第836話 準備は綿密に

自分の感情の出処が分からない、自分で自分を操っている気がしない、自分が分からない──そんな僕の悩みは誰にも悟られず、会議は進む。


『個人行動は禁止だ、隊を編成する。多少仲が悪かろうが協力して戦え』


扉が開き、大きな羊皮紙を持ったアスタロトが入ってくる。彼は何も書かれていないその紙を机に広げると筆を持った。


『余は集団行動は苦手だ。リリス、編成を頼む』


『はーいだーりん。さ、そこの人間、人間は集団行動の生き物でしょ、意見ちょうだいねー』


「……あぁ、どうして私はこのような檻に。この忌まわしき鉄柵さえなければ今すぐ貴女の手に口づけを──」


席を立ち鳥籠の隣に立ったリリスを国王が口説き、それに反応してサタンが立ち上がる。


『はいはいだーりん落ち着いてー、ワタシがだーりん以外に傾くわけないでしょ』


『浮気しまくってるじゃないですかクソビッチ』


『だってだーりん構ってくれないんだもーん、ワタシ悪くなーいの』


ベルゼブブは更に罵倒を続けようとしたが、アスタロトがケーキを渡して黙らせた。流石副官、扱いが分かっている。


『まず、自力で再生できないコ、いるー?』


『俺できひん。俺の部下の茨木も』


セレナの顔が頭に浮かんだが、ただの人間である彼女を戦場に送るつもりははないので黙っておいた。


『じゃあ他人の怪我治せるコー』


『僕と兄さん、それと弱いけど弟も一応』


『じゃあできないコ達と組んだげてねー』


軽い怪我や不調程度なら酒呑も治せたはずだが、まぁ、天使との戦いとなってくると手足が吹っ飛ぶような怪我が普通だからな……


『天使と戦うことになると思うんだけど、天使には名前持ちの強めなのと名無しの鬱陶しい雑魚が居るのよ』


『その雑魚共は俺とレヴィでやることになってる』


端に座っていたマンモンが面倒臭そうに手を挙げた。隣には海色の短い髪の女が座っていて、腕を組んで俯いて……居眠りしていた。


『おいレヴィ起きろ』


『……うるさい、黙れ、酒もないのに、連れてきて……うぅん、眠い、寝る、起こすな』


過去を巡った際に会ったレヴィは長髪だった覚えがあるが、今居るレヴィの中身は確かオロチだ、鬱陶しがったりしたのだろう。


『名前持ちは固有属性を持ってるから、対応は面倒なの。息の合う人とペアで戦ってね』


『マルの野郎がアガリアレプトと組んでるアレを真似ろってことだな、俺がレヴィのお守りってのは気に入らねぇけど……』


『もちろん二人じゃなくてもいいわ、三人でも四人でも。とにかく一人はダメ、危ないし、死んでも分からないもの』


この辺りの話は持ち帰った方が良さそうだな、ペアを組めなんてフェルが聞いたら眉を顰めそうだけれど。


『天使の魂を破壊して天界に強制送還する方法はアザゼルに共有させておきましたから、天界で療養を測る天使共を片っ端から取り込んじゃってくださいね、魔物使い様』


『ぁ、うん……ありがと、留守の間に結構色々やってくれてたんだね……』


何かを食べている姿しか見ていなかったから印象はなかったが、ベルゼブブはしっかり働いていたらしい。


『天使に関してはこんなところかしら、どんなのと戦うことになるか分からないから、ぶっつけ本番なのよね……そうそうだーりん、不安要素があるのよね?』


『あぁ、天使と創造神だけなら勝算は十分にある。魔物使いが上位存在に変異し、優秀な魔法使いが二人、他の神々の力を振るう人間共も味方だ。まず勝てる、しかし──外の神だ』


演技がかったにこやかさで兄達と国王を順に見たサタンはこれまた演技臭く目付きを鋭くした。


『……ニャルラトホテプですか』


『そう、我々には奴らの情報がない。ベルゼブブが喰って痛い目を見た程度だ』


何か話せと言いたげな目が僕と兄達に向けられる。


『魔法を扱う、同時に何人も現れる、性格は最悪』


『不明の狙いがある、何らかの方法で精神汚染を行う』


兄とライアーが指折り数えてナイの特徴を挙げた。視線は僕に注がれる。


『……クトゥルフ復活は阻止したから、ハスターから聞いた話から予想すると……多分、向こうも後がない。ここで全力を出してくるけど、ここさえ凌げば人界への干渉権を失うはずだよ』


神性にとって人間からの信仰は大切なものだ、人界に居る正当性となり、神力となる。つまりクトゥルフのテレパシーによって全人類の精神が等しく犯された今、創造神の信仰も少しは揺らいだはずだ。


