なんてないのかもしれないとは思っているのだけれど。でもそう思っているくせして、僕はまたこうして目を閉じてぼんやりとした過去に思いを馳せているのだから、滑稽といえば滑稽かもしれない。休息にもなり得ない逃避。目を閉じてはいるからといって眠っているわけではなかった。眠ることは極力避けていた。ずっと何かを考えていた。描いていた。こんなにも先の見えない海の中で眠ってしまったら、知らぬ内にどこか遠くへ行ってしまうんじゃないかと思っていた。消えてしまうのが怖かった。

目を閉じたって朧げな過去はその輪郭すらまともには見せてくれない。ただ一人の少女の姿だけが鮮やかに蘇っては消えていく、その繰り返し。

なんて醜い執着だろう。自分でも呆れるほど箍の外れた思考に、何度目かもわからないため息をつく。そんな時ですら眼前の白い霧は君の姿を形作る。

そして僕は、また、君の幻影に手を伸ばした。

──偽物だ。わかってるさ。

呟きながらグッと握って白い霞を揺らした掌に、微かな感触がした。

ああ遂に幻覚が触覚にまで及ぶようになったのか。呆れを通り越して最早悲しくなってきて、僕は双眸を覆うように握った拳を開いた。

ひらり。

掌から溢れた何かが僕の眉間に着地する。

…最近の幻覚はリアルなのか。それとも僕の頭が遂にいかれてしまったのか。そう思いながら、そっと眉間に落ちたそれを摘まんでみる。

白い雪のようなそれは、よく見ると仄かに色が付いていた。

いつか本で読んだ。限りなく白に近いのに少女の頰の色のような赤みを微かに孕んだこんな色のことを確かこう言うのだ。


「さくら色…」


 僕のその言葉が引き金になったように、ひらりひらりと同じようなものが頭上から一枚、二枚、と舞い落ちてきた。三枚、五枚、十枚、どんどん増えていく。スピードが増していくように見える。一枚の落ちる速度は多分変わっていないのだろうけど。二十枚、五十枚。こういう増え方を指数関数的と言うのだろうか。百枚、二百枚、もう数え切れないほど。落ちてくるそれはまるで霧を吸い込むようにして僕の周りに降り積もる。どんどん白が桜色に変わる。白が消えていく。…夢のような景色、と言うのは余りにありきたりな表現だけど、もしそんな景色が存在するのならそれはこんな景色に違いない。

そんなくだらないことを考えて樹の幹の先を見上げた。無数の桜色が広がっているその遥か彼方には全てを吸い込んでしまいそうな青色が見えた。…空なんて、いつぶりに見ただろう。そうため息を漏らして、雪とは違う、小指の爪ほどの大きさのそれの名前を僕はようやく思い出していた。

「桜の、花びら…。」


──頭上から舞い降りては霧を掻き消していく花びらを、自分の目の前で掴み取る。


『桜の花びらが地面につくまでに掴めたら、願い事が叶うんだって。』


いつか言われた言葉を思い出していた。いつまでも胸を焦がす眩しい笑顔。


──僕は、君に会いたい。君をもう一回、抱きしめたい。それ以外の願いなんてない。


飽きるほど繰り返した望みをまた呪文のように胸で唱える。

なあ、もし本当なら叶えてくれよ。奇跡でもって、この愚直な願いを。

透き通るような青空に映える満開の桜の樹の下で、僕は小さな花びらにそっと口付けた。

花びらの雨はいつの間にか桜吹雪に変わっている。

この場所で初めて感じる穏やかさに浸りながら腰を下ろす。…なんだか、眠くなってきた。

いつもなら眠るのは怖いけれど、今は不思議と怖くない。

心地のいい桜吹雪の中、僕はいつの間にか瞳を閉じていた。



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