第866話 天国の歌と契約
ゆっくりと手を広げ、左手に赤い炎を、右手に白い炎を浮かべる。赤はウリエル、白はミカエルの炎だ、問題なく扱えることを確認し、手の上の炎を消す。
『……おとーと?』
僕は何だっけ。
僕……? いや、私、違う、ぼくは……俺は、何だ?
『おとーと、ねぇ、おとーと、大丈夫?』
黒髪の長めのボブヘアの青年が心配そうにこちらを見ている。可哀想な子羊だ、優しくしてやらないと。
『どうしたの、君。何かあった? 大丈夫だよ』
迷い子を落ち着かせるような能力が僕にはあったと思うのだが、どうやら僕には無数の属性があるようでどれなのかよく分からない。
『おとーとっ!? 僕が分からないの? 僕だよ、エア、エアオーベルング、君のお兄ちゃんだよ』
『……僕の、お兄ちゃん……? 僕に、お兄ちゃんが……?』
兄弟なんてそんな人間みたいな。あれ? 僕は何だ? 人間……じゃない、天使か? 違う、神……もっと違う、僕は何だ?
『先に進むぞ。魔物使いは直に完成する、邪魔をするな。魔物使いに自我など要らん』
黒いスーツを着た褐色肌の男が僕の兄を名乗る青年の肩を叩く。男の目は金色で瞳孔は蛇のように細く、黒髪は眉にかかる程度に伸ばされていた。
『ルシフェル、この扉を開けろ』
『分かった。開け方同じかな……ちょっと待ってね』
男に声をかけられたのは緩いウェーブがかかった長い金髪の女。彼女は赤いつり目からの視線を扉に注ぎ、黒い翼をもったいぶるように揺らした。
視界の端で僕の兄を名乗る青年が溶けた。人の形を崩し、黒い粘液に姿を変えた。
『え……!? き、君、それは正常な状態?』
人間だろうと人間でなかろうと危機的状況にあるなら助けなければ。そう考えて青年だった液体の前に屈むと粘性の高い液体は盛り上がり、四足歩行の獣の姿となった。いや、ただの獣ではない。
『綺麗……!』
なんて美しい狼だろう、心臓を鷲掴みにされた気分だ。体を覆う銀毛は絹よりも柔らかく、肩甲骨の辺りから生えている黒翼は光を吸い込み荘厳に揺れ、尾として生えた黒蛇のつぶらな瞳は呼吸が怪しくなるような可愛らしさだ。何よりはその顔の造形の美しさ、これから先他の狼が間抜けに見えるだろう、凛々しく美しい誇り高く──あぁもう言葉をどれだけ羅列したって無駄だ、僕が声に出すべきはただ一言だけだ。
『僕と結婚してください!』
『……バカを言うな、あなたはとっくの昔から私の伴侶だろう。結婚式も挙げたのに……忘れてしまったのか? 愛しい旦那様』
大地の脈動よりも尊く、天上の音楽よりも美しい声だ。その声が「旦那様」という形に押し込められるなんて、なんて、素晴らしい!
『可愛いっ……大好きだよ、アル!』
そう叫んだ瞬間、僕は僕が何者なのかを思い出した。
僕はヘルシャフト・ルーラー、魔法の国で無能として生まれた魔物使い。婚約を交わした天使に成り代わって人間としての過去を捨て、天使を取り込み続けて歪な魔神もどきに成り果てた上位存在だ。
『…………ごめん、にいさま、変な演技させて』
『……本当だよ、血の繋がった兄弟だからなんて言ったくせに』
兄の姿に戻って不機嫌そうにそっぽを向いた。けれど本当に拗ねている訳ではないのは見れば分かる。
『ごめんね、にいさま、後で埋め合わせするよ』
ギィィ……と木が軋む音。見れば巨大な扉をルシフェルが開けていた。開け放たれた扉の先は光に溢れていて何も見えないが、一歩踏み出せば僕達は花畑の真ん中に立っていた。
『空間転移……!? いや、違う……』
振り返った兄は通ってきた扉を見て空間転移の説を否定し、爪先で花を潰して「本物だ」と呟いた。
『……庭園か。まぁ、その程度はあるだろう』
サタンはどこまでも続く花畑に一本だけ敷かれたタイルの道を歩く。戸惑っていた僕と兄もその後を追う。
『…………何か聞こえる』
『天国の歌だね。別にいいことも悪いことも起きないから気にしなくていいよ』
非常に緩やかな山になった花畑のおそらく中心、タイルの道の終着だろう場所が見えてきた。木が生えている。歌というとクトゥルフを思い出して嫌な気分になるが、ルシフェルが言う分には歌には何も効果がないらしい。信用のおける情報だとは思うが一応疑ってかかろう。
