第870話 千貌

地面に広がった黒い液体はイホウンデーが垂れ流していた腐食の粘液ではない。そう悟ったベルゼブブはマンモンの首根っこを掴んで素早くその場を離れた。


『お、おい! 何だよ急に!』


『分かりませんか! 突然空間が歪んだでしょう!』


液体が盛り上がり、触手を形成する。


『あの邪神……! 嫁を贄に自分を召喚させたんですよ、相変わらず不愉快な……』


他の悪魔達の元まで下がり、マンモンを投げ捨て、ベルゼブブは魔力で自分の背丈ほどのフォークを作り出した。


『リリス! 居ますか、指揮を執りなさい!』


『何よ、大天使でも来たの?』


『邪神ですよ邪神! あのイカが見えませんか!』


ベルゼブブがイカと称したのは黒い触手一本。リリスは「どこがイカだ」と思いつつも異常事態を察知し、連れていた大きな蛇の頭の上に乗って悪魔達の視線を集めた。


『で、あの邪神は何する気なの?』


『……分かりません。出てきて攻撃してくると思ったんですけど……来ませんね』


『当然だよ、アレはただの軸だもん』


リリスを見上げるベルゼブブの背後に彼女と同じ背丈の少年が現れる。ベルゼブブは振り向くことなく巨大なフォークで少年の腹を貫いた。


『……酷いことするね』


フォークに貫かれて持ち上げられた少年の髪と肌は黒く、瞳は深淵に思えた。


『ま、別にいいけど……ほら、見て、もう月が出てる』


腹を貫かれているというのに少年は流暢に話している、それどころか傷口からの出血すらない。悪魔達の大半はそれを不審に思ったが、ベルゼブブは気にせずに少年が指した月を見上げた。


『まぁるい月は門として完璧だ。月には夢の国がある、本来ならボクはそこにこの星の神を住まわせてやってるんだけど……リソースが多い設定は使えないんだよね、イホウンデーも返した、ハスターも、遊びに使うつもりだったあらゆる要素、全部返さなきゃならなくなった』


『何言ってるんです? 貴方』


『このまま何も抵抗しなければ、ボク達の神話はこの世界から追い出されてしまう』


『……砂漠の国の太陽神共みたいなことになるってことですよね? ええ、私はそれを狙っています』


明らかに敵である少年に対し、悪魔達は攻撃が出来ないでいた。それは最高司令官であるベルゼブブがフォークで貫く以上の攻撃を加えていないからで、少年が不気味過ぎたからでもあった。


『リソースは有限だ、一つの世界に顕現出来る神話は一つ二つ。他の神話の連中は適当に別の並行世界に行けばいいさ、顕現しやすい世界もあるだろうしね。でも、ボク達の神話が顕れるにはボク達の神話がその世界で語られていないという条件が必要で、他のとこよりちょっと厳しいんだよねぇ』


『はぁ……? 神話が存在しない世界に存在なんて出来るわけないでしょ』


『そう思うよねぇ? でも、ボク達の神話が存在するということは、ボク達が架空であると確定する訳でさー? 他の神話みたいに顕現出来ないんだ、ボク達の神話があるってことは全体的に文明進んでるし、キリスト教はあるし、まず勝てないの!』


『架空……? キリスト教……? 貴方、本っ当に意味分かんないことばっかり言いますよね』


『神話が存在しない世界じゃ知名度皆無でリソースを確保できないし……そのためにクトゥルフを使ったけど、封印されちゃったし……ま、それでもクトゥルフが回収してくれた力をここで一気に使うしかないんだよねぇ……一か八か、だけど』


深いため息をついた瞬間、少年の姿が土人形に変わって崩れ、フォークの下には山盛りの土だけが残った。


『やっぱり肉じゃありませんでしたか……』


困惑する悪魔達を放ってベルゼブブが一人で納得していると、一箇所に集まった悪魔達を閉じ込めるように炎の壁が円を描いた。


『開戦、ですか?』


『あぁ、いっちょ頼むぜ、お手柔らかにな』


ベルゼブブの前に現れたのは紫のパーカーを着た青年。装飾過多のヒールブーツや赤い瞳を隠す紫の長い前髪にはベルゼブブも見覚えがあった。


『貴方……ロキとかいう』


『そ、オレサマはロキ様、アース神族の問題児にして……ニャルラトホテプの顕現の一つ』


ロキ──いや、ロキの神格を奪ったナイは顔を隠すように右手を顔の前に広げた。僅かに袖に隠れたその手には指輪がある。


『焼き尽くせ、ニーベルングの指環!』


指輪が輝き、炎が巻き起こる──巨大な海蛇が悪魔達の集団の中から現れ、その炎を食らった。直後、短髪の少女の姿へと変わる。


『熱い! 舌を火傷したかもな。酒呑! 治せ! ん……? 酒呑? しゅてーん、おーい?』


『おーいちゃうわアホンダラ! 急に巨大化して吹っ飛ばしよって……』


レヴィアタンの肉体を使っているオロチはナイから完全に目を離し、吹っ飛ばし踏み潰した悪魔達の方を向く。そんな無用心な後頭部に尖ったヒールを突き刺すような蹴りが放たれた。