『……奴に対応する編成は?』


『基本悪魔はみんな魔法は苦手ですよ、訳分かりませんもん』


『単純に向こうの方が上手だから僕や兄さんも無理』


『編成はって言ったって……こっちの誘いには乗ってこないよ、アレは。いっぱい居るし』


誰もがナイの相手を嫌がる。だが、ライアーの言う通りこっちの役割分担なんて向こうには関係ない。陶器製の天使達を相手にすると宣言したマンモンとレヴィの元に現れる可能性だってある。


『……創造神を打ち倒したなら天界を維持していた力は全て余の物になる。魔物使い、天使を根こそぎ喰らった貴様と共になら十二分に戦えるのではないか?』


『天界の後に対応するってこと? 上手くいくかな……向こうもその辺は分かってると思うけど』


しかし雨と月と雪の力だけではナイを倒せないのは事実だ。ナイが苦手らしい炎……ウリエルかミカを取り込みたいところだな。

主にサタンとナイ対策を話していると、不意に兄が立ち上がった。


『…………にいさま? 何?』


『……誤魔化されてる』


『え……? な、何を?』


『アルちゃんとクラールちゃんに渡してるスカーフがあるだろ? アレには五感がある、周囲のことは全部僕に伝わるんだよ』


もちろんそのローブもだと指差され、背筋が凍った。兄に全て筒抜けだなんて……昨晩のこともなんて……


『もちろん全て拾ってる訳じゃないよ、そんなことしてたら僕が休めない。でも……今はちょっと状況がアレだろ? だから拾ってた。でも……誤魔化されてる。今一瞬乱れた、出た時から全く変わってなかった景色が真っ赤になってて……血腥くて、でもその景色はすぐに元に戻って』


赤? 鉄錆? 血か?


『……でも、僕の体の一部が感じてることの伝達に干渉してるなんて……今の今まで僕が気付かなかったなんてありえないよ。ごめんね、多分幻覚か何かだと思う』


『…………いや、行こう。様子見に行こう、何もなかったらすぐ戻ればいいよ、一瞬で行けるんだから』


結界を解いて中に入ったのならライアーが感知するだろうから、ナイが忍び込んだ訳ではないだろう。ナイ以外で兄の知覚を捏造できる者が居るとは考えたくないし、兄のことだから幻覚の可能性が高いと僕も思う。しかしあの家には妻と娘が居る。


『それもそうだね、違和感を感じたのは僕だから僕が行くよ。魔界の位置も覚えたからここに転移する術式も思い付いたしね』


人界なら座標さえ分かればどこにだって行ける空間転移も他の界を移動することや界を跨ぐのは難しい。しかし一度移動した道なら兄は覚えてしまうようだ。


『待て、何かあったなら、吾も行く、暇だ』


退屈そうにしていたレヴィが寄ってきた。


『は!? 待てレヴィ! お前はまだ動き回っちゃダメだってサタン様が……』


『構わん。そろそろ試運転が必要だろう、人界の空気を数秒吸う程度なら何の問題もない』


『……レヴィ、行ってらっしゃい!』


レヴィを連れ戻そうと腕を掴んだマンモンは声を高くして笑顔を作り、手を振った。彼の調子の良さに呆れつつ、それをさせてしまうサタンの力に気圧されつつ、兄の手を取った。


『ん……? 掴むのか? こうか? 何するんだ?』


僕に倣ってかレヴィも兄の手を掴む。両手を塞がれた兄は苦笑いしつつも空間転移を発動させ、僕達をヴェーン邸のリビングに送った。

光の洪水に流される感覚のある空間転移が終わった後、一番に働くのは嗅覚だ。鼻の奥に鉄錆のような臭いが突き刺さる。次に働いた視覚に一面の赤が飛び込んでくる。


『ひっ……!?』


『血の匂い! 良い、良い、滾るっ……これでこそ、地上! 素晴らしい! 素晴らしいぞ!』


血に興奮したらしいレヴィが一歩踏み出し、転んだ。深い青色のマーメイドドレスの裾を踏んだらしい。


『……っ、こんなもん要らん! 鬱陶しい! 足が痛い!』


ドレスに隠れて見えなかったが高いヒールの靴を履かされていたらしく、レヴィはドレスと同じ色のそれを脱ぎ捨てるとドレスの裾を破り始めた。


『…………アル、アルは? にいさま、アルはどこ?』


『……スカーフの知覚がおかしい。アルちゃんは暖炉の前で寝てるんだ、このリビングに居て、ここもこんなに赤くなくて臭くもなくて……』


暖炉の炎は消えていて、暖炉の前には白や赤銅の羽根や毛が落ちていた。ツヅラが入っていた樽は倒れていて、鱗は血の海に浮いている。窓は割れているし壁紙も剥がれているし、扉も割れている。


『もういい一人で探す!』


アルの名を叫びながら割れた扉を開ければ、リビングと変わらない凄惨な景色の廊下に出迎えられた。

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