05. 負け組の来た道(1)

 困った、と思った。

 机を挟んだ正面に座るリュシアンの無表情が、怖い、と思った。


――何を考えているかすぐに分かんないというのは結構怖い!


 頬が引き攣る。

 昨日の無表情の裏に何があったのかは、もう十二分に分かっているつもりだ。

 書いてもらうことがこんなに重たかった、だなんて。

――ペアを組んでもらえて嬉しかった、なんて。

 喋っているのとは違う感触。何度も何度も読み返したから、変に勘ぐってしまう。

――別に、わたしじゃなくても、リュシアンはペアを組めた…… わけじゃないよね。

 仕方なくだもん、と無言で呟いて、首を振る。

――なんてことを考えているんだろう。

 いろいろと、自己嫌悪。両手を前に投げ出して、突っ伏す。

 その爪の先にぬくもりを感じて顔を上げれば、リュシアンと目が合った。

 静かな、静かな青。

 心臓が跳ねる。

「えっと……」

 顔だけ上げて、見つめ返す。

 その向こうは並ぶ本棚。図書室は今日もごった返しているのに、二人の周りは静かだ。

「ええっと、だから…… テーマを決めなきゃ、ね?」

 そう言って、胸と机の間に挟まれてしまった手帳を引きずり出す。

「あなたの言うとおり、鉄道の話にしましょうか」

 手帳をリュシアンが手に取るのを見届けて、突っ伏す。

 そのまま、もごもごと。

「わ、わたしも返事と、それと…… お願いを書いたから…… その…… よろしくお願いします」



 賑やかな口があるのに直接言えないなんて、とんでもない臆病者だ。

 自己嫌悪が、溜まっていく。




――親愛なるクロエ。


 貴女にも書いてもらえるとは想像していなかった。

 こんな字を書くのだと知れて嬉しい。

 貴女のことで、昨日から嬉しいことばかりだ。


 だけど、落ち込むこともある。

 僕は確かに喋れない。そのせいで貴女に不快な思いをさせることを避けるすべを、僕はまだ思いついていない。

 もっと素早く返事を返せればいいのにと、もどかしく感じている。



 お願いについても分かりました。

 君のご家族にあいさつに行くこと、喜んで、お伺いします。

 もちろん、ここでも僕が口を利けないせいで不快な思いをさせてしまうだろう。

 ご家族はもうお聞きなのだろうか。どう感じておいでだろうか。

 だけど、貴女が僕を紹介すると決めてくれたことを信じて、付いていきます。



 リュシアン――




 週末、二日連続のお休み。朝食を食べたらすぐ出発だ。



 花の都ル・キャトル・ヴァンの東端、サンラザール駅。西から来た列車が東に抜けていくところ。

 今もまさに、蒸気機関車が滑り込んできたところだ。

 ボンネットが浮く。

「ひゃあ!」

 両手でそれを押さえたから、旅行鞄がどさりと落ちた。

 それを、白い手袋を嵌めた手が静かに持ち上げる。

「あ、ありがとう」

 リュシアンは表情を変えずに、頷いた。

――は、反応が返ってきた!

 今日も白いシャツに、紺色の胴衣ジレ細袴パンタロン外套ルタンゴトは同じ色の、綾織りが目立つ厚手の生地だ。蜂蜜色の髪が映える、凛々しい姿。

 頰が熱くなる。

 そんなリュシアンは、すたすたと両手に鞄を下げたままホームを歩き始めた。

「待って!」

 ラズベリー色のドレスの裾を持ち上げて、走る。

「荷物、わたしの分!」

 すいっと振り返ったリュシアンは、こくん、と頷いて、前を向き直ってまた真っ直ぐに行ってしまう。追いかけようとしたら、ショールが肩から滑り落ちて、あたふたと掬い上げる。

「荷物、荷物! わたし、持つから!」

 喧噪に負けじと叫ぶが、彼はどんどん歩いていく。

「待ってよー!」

 ホームで煙を吐き出す機関車の傍を抜けて、客車へ。

 まだ空いていた席の前へと彼は進んでいって、やっと振り返ってくれた。

「ええっと……」

 彼は通路に立ったまま。

 立ち止まると後ろから押された。

「邪魔だよ、がきんちょ!」

 恰幅の良い三揃え姿の男がリュシアンも突き飛ばして、奥へと進んでいく。

 うう、と唸って瞬くと、リュシアンは無表情のまま、荷物を持ったままの右手で席を指した。

――先に座れってことかなぁ?

 おずおずと窓際の席へ。

 ふわり、ドレスのフリルが広がる。リュシアンは二つの旅行鞄を棚に上げてから、隣に腰を下ろした。

――ち、近い!

 香水の匂いが鼻もくすぐる。

 心臓が走り始める。

 列車も駆け出したが、その音で鼓動は隠せているだろうか。


 窓の外、ダニューブ河の流れが見える。ゆったりと行く船も、駆ける馬車も、流れる雲も。

 途中、車掌が切符を見に来た。ドゥワィアンヌまで、と呟いただけですぐに去っていってしまった。

 後はごとごと揺られるばかり。

「勿論、ブランドブールのほうが遠いって知っているけど…… ドゥワィアンヌもね、遠いなって思うの」

 言って、見上げる。彼は広げていた本を静かに閉じて、視線を向けてくれた。

「二年前、入学の時ね。すっごく心細かったけど、ワクワクもしてたんだ」

 笑う。

「ずっとドゥワィアンヌの田舎カンパーニュに居てね。高等学校リセに通うことになった時、わたしも大人になれるんだなぁって思ったの。今まで知らなかった人と友達になれたり、華やかなドレスを見たりするのも、ドキドキした」

 ね、と首を傾げる。彼は無表情。

「その時はあまり卒論のことを心配してなかったなぁ…… あ、今は真面目に考えているつもり、よ?」

 くしゃ、と顔を歪める。リュシアンは静かに首を縦に振って、本をまた開いた。

 クロエの視線は窓の外へ。

 ゆらゆら、外の景色と座席に揺られる。川も雲も、列車も東へ。窓から吹き込む風は煤臭い。反対側からは香水の香り。すい、と惹かれる。



 温かい。



 こつこつ、と肩を突かれた。

「え、え!?」

 目を擦る。がばっと体を起こす。

 リュシアンは無表情に立ち上がって、鞄を二つ手に下げた。

「も、もう着いた!?」

 頷きが見える。わあ、と声を上げて立ち上がる。

 寝てた、と両手で頬を押さえる。


――もしかしなくても、わたし、リュシアンに寄りかかって寝てた!?


 なんてこった、と俯く。頬が熱い。

 窓の向こう、ホームからはクロエを呼ぶ声が聞こえた。

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