『歌っているのはアレか。何だあの天使は、見たことがないぞ』
『……サンダルフォンだよ、彼女への対応は気を付けてね』
『彼女? あれ女?』
『天使の性別は気にしない方がいいよ、お兄さん。私もよく兄と呼ばれていたからね』
木を背もたれに根の上に座った少女か少年か曖昧な天使。肌や服は白く、肩にかかる程度の髪も白い。目は閉じたままだから分からない。
『天使だろ? なら食べないと』
『サンダルフォン自体には戦闘能力はないんだけどねー……気を付けて、神様』
常に自信過剰だったルシフェルが警戒を促していることに異常を感じ、サタンと兄が歩みを止める。僕も止まろうとしたがルシフェルに背を押されてサンダルフォンと言うらしい天使の前に立った。
『……魂、もらうね』
気付いているのかいないのか、目を閉じたまま歌い続けるサンダルフォンに手を伸ばすと、彼女に触れる寸前に二の腕に槍が突き刺さった。血が地面に落ちるとサンダルフォンは目を閉じたまま立ち上がり、歌うのを中断して木の陰に隠れた。
『透過……あ、あれ? なんで? 透過! 透過……ぬ、抜けない!』
『当然だ。その槍は私と契約している』
男とも女ともつかない凛とした声。
『……ルシフェル、アレがメタトロンか?』
『うん……契約の天使、神の代理人だよ』
声の方を見上げれば何十枚もの白い翼があった。人型……なのか? 分からない、翼で隠れて翼が生えている本体は全く見えない。
『能力は?』
『……何でもありだ。契約、だからね……でも、自由意志の力をちゃんと使えば躱すくらいは可能なはずだよ』
白い羽根一枚一枚に目が生える。いや、今まで閉じていただけか? とにかく気持ち悪い。翼に無数の目がついているのだ、集合体恐怖症がなくても悪寒が走る。
『魔物使い、一つ教えよう。私の後にあるこの木……この木には生命の実がある』
メタトロンという名の天使らしい翼と目の集合体の背後の木には赤い実がなっている。
『この実を食わせればお前の子供はお前やお前の妻と同じ不死になるだろう』
『……ぁ、あぁそう、なんでわざわざ教えてくれるわけ?』
もうすぐ死んでしまうかもしれない愛しい子、クラール。あの子が生きていける? ありえない、霊体の障害はどうしようもないと聞いた、嘘だ、きっと僕を動揺させるための罠だ。
『契約しないか? 魔物使い。生命の実と引き換えに、魔物を全て魔界に退却させろ』
『…………退却?』
『お前は魔界で暮らしていける、お前の仲間もな。なら別に人界や天界を侵略する必要は無いだろう? 全く野蛮な……何が目的なんだか』
侵略? 野蛮? 僕の存在が認められないからと殺しに来ていたのはどこのどいつだ。
『そんな契約するわけないだろ!』
敵は全て滅ぼさなければ。
『……そうか。お前は自分の子を見殺しにするんだな』
『そんな美味い話あるわけない! そんな実食べてもクラールは死ぬんだろ、お前なんか信用しない! 本当だとしてもお前を殺してその実も奪えばいいだけだ!』
『…………お前が見殺しにするのはお前の子供だけでなく、お前を信じお前を慕いお前を愛した全ての者だ』
こうやって譲歩案を出したり会話で時間を稼ぐということは、戦って勝つ自信がないということだ。
『生命の実と引き換えに退却する契約を受け入れたなら、お前を愛しお前が愛する全てを生かしておいてやる』
『……そう言って、騙して、皆殺しにするんだろ』
天使はいつもそうだ。僕と同じ、敵を滅ぼさなければ安心できない性質なのだ。
『そうか、なら仕方ないな』
翼が一枚揺れる。瞬間、背後で金属音と水音が響いた。
『…………え? に、にいさま……?』
振り向けば無数の白い槍とその槍に絡んだ黒く粘着質な液体があった。
『この空間は私と契約している。どこに何本槍を作るのかの自由は契約によって得た私の権利だ』
ハリネズミのようになった地面にボタッ……ボタッ……と黒い粘液が滴る。鈴のような鳴き声すらなく、重力に従う液体らしい動き以外はしない。
脳や内臓など、兄としての自我を保つための物が何もない。
死んだ。殺されてしまった。僕の兄が、唯一無二の血の繋がった兄弟が。
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