機関助士 佐倉一郎の思い出話
blackcat
見習い雇員 佐倉一郎
佐倉君が活躍するのは、動力近代化が進んだ昭和46年頃をイメージしています。
日本では万国博覧会が開催された時代、蒸気機関車はすでに過去の遺物として葬り去られていました。
国鉄の赤字は昭和39度の決算以降は黒字に転換することは無くそれまで積み上げてきた累積剰余金も昭和42年には食い潰してしまい、昭和43年には赤字83線としてローカル線の廃止が取りざたされた頃でした。
その辺をイメージしながら話を進めていこうと思います。
佐倉一郎君は、国鉄に入って7年目の22歳、中学卒業後すぐに地元の出雲機関区に庫内手の臨時雇いとして採用されて、翌年には職員として正式に採用されたのでした。
採用された昭和40年頃はまだまだ蒸気機関車が幅を利かせていて、出雲市駅では、東京行きの急行出雲や、山陰線の華「特急まつかぜ」といった列車の合間に発着する普通列車は、その殆どが客車列車であり、その牽引をするのが出雲機関区や浜田機関区の機関車たちでした。
昭和47年頃には普通列車にはディゼルカーが増えたとはいえ、新聞やの荷物輸送の関係で数多くの客車列車も残されていました。
それでも、優等列車を中心に無煙化(蒸気機関車からディーゼル機関車に置換え)が進み主に乗務するのは貨物列車でした。
さて、今日は初日ですので佐倉君が庫内手として採用された頃のお話をさせていただこうと思います。
佐倉君が、庫内手として採用された頃の仕事は、機関車の清掃業務が主な仕事でした。
特に蒸気機関車は時々完全に火を落として、煙管掃除をすることが定めれれていました。
この物語はそこから始まります。
皆さん、初めまして。
佐倉一郎といいます、今年22歳になるのですが、僕は地元の中学を卒業すると、そのまま出雲機関区の庫内手として採用されました。
この頃は、高校まで行くよりも中学校卒業後働く人の方が多かったのです。
僕は、地元で就職できましたが、それ以外の友達は広島に行ったり遠くは大阪に就職した友達もいました。
広島の奴は盆暮れには帰ってくるけど、大阪に行った同級生は殆ど帰ってきません。
噂では、悪い道に足を踏み入れてしまったとか・・・。そんな話も聞こえてきますが、僕にはわかりません。
そうそう、今日は、僕が国鉄に入った頃のお話をさせてもらいます。
機関区では、交番検査といってほぼ2日か3日に1回検査があるほか、何度かは庫内で煙管掃除が行われました。
これは、蒸気機関車の火を完全に消して煙管を掃除するのですが、これがもう大変でした。
給炭口から入って煙管を一本づつ圧搾空気送って煤を払ってやる必要がありました、蒸気機関車の大きさにもよりますが、100本以上の煙管を狭いスペースの中で掃除していくのは大変でした。
そして、こうした仕事は新前の庫内手がすることとなっていましたので、私などは交番でそれが当たると嫌だなぁと思ったものでした。
前の日に火を落としてあるとはいえ、釜の中はボンヤリと熱を持っておりボイラーの中に入るとそれだけで汗ばんできます。
それもそのはず、菜っ葉服に首回りも含めて煤が入り込まないようにタオルを巻いてさらに顔にも何重にもタオルを巻いて防塵眼鏡をかけて作業するので夏の日などは本当に大変だったのです。
さて、狭いボイラーの中では体を動かすのも一苦労。
特に木次線で使っていたC56形はボイラーも小さいので本当に体を動かすのも大変なのでした。
さて、時間が来たようですので、そのお話は、改めて次回にさせていただきます。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます