番外編 クマのぬいぐるみ

少し昔、魔法の国のとある一軒家に兄弟が居た。四歳と十歳、可愛い盛りの二人である。この国特有の産前審査により強力な魔力を持っているとされ、将来が確約された彼らを母親は溺愛していた。

ある休日、母は次男と公園で遊ぶ約束をしていたが、そこそこ優秀な医者である彼女はマンドラゴラ収穫時の防音不備による大量の急患で呼び出されてしまった。


「ごめんねー……」


「…………ぅ?」


夜、疲れて帰ってきた母は夕食中の次男の頭を撫でて謝ったが、何を言っているのか分からないと首を傾げられた。


「……ふふ、覚えてない?」


「起きた時母さん居ないって泣きかけてたよ」


「あ、あら……そう。そうよね、約束したものね」


「ちゃんと慰めたから今は機嫌いいけど」


「ふふ、流石お兄ちゃんねー……」


今度は長男の頭を撫でる。彼は嬉しそうに頬を緩めたが、瞳は冷たいままだった。


「着替えてくるわね。エア、ご飯見てあげてね」


「はーい」


長男──エアは母の姿が見えなくなると撫でられた箇所の髪を鬱陶しそうに直した。


「にーたぁ、ぱんー」


しかしその不機嫌な顔は弟に話しかけられて心からの笑顔に変わる。


「なぁに、ヘル」


「ぱんー」


「パン、何?」


「ぱんー……?」


次男──ヘルは首を傾げる。食べたい、取って欲しい、ちぎって皿に置いて欲しい、それを説明したいが産まれて四年の頭にはなかなか浮かばない。なのでパンを指差してその手を口元に持っていき、何も入っていない口をもぐもぐと動かしてジェスチャーを試みる。


「お兄ちゃんにパンをどうして欲しいの?」


しかしエアはパンを机の中心から持ってきてちぎってヘルの皿に置くことをしない。


「……僕にパンを取ってください兄様、ちぎって皿に乗せてもらえると嬉しいです」


ニコニコと笑って手本を示す。


「ぼく……に? ぱんー、とって、くぁはい、にーたま」


「はい」


パンが丸々一つヘルの皿に転がる。四歳児の口には入らない大きさ、噛みちぎれない硬さだ。


「……ちぎってください」


「ちぃーて、くらはい……?」


「…………えらぁーいヘルぅ! 流石僕の弟! あぁもう可愛いなぁもう可愛い可愛い僕のおとーと! これ覚えておくんだよ、明日一人で言えなかったらパン食べられないよ?」


エアは席を立ってヘルを抱き締めて撫で回す。しばらくそうした後、ふっと落ち着いて淡々とパンをちぎる。


「ただいまー……ふぅー、部屋着って楽ね。お父さんは?」


「疲れたって寝てる。ご飯外で食べてきたってさ」


「…………流行らない塾の非常勤講師が休日に疲れて寝てるぅ?」


「テスト前らしいし」


「……怪しい」


母はじとっとした目でエアを見つめる。エアは魔法陣を眉間の前に浮かべ、父の過去の動向を探った。


「えっと……同僚と「ゆあらばーずカッコカリ」ってとこで話してた」


「やっすいキャバクラじゃないのよ! 話してたのは魔力の少ない乳だけ女よ!」


「母さん、ヘルの前で汚い言葉使わないで」


「……あ、あら、ごめんねー? ヘル……?」


「…………んぅ?」


無心で硬いパンを齧っていたヘルは母に名前を呼ばれて顔を上げ、首を傾げる。


「………………セーフ! さ、食べましょ」


母が食事を終える頃には二人の息子はとっくに食べ終わって風呂に入っている最中だった。母は一人分の皿を片付けながら緩やかな寂しさに襲われる。しかし風呂からの水音が聞こえてきて、寂しさは同じ大きさの幸せに入れ替わった。



翌日、母は仕事の帰りにおもちゃ屋に寄り、約束を破ったお詫びを買った。その日は帰った頃には寝てしまっていたので渡せなかったが、次の日は昼からの出勤だったために朝に渡せた。


「この間はごめんねー……クマさん気に入ってくれた?」


「くまたん……?」


「そう、可愛いでしょ」


「……ん」


ヘルは渡された薄茶色のクマのぬいぐるみを抱き締め、じっと動かなくなった。母は気に入らなかったのかと落ち込みつつも出勤準備に慌て始めた。

そして帰宅、夕食が終わった頃だろうかと息子達の笑顔を思い浮かべて扉を開くと、聞いたこともない激しい泣き声が聞こえてきた。


「ただいま! 何、何、何!? ギャン泣きじゃない! どうしたの!?」


靴を脱ぎ散らかし鞄を放り投げ、子供部屋に飛び込む。


「あ、母さん。何かヘルがこんなの持ってたから」


そこにはいつも通り涼しい顔のエアが居た。彼は薄茶色のクマのぬいぐるみの頭を掴み、顔の高さで揺らした。

そしてその足にすがりついているのが泣き声の主。


「やぁああーっ! くまたん、くまたぁん! かぇーてぇ! にぃたぁ!」


「……何かなって取り上げてみたらすごい泣いた」


すごい泣いた……のに、ぬいぐるみを返そうという発想はないのか。母は泣き過ぎて呼吸が怪しくなりつつあるヘルを見て泣いていたのはそう短い時間ではないと察し、家に居るはずの夫とエアの行動に薄ら寒さを覚えた。