オロチは頭皮を浅く削られながら倒れ、両手を地面につき、自分を蹴ってきた足に左足を絡みつけてナイを転ばせた。


『関節技? 蛇らしいなオイ!』


転んだはずのナイはオロチを見下ろしている。


『痛い痛い痛い痛い! 離して離して早く離して折れるってぇ!』


『ん? おかしいな。誰だ? お前』


オロチが締め上げていた足はベルフェゴールのものだった。


『…………因果逆転の交換テレポートね。アレ、ちょっと面倒よ、集団で戦うとあっという間に同士討ちしちゃう』


ナイの戦い方をじっと観察していたリリスがポツリと呟く。それを聞いたベルゼブブはすぐにオロチに向かって攻撃中止を叫んだが、既にマンモンの顔を蹴り飛ばした後だった。


『何してくれてんだこのザルぅ!』


『何だ! お前! 何で! 私の足に吸い付く!』


ベルゼブブは無数の目の集合体である赤い複眼でナイの姿を追うが、ナイは悪魔達の集団の中に入り込み、短距離のテレポートを繰り返しており、追い切れない。


『攻撃中止! 聞きなさい! 攻撃中止! 全員、注目! 私の話を聞きなさい! 攻撃中止です! 攻撃中止つってんだろ食い殺すぞ!』


『もー……これだから悪魔は……だーりん早く帰ってこないかなぁー』


激怒して叫ぶベルゼブブの声が全く届いていない訳ではない。


『マルコシアス、ベルゼブブ様の声が聞こえましたか? 攻撃中止です』


『分かって……痛っ!? 痛いな!』


リリスの呟きを聞くことなく彼女と同じ結論に達し、ナイの戦法を見破っていたアガリアレプトは少し前からマルコシアスに攻撃するなと言いつけていた。しかし殴られたマルコシアスは反射的に蹴りを放ち、その蹴りは位置を交換された別の悪魔に当たり、その悪魔がまたやり返し──悪循環は止まらない。


『自身と他人の位置だけでなく、他人と他人の位置交換テレポートも可能……マルコシアス、攻撃してはいけません……マルコシアス?』


アガリアレプトは隣にマルコシアスが居ないことに気付く。自分か、マルコシアスの方か、どちらもなのかすら分からないが、転移させられて離されたのだ。


『悪魔は悪魔とだと喧嘩っ早い者が多いので……特に天使と戦った直後、興奮しているのでしょう』


攻撃中止を叫ぶベルゼブブの背後にアスタロトが現れる。


『アスタロト! どこに行ってたんですか貴方!』


『ちょっとした野暮用を……それより、ベルゼブブ様、この危機を脱するには──』


『……しかし、それでは……あぁもう分かりました!』


ベルゼブブは耳打ちされた内容に不満があったが、アスタロトが最善の解決策以外を教える意味もないと不満を飲み込み、集団から離れ砕けた足の骨を再生させているベルフェゴールの元へ飛んだ。


『ベルフェゴール、今すぐ呪いをあの場にいる悪魔全員にかけなさい!』


『悪魔相手じゃ効くかどうか分かんねぇっすよ?』


『いいから早く! その腹かっ捌きますよ!』


『わ、分かりました……もー、赤ちゃん居るのにとんでもないこと言うんすから……』


ベルフェゴールはまだ膨らんでもいない腹を撫でる──その手にナイフが突き刺さった。


『あれ、もしやオレサマ……ノーコン?』


もはや自分が混ざる必要は無い、悪魔同士を交換テレポートするだけで勝手に自滅してくれる。そう判断したナイはベルフェゴールの首を狙ってナイフを投げた。


『ま、数打ちゃ当たるって言うもんねー』


ナイの指の間に挟まれたナイフを見てベルゼブブはベルフェゴールの前に立つ。


『ベ、ベルゼブブ様ぁ……このナイフめっちゃ魔力吸われる上に傷も治りにくいんですけど』


『心配要りません、貴方には当てさせませんから。早く呪いをかけなさい』


ナイフを投げるためナイが腕を振りかぶる、ベルゼブブが無数の蝿に姿を変える、それはほぼ同時だった。

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