第875話 遺された篦鹿
天界の入口付近、深い赤色の絨毯の上、黒い壁を背に、青白い灯火の光を受ける影が二つ。
『……橋、消えちゃったね。これじゃ合流出来ないよ、ボクの残りの力使っても降りるので手一杯かな』
「そもそも何で上がってきたんだよ」
『他のボクに協力頼まれてさー……ボクはどうでもいいんだけどなー』
三角に尖った黒いパーカーのフードの先を揺らす少年。その肌は浅黒く、瞳は深淵を思わせる……ナイだ。彼はルシフェルが橋をかけた直後、ヘルの後を追うように天界に上がり、後から来る他の顕現達と合流するはずだった。
『……他のボク達が来ないってことは、失敗ってことか』
天使達やヘル達に探知されないよう、彼は他の顕現との繋がりを絶っていた。大したリソースも回してもらえなかったため、魔法で人界の様子を見ることすら出来ない。
『ジリ貧だったし、これは負けかな』
「負け?」
『うん、ボク達の負け。ニャルラトホテプはこの世界から追い出される』
「……お前は?」
ナイは子供の見た目には似合わない深いため息をついた。
『ハート』
篦鹿の獣人の青年、ハート。彼はいつも「鹿っ子ちゃん」と不本意なあだ名で呼ばれている。ハートは名前を覚えていたのかと驚きつつ、真剣な瞳を見つめ返した。
『ボクはニャルラトホテプの顕現の一つ、例外なんかじゃない』
「…………お前も居なくなるのか」
『そういうこと。ま、もう何分かあるだろうし散歩でもして遊ぼうよ』
薄暗い通路を歩き出したナイの後を追うハートの顔は暗い。
「……山でお前を拾って、お前が知らない間に死んで、今のお前に入れ替わって……楽しかった」
『そ。楽しんでたならよかった』
ナイはハートに興味をなくしていた。便利な足であり玩具ではあったが、察している残り時間ではハートで遊べない。強力な術を教えて成り行きを見守るのも、目の前で泣き叫びながら殺されて絶望の顔を拝むのも、正気を失わせて捨てるのも、何も出来ない。
『はぁーっ……本っ当、最悪…………まぁ、でも、楽しかったかな』
「そ、そう……か。よかった」
ハートはナイの「楽しかった」を自分と居た間のことだと思い、喜んだ。しかしナイが「楽しかった」のはこの世界で遊んだ全ての顕現の経験の話で、ハートとの思い出ではない。
『結構な数の創作でボクが最後に負けるのは多いからなー……納得いかないけど、ボクの性質的には仕方ないのかな…………うん、でも、そうだね、ボクは封印を逃れた邪神だ、ただ一柱、ボクだけが逃れた……この世界に必ず帰ってくる』
ナイの足元に空間転移の魔法陣が浮かぶ。移動しても意味はない、打ち消しの魔法なんて効かない。
「あ……ま、待て、待ってくれ、もう少しっ……!」
『ばいばい』
孤独感から依存していた保護した子供。その正体が邪神だろうと、本心が自分を蔑んでいようと、ハートにとっては大切な家族だった。
ハートはナイが消えた何も無い空間を抱き締め、声を出すことも表情を歪めることもなく目を見開いていた。
「………………同じ、に」
ふらふらと立ち上がったハートは天界の最奥へと向かう。ナイを奪ったのは魔神王、一時保護していた子供、守るべきだと思っていたもの。
ハートにとってヘルを守っていたのは最大の過ちだった。ヘルが死んでいればナイが自分の前から二度も消えることはなかったのだから。
『獣人……? ちょっと貴方、どこから来たんですか?』
玉座の間の扉は開いていた。堂々と進むと蝿の翅と触角を持つ少女に呼び止められ、真っ赤な複眼に睨まれた。
「……地上」
『はぁ……?』
翠髪の少女は──ベルゼブブはハートを警戒しなかった。草食である鹿の獣人が何をしたところで対処出来ると思っていたし、何かをするとも思っていなかった。
「…………なぁ、狼」
玉座で丸まりヘルの帰りを待っていたアルはクラールを失った悲しみを抱えたままで、気だるそうに頭を持ち上げた。
『ハート、か? 久しぶりだな、竜の里に居たのか? 悪いが話は後にしてくれ』
「……俺の大事な子供が消えた。あのガキのせいだ、あのガキはお前を大事にしてた……だからお前も消えろっ!」
普通の狼なら頭が砕けるだろう蹴りをアルに放つ。アルは簡単にハートの足を噛んで止め、逆に砕き、甘美な血肉の味に昂った。
