第796話 戦神の加護

時は少し遡り、一行がアスガルドに到着した頃。ヘルは乗っていたビヤーキーと共に居たが、エアは乗っていたビヤーキーに加え予備のうちの一匹と共に居た。


『……弟? おとーとー?』


辺りを見回し、ため息をつく。時空間の観測は片手間に行っていたのでアスガルドの結界内に侵入する際に全員がバラバラの場所に飛ばされたのは分かっていた。それでも諦め悪く弟を呼んでみたが、無駄だった。


『ねぇ、君達。他の個体と交信とか出来ない?』


探知魔法の陣を描きつつビヤーキーに話しかけると乗ってきた方は首を傾げ、予備の方は首を振った。反応の差は人語の理解度の差だ。発声はどちらも出来ない。


『クラインローブ……居た、けど……遠いな。移動も速い』


勝手が分からないアスガルド界では目的地の座標がハッキリと分かるまでは空間転移は避けた方がいい、エアはそう考え、ヘルのローブの反応がある場所の座標を探り始めた。その時、エアの視界の端で落雷が何度も起き、爆発に近い轟音が鼓膜を破った。


『うるさっ……何、雷? じゃああのバカか……』


強力な戦神であるトールの顔をぼんやりと思い浮かべたエアは彼の助力があれば楽に事が進むとほくそ笑み、防護結界を強化して落雷のあった場所へ向かった。


『……ん? 水?』


着いてくるビヤーキー達に声をかけるどころか気にも留めないエアは自身の足音が水音混じりになったことに気付き、一センチにも満たない海水の上に居ると理解する。洪水のようなものが起きており、高台であるこの場所にまで水が近付いているのだ。


『浮くのも面倒だね。ねぇ、乗せて』


ビヤーキーを気にしてはいなかったが知覚はしていたので振り返って声をかける。エアの目に映ったのは乗ってきた方のビヤーキーが巨大な蛇に呑まれる光景だった。


『防護結界、多重展開!』


巨大な蛇が牙を剥いて突っ込んでくる。エアは咄嗟に結界を何重にも展開し、噛み付きを防ぐ──だが、一枚目の結界は突き立った牙によって容易に割れ、二枚目の結界は牙から滴った毒液が穴を開けた。


『……っ!? そんな……!』


神々の戦いに着いていけないのは分かっていた。しかし、ここまでとは……そう自信と戦意を喪失したエアの胴に骨太な腕が巻き付き、次の瞬間にはエアはその場に居なかった。一瞬遅れて口を閉じた蛇はエアの横に居たビヤーキーを代わりに喰らった。


『……何故ここに居る、エア』


先程まで立っていた高台は既に水に沈んだ。今は更に高地にある木の頂点に居る。エアは片手で担がれていることに不快感を覚えつつ身を捩り、目に痛みを与えるほどの輝きを放つ金髪に金眼の男を見上げた。


『………………トール、さっきぶり』


『さっき……? いや、お前に会ったのはもうずっと前だぞ』


『は……? まぁいいや、あの蛇何?』


『ヨルムンガンド、ロキの息子だ』


珍しくもトールは眉を顰めて不愉快そうにしており、声も数段低い。エアはトールの表情変化の乏しさや声の調子なんて覚えていなかったため、特に気遣うことなく彼の腕の中から抜け出した。


『……乗り物、喰われちゃったな。二人乗り出来るといいけど』


巨大な蛇──ヨルムンガンドを睨みつけるトールを横目にエアは#ビヤーキー__移動手段__#を失ったことに僅かに焦っていた。


『なぁ、エア。ひとつ聞きたい』


『何?』


『……長く兄弟のように過ごしてきた親友を、謂れなき罪の罰から救おうと尽力してきた親友を、脱獄が成功した直後に殺しにかかることなどあるのか?』


『あるんじゃない?』


ありえない、きっと深い理由がある、そんな回答を予想していたトールはヨルムンガンドからエアに視線を移し、眩く輝く金の瞳を見開いた。


『兄弟のように、親友……っていうのは片方だけの思い込みかもしれない。尽力してたってのも伝わってるかどうか知らないし、して欲しかったのかどうかも分からない』


『ロキの方がずっと言ってきていたんだ、兄弟だと、親友だと。投獄された後に絶対に出してやると言ったら「頼む」と、「信じてる」と言ったんだ』


『……脱獄、させたの?』


『いや、この異常な寒気と共に何かが起こって……ロキの他の封印されていた者共も解放され、巨人共も攻めてきていて──』


『じゃあそれだね。君は努力してるつもりでも、結果が伴わなかったから恨んだんだ』


柄の短い槌を握る手に力が込められ、滑り止めのグローブがギリギリと音を立てる。


『……封印されていたから力が減って巨人共にやられかねないと、助けてやろうとしたのに、ロキは俺にあの大蛇を差し向けた』


『ふぅん……』


『何て言ったと思う。殺せ、その一言だ。俺達の友情は……信頼は、そんなに薄いものだったか』


トールが珍しく頭を使って長々と話しているというのにエアはあまり真面目に聞いていない。当然だ、弟以外に興味を持たないのだから。


『…………エア。ヨルムンガンドには雷はあまり効かない。だからミョルニルを脳天に叩き込むしかない。だが、牙から飛ばされる毒液は万物に死を与える。毒液が混じった海水も同じだ、皮膚が触れれば爪先だろうと死ぬぞ』


エアは海水に濡れた靴を見て舌打ちをしてから木の葉に靴底を擦り付けた。


『そういう訳で、エア。俺に結界を張ってくれないか。頭を叩くまでに毒液に触れずにいられるとは思えない』


『やってあげてもいいけど、さっきあっさり穴空けられたから多分無駄だよ』


水面から鰐のように顔を出して二人を見上げるヨルムンガンドは二人が立つ木の頂点まで海水が満ちるのを待っていた。


『そうか。なら、一か八かだな』


『…………ローブ貸してあげる。かかってもすぐに脱げば誤魔化せるんじゃない?』


『ありがとう。エア、一人で飛べるな? ヨルムンガンドは俺が責任を持って殺す。長々と話して悪かった』


エアは何の躊躇もなく、別れの言葉を言うこともなく、振り返ることすらなく、己の姿を獣に変えて飛び立った。トールはぼうっと獣を眺め、見えなくなるとローブのフードを深く被った。


『…………ロキ、どうして』


木の頂点から数メートルを残して海水に沈む。トールは自らを雷に変えて向かってくる牙と毒液を避けた。トールはどうにも納得がいっていなかった、ロキに恨まれる心当たりがないのだ。



それに、何より────


『ロキ、異常事態だ。気温も、封印も、ヨトゥンヘイムとの境も……何もかもがおかしい』


『…………よしよし、お父さんの言うこと聞いてくれよ』


『ロキ、聞け。今お前は弱っているはずだ、早く隠れろ』


『フェンリルは……えぇと、オーディン。で、ヨルムンガンドは……トールだったな』


──ぐりんとこちらを向いた瞳が、親友のものではなかったように思える。


『殺せ』


そう言いながら向けられた人差し指のネイルも、指輪も、覚えているロキのままだ。フードの下から睨むでもなく見つめてきた赤い瞳もロキのものだ。だが、振り返る瞬間だけ、一瞬だけ……深淵そのものと呼べるような純黒の目をしていた。

見間違いの可能性は高いし、もし記憶が正しくてもロキは変身術が得意だから何とも言えない。けれどトールは自身の違和感を大切にしたかった。


『……ヨルムンガンド! よく聞け、もう一度お前の父親に会いたい、お前も会え! 何かがおかしい、巨人共の襲来のタイミングも、お前の父親の言動も、何もかもが──!』


説得のためヨルムンガンドの目と鼻の先に実体として降りたトールは尻尾に叩き落とされ、海中に没した。


『ヨルムンガンド………………悪いな』


底を蹴って水面に浮上するとトールの眼前には巨大な蛇の口があった。トールは無表情のまま槌を放り投げ、ヨルムンガンドの上顎を吹き飛ばした。巨体が倒れると共に海水も引いていき、槌が手元に戻る頃にはトールは地面に横たわっていた。


『俺の勘違いか……誰かの企てか』


よろよろと起き上がるトールの顔色は悪い。


『どちらにしても、俺の』


背筋を伸ばした途端に咳き込み、手のひらに乗り切らない多量の血を吐き、膝を着いた。


『負け、か』


下手に情けをかけず戦っていれば勝っていただろうか。エアを残らせて協力してもらえば勝っていただろうか。

柄にもなく「もしも」の思考をしながら、懐から蓄電石を取り出す。寝転がって天に掲げた石に無数の雷が落ち、トールの神力が注ぎ込まれていく。石の輝きが目を眩ませるほどのものになった時、それを持つトールの手は力なく落ちた。

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