「お母さんがあげたテディベアよ、この間約束破ったから、お詫びに……」


「そうだったんだ」


エアは掴んだクマのぬいぐるみをしげしげと観察し始める。


「か、返してあげて!」


「……僕にはないの?」


「へっ?」


「母さんがヘルを公園に連れてかなかったからヘルの面倒見なきゃいけなくて研究進まなかったんだけど、その僕にお詫びの品はないの? 研究進まないと国全体が迷惑被るし、公園行けなかっただけのヘルよりよっぽど謝らなきゃならない相手だと思うんだけど」


「ぇ……あ、そっ、そうね。何が欲しいの?」


エアはクマのぬいぐるみをじっと見つめる。


「……これ欲しいな」


「え? ぬいぐるみ? 分かった。明日買ってくるから、それはヘルに返してあげて」


今までぬいぐるみなんて欲しがったことがなかったのに、十歳になって? 母は驚きの後に微笑ましさを覚えたけれど、小さくなりつつあるヘルの泣き声に現実に戻された。


「……早く返してあげて! ひきつけ起こしちゃう!」


「これ欲しい」


「だから、明日買ってくるって!」


「これ、欲しい。同じのじゃダメ、これがいい」


「え……? ダメ! それはヘルのなの、返してあげて!」


母はヘルを抱き上げて背を優しく叩いて宥めつつ、エアが珍しく弟いじめをしているのだと思い始めた。ずっと可愛がっていたから気付かなかったが、きっと自分と弟の扱いの差に不満があるのだと。


「お兄ちゃんでしょ! 弟に意地悪しないで!」


「意地悪なんかじゃない、僕はこれが欲しいだけ」


母の予想は外れている。エアはヘルだけに与えられたことで母からの愛情に格差を感じたのではなく、ヘルがクマのぬいぐるみを気に入っていたから取り上げているのだ。昼寝中も食事の間も風呂にまで持ち込もうとしたクマのぬいぐるみ、ずっと抱き締めて撫でていたクマのぬいぐるみ、いつも自分を見ていた瞳に映り続けるクマのぬいぐるみ……持たせ続けていい訳がない! それがエアの考え。

母に気にかけられている弟への嫉妬ではなく、弟に気に入られたおもちゃへの嫉妬だったのだ。


「……返しなさい!」


母はエアが掴んでいるクマのぬいぐるみの胴を掴み、引っ張る。エアは頭を掴んだまま離さない。


「返しなさいっ……てば! 弟のもの取らないで、お兄ちゃんでしょ!?」


「……絶対嫌」


「どうして……エアは今まで優しいいい子だったじゃない! どうして急にそんな意地悪するの!」


親子の引っ張り合いにクマのぬいぐるみは耐え切れず、首の縫い目から破れ始める。しかし引っ張り合っている二人は気付かない。気付いたのは母の片腕に抱かれていたヘルだった。


「ぁ……あ、い、いぁない!」


「……え? ヘル?」


「くまたん、いぁない…………にぃた」


ヘルは兄を指差して、拙い言葉で伝えた。


「…………いらないの? お兄ちゃんにあげるの?」


「……ありがと! いい子だねぇヘルぅー、ふふ、可愛い可愛い」


エアはクマのぬいぐるみを机の上に放り投げるとヘルを母の腕から引ったくる。母はその身勝手さを怒ろうとしたが、引っ張り合っていた時のエアの冷たい視線と今ヘルを奪い取った力に怯えて何も言えなかった。