『貴様が何を言っているか分からんな。貴様はヘルの恩人だ、殺したくはない。下がれ』
骨は砕いたが食いちぎりはせずに離す。はらわたを貪りたい食欲を抑え、ハートから目を逸らす。そんなアルに血肉のシャワーを浴びせるようにハートの足が引きちぎられた。
『ルシフェル! やめろ、ハートはヘルの恩人なんだ!』
『えぇ? 食べやすいようにちぎってあげようとしただけなのに……そんな怒らないでよ』
ハートの足を引きちぎったのはルシフェルだ、ヘルを敬愛すべき神だと勘違いしたままの彼女は過去にアルを殺したことを忘れ、今はアルの世話をしている。
『全く……ハート、貴様の傷を癒せる者を呼ぶ。少し待てよ』
治癒の術を扱える者を探そうと玉座を降りたアルの前足をハートが掴む。
「……やめろ。言っただろ、俺の大事な子供が消えた」
『だから私に死ねと? 八つ当たりだ』
「あぁ……その八つ当たりは達成出来なかった。だから、もう……俺があの子と同じになる」
『…………他に生き甲斐を見つけようとは思わないのか?』
アルはハートの沈黙に含まれた意思を汲み、自身の食欲に従った。
『汚れちゃったねー奥方様、神様戻って来る前に綺麗にしとこうよ。妻の勤めだよ』
『……そうだな』
『向こうに沐浴場があるはずさ、造りが変わってなければだけど』
血まみれになったアルはルシフェルに連れられて沐浴場に向かった。アルが掃除を言いつけるまでもなくベルゼブブが無数の蝿に姿を変えて残された肉片や骨を貪り、絨毯に染み込んだ血を啜った。
焼け野原に変わった正義の国だった土地、その中心。異常に長い白髪の少年が黒髪の青年に抱えられていた。
『……おとーと、落ち着いた?』
白髪の少年──ヘルが顔を上げる。ヘルは兄である黒髪の青年に微笑むと、彼の腕の中から下りた。
『残念だったわねぇだーりん。魔物使い、自我保っちゃった』
『…………問題ない。創造神の座を奪おうと、魔性と神性の二面を持ち合わせようと、心は人間のまま……人間の心など容易く折れる。今に見ていろ、四百年もすれば自然と壊れる』
サタンは悔しそうに歯を食いしばり、黒い前髪から覗く金眼でヘルを睨み、自身に言い聞かせるように計画変更をリリスに話した。
『あ、そうだわ。鞄の中の悪魔出してあげないと……魔物使いくーん、ちょっと向こうで鞄ひっくり返してくるからー!』
サタンの計画を知っているマンモンは気まずさを大声で紛らわし、ほぼ全ての悪魔を詰めた鞄を持ってその場から離れた。
『ター君ター君、これからどうするの~?』
白い仮面をつけ黄色いローブを着た少年の姿をした神性、ハスターがヘルに話しかける。
『……とりあえず全ての大陸と島に木を生やす。ほら、竜の里に生やしたやつ。もう娯楽の国とかには生やしたんだ、土中の魔力の循環を手助けして飢饉や疫病を発生させないようにして、魔物と人間が上手く共存出来るようにーって』
『なるほど~、いいね〜、くまなくやりなよ〜、僕にも大陸ちょうだいね~?』
ハスターはあえて口には出さなかったが、飢饉や疫病を防げば自然神の発生も抑えられそうだと考えていた。何らかの危機がなければ人は新たな神を創って祈ることはまずないからだ。
『分かってるよ、僕一人じゃ管理出来ないし。各国……まぁ、国なんて分けずに統一しようと思ってるんだけどさ、各大陸各島ごとに管理人置こうと思ってるんだ。僕が信頼出来る人を希望聞きながらね』
『はいは~い、僕羊飼う~』
『分かってるよ、毛とか輸出してね』
『もち~。ま、発展は絶対させないけどね~……』
ヘルはハスターと話してようやく心の底からの笑顔を取り戻した。
『……よし、じゃあまずここに生やそう。木を…………んー、魔神王の恵みの大樹を!』
ヘルは希望に満ちた未来を思い浮かべて盛り上がった気持ちのままに叫び、白い髪をかき分けて腕にも似た白い篦鹿の角を生やし、地面に魔力を送った。芽が出て、どんどんと成長し、若木となり大木となり大樹となった。巨大な木の円周はキロ単位になるだろう。
『ふぅ……結構疲れるなぁ、これ……ま、ゆっくりやって行こうか』
足元に咲き乱れた草花を見下ろし、ヘルは達成感に満ちた笑顔を浮かべた。
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