「………………ヘル」


母は息子に強く出られない不甲斐なさを抱えて、謝罪と慰めのためヘルの頭を撫でようとする。しかし、その手はエアに叩かれた。


「ねぇ母さん、母親の手を払ったり弟のぬいぐるみを取ったりってのはあなた達が望む僕らしくないよね?」


手の痛みと叩かれた事実に言葉を失っていると、エアがその手に魔法陣を浮かべる。その魔法陣を見て母は驚愕と恐怖を大きくした。


「忘却……!? エア、あなたっ……何回」


自分の記憶は何度改竄されたのか、その恐怖とこれから記憶を弄られる恐怖。しかし、その恐怖も魔法が発動してその身体を横たえると同時に消える。


「……さぁ? 数えてないよ。もう少し感情抑えられるようになって、演技上手くなったらこんな手間も減るかな」


倒れた母の頭に先程とは別の魔法陣を浮かべた手を触れさせ、記憶を都合のいいように弄る。


「…………かぁたん? おかーたん、おかーたん?」


「ふふ……ヘル、こんなヒス女に構ってないで。ほら、僕と遊ぼ」


「にぃたぁ……? にーたま!」


記憶の改竄が終わったらヘルを抱き上げ、母を足蹴にして部屋から追い出す。扉を閉めたら自分をじっと見つめるヘルに心からの笑顔を見せた。



翌朝、ヘルは机の上に置かれたクマのぬいぐるみをじっと見つめていた。父はリビング、母は仕事、兄は図書館。今、子供部屋にはヘル一人だ。


「…………くまたん」


ヘルは母親からの可愛いプレゼントをとても気に入っていた。渡された時なんて感激で言葉が出なかった。

一人で眠る寂しさと怖さを和らげてくれる、お化けを退けてくれる頼もしいクマさん。嫌いなものも好きなものも、食べるのを応援してくれる心強いクマさん。何も言わずに見つめていても話しかけてこない、物静かで落ち着くクマさん。お風呂には連れて行けなかったけれど、脱衣所で待っててくれた優しいクマさん。

そんなクマさんの首が破れている。


「くまたん、いちゃい?」


もらったばかりなのに……なんて考えではなく、初めての友達の怪我を心配していた。

治してあげたいけれど治癒魔法なんて使えない。少し怖いけれどとても優しい何でもできる兄はクマさんを気に入ったくせに、治せるくせに、治さなかった。


「…………ぅ、ふぇ……ぅええん……」


机の上に手が届かない。撫でてあげることもできない。椅子にも登れない。見上げることしかできない。

ヘルはそのうち泣き出してしまった。しかし静かな泣き声が父に聞こえることはなく、泣いているヘルは帰宅したエアが発見した。


「ヘル? お兄ちゃん居なくて寂しかったね、ごめんね?」


「にぃた、くまたん……けぁ……」


兄様、クマさんの怪我を治して。そう伝えたかった。


「……何、ヘルは僕にあのクマくれたんじゃないの? 人の物欲しがるのは悪い子だよ」


「ちぁうぅ! くまたん、けぁ! なぉーて」 


「違うの? そう。あぁ、首破れてるね。でももうアレはヘルの物じゃないんだ、僕はあのままでいいと思う。持ち主があのままでいいって言ってるんだから、口出ししちゃダメだよ」


長く難解な文章はヘルには理解できなかったが、首を怪我した可哀想なクマさんが治療されないとは分かって、またすすり泣く。


「ヘルは泣き虫だねぇ。まぁ……その顔、好きだからいいけど」


エアは泣き顔でも可愛いと思いながらも目を擦るヘルの頭を撫でて泣き止ませようとしていた、やはり笑顔が良いと思っていたのだ。エア自身にも分からない、ドス黒い欲望はまだ表には出ていなかった。




それから約二年の歳月を経て、次男は……ヘルは、小学校に入学し、見込みなしとしてその日に辞めさせられた。


「痛、い……痛いよぉ……母さん……母さん? なんで……?」


馬鹿にされて虐められて追い出されて、母か兄に慰めてもらおうと泣きながら帰ったヘルを待っていたのは肩への包丁だった。


「………………お前なんか産まなきゃよかった」


何度も何度も記憶を改竄された母に積み重ねられたはずの思い出や愛情はなく、同僚に馬鹿にされる屈辱のままにヘルに怒りをぶつけた。


「な、んで…………母さ…………」


倒れた瞬間から腹や胸に創られていく傷の衝撃と痛み、そして何より出血で視界が霞んでいく。

頭を撫でていた手で包丁を握って、微笑みかけていた顔を怒りに歪ませて、宝物だったはずの息子を滅多刺しにする。

そんな母はすぐにエアに止められ、ヘル以上の痛みを魔法によって与えられ、その記憶も消された。


「……ヘル、大丈夫?」


エアはすぐにヘルに治癒魔法をかけて、ヘルは一命を取りとめた。しかし、それは数年間の生き地獄の始まりでもあった。





暗い部屋、少年の声が響く。


『抱き締めて欲しかっただけなのに……どうして、叩くの。なんで、蹴るの……?』


夢現のまま泣きじゃくる。


『痛い……痛いよ、怖いよ……痛い……殴らないで……大好きなのに』


娘に与えたクマのぬいぐるみを見て、無意識に過去を思い出して悪夢を見ていた。


『……殴らないで、痛いのやだ。怒らないで、怖いのもやだ。全部やだぁっ……死にたい、嫌いなら殺して、気に入らないなら消してよぉっ……愛して、よぉっ……誰か、助けて……愛して……』


『愛しているよ、ヘル』


『え……? ぁ………………よ、か……た』


パタン、と頭や胸を掻き毟っていた手がシーツの上に落ちる。半覚醒状態にあったヘルは再び眠りに落ちた。悪夢を終わらせた狼はこれで静かに寝られると安堵のため息をついた。

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