第742話 ピクニック

フェルに作ってもらったお弁当を持って、今日は朝からピクニックだ。夜遅くまで起きて遊んでいたクラールはまだ眠っている。


『……地平線まで薄緑が広がる、素晴らしい景色だな』


ここは以前ルシフェルが暴れ回った跡の草原だ。岩や国や山が薙がれて更地になり、その後ルシフェルから吸い上げた力によって緑溢れる大地となった。

アルにとっては一度死んだ場所だけれど、それを思い出すような素振りは見せない。この美しい草原に覆い隠された過去には気付かないのだろう。


『クラールはまだ眠っているのか?』


『うん……昨日結構遅くまで起きてたからね。なかなか体力尽きなくて、子供ってすごいよ』


サンドイッチを入れる箱の中に入ったクラールは丸まって眠っている。


『ぴりりっ、ぴりちょ、ぴぴぴ……ぴりっぴぴ』


ドッペル達はアルの頭の上で体をくねらせて歌っている。この爽やかな草原と涼やかな風は彼女にも心地好いものなのだろう。


『しかし、何だ……この、打ち紐と言ったか? 貴方は蝶結びが下手だな』


アルの頭の上からクラールが入った籠の上に映ったドッペル達。その首に巻かれた打ち紐を眺めてアルが呟く。


『……クラールの蝶結びは綺麗だが』


あの無骨な手より不器用だと言われるのはショックだ。いや、酒呑が器用なのだ。市販品だと思っていたこの紐も仕事の合間に作った物だそうだし、クラールの背の蝶結びなんてその道のプロの仕業だ。


『私はクラールを見ておくから貴方はハルプとドッペルを飛ばしてきてやってくれ』


『うん、じゃ、お願い。ドッペル、ハルプ、おいで』


ドッペル達を手のひらに乗せ、その手を頭の上に挙げて走る。どこまでも続くような草原を走るのは運動嫌いの僕でも楽しく思えた。ドッペル達の翼の動きをよく見て、投げる。こうやって勢いをつけてやるとよく飛べるようで、ドッペル達は喜ぶのだ。


『ぴぃー! ぴりりりりり……』


高く、高く、円を描いて空を飛ぶ。蛇の身体に鳥の翼と尾羽を広げて、抜けるような青い空を飛んでいく。


『…………ドッペル、ハルプ』


鳶に似た鳴き声が地上に降り注ぐ。翼を広げた細長い影を追いかける。


『……………………ごめんね』


次第に大きくなっていく──落ちてくるドッペル達が僕の声を拾える距離に入る前に、普通の幸せを与えられなかった謝罪を述べた。


『ぱぱぁー! ぱぱっ、ぱぱぁ!』


優しく受け止めると、空を飛んで楽しかったらしいドッペル達は僕の腕の中で暴れる。


『ぱぱっ、ぱぱ……もっぁい!』


『いいよ、何回でも……』


走って、投げて、追いかけて、受け止める。それを何度も繰り返して、それでも飽きずにドッペル達は変わらないはしゃぎっぷりを僕に見せてくれる。


『……そろそろお腹空かない? ご飯は? ごーはーん』


『ごぁん……? ごぁん!』


『食べる? じゃあお母さん……ママのところ戻ろっか』


『まま! ままぁ!』


『ふふ……僕はパパだよ?』


やはりまだクラールよりは意思疎通の難易度が高い。腕の中でご機嫌に歌うドッペル達を眺めながらアルの元に戻った。クラールは欠伸をしてアルの前足に額を擦り寄せていたけれど一応起きてはいた。


『アル、そろそろお昼にしよ』


『あぁ、弟君は何を作ってくれたんだ?』


家族だけが居る草原でお弁当を食べる、僕に手に入るとは思いもよらなかった爽やかな幸せ。


『おにぎりとサンドイッチと……何か色々あるね』


渡された時にもおかしいと思ったけれど、蓋を開けて並べてみるとその異常な量がよく分かる。一つ一つの料理は多くない、料理の数が多いのだ。


『んー……とりあえず、クラール、ドッペル、ハルプ……いただきますして。好きな物から食べていいよ、何がいい?』


夜更かしによる眠気も飛び回った疲れも豪華なお弁当の気配に吹き飛んで、子供達はお弁当の周りを走り回った。


『クラール、ほら、あーん』


『ぁーん…………わふっ』


クラールの口元に人参の煮物を持っていくと、あーんと言われた反射で口を開けるものの入る直前で人参だと気付き、そっぽを向いた。


『人参嫌い? 美味しいのに……要らないならいいけど、食べず嫌いは損だよ?』


食べることなく敬遠してきた食べ物を何かの拍子に食べて好みに当てはまっていた時、自分の直感に対する恨みが膨らみこれまで無視してきたことに後悔するのだ。まぁ、クラールは狼だし、野菜を食べても美味しく感じられないのかもしれないけれど。


『ドッペル、あーん』


『ぁーん……ぴぴっ!』


『ハルプ、あーん』


『ぁーん……ぴりり!』


サラダに入っていたゆで卵の破片をドッペル達に食べさせると、美味しいという表明なのか高い声で鳴いた。ドッペル達は肉も野菜も食べる、好き嫌いのない子達だ。


『アル、あーん』


『え、ぁ、あーん……』


『美味しい?』


『うむ……私は自分で食べられるぞ』


アルも肉ばかり食べている。狼だから仕方ないのだろうか? 試しに尾の黒蛇の口元にゆで卵を持っていってみたが、丸呑みにされた。


『絶対残しちゃうって思ってたけど、意外といけそうだね』


『育ち盛りだな、可愛い限りだ』


アルはお弁当箱に頭から突っ込んでいるドッペル達の翼を舐め、ぷるぷると揺れる尾に頬を擦り寄せた。クラールも同じように毛繕いを受けたが、ドッペル達と同様食べるのに夢中で反応は見せなかった。

子供達が食べようとしないおかずは僕が食べて、そんな僕でも満腹になるくらいの量があった。昼食が終わる頃には子供達は目に見えて腹が膨らんでいた。


『ふふ、お腹ぱんぱんだね、破裂しちゃいそう……しない、よね?』


『する訳無いだろう』


アルも腹が苦しいのか食事を終えてすぐに横になった。満腹で大人しくなった子供達をアルの腹の上に乗せ、クラールは右手でドッペル達は左手で撫でる。


『おとーたん、おかぁたん……あったあぁい』


『ぱぱぁ、ままー……すきー』


腹が膨れて眠くなったのか声が小さくなってきた。


『おねーちゃん、おねーちゃん、ぴぴ、ぴりり……』


『どっぺぅー? はるぅ? わぅ、わふ…………くぅーん……』


珍しくも互いに額を寄せ合い、静かに鳴き声を交わしている。会話をしているのだろうか? 僕には何を言っているのか分からない。

話の内容が分からない僕はただ微笑ましく思っていたが、アルが慌てて起き上がったのを見て心に冷たいものが差した。


『アル……? な、何?』


上半身を起こし、捻り、自身の上に乗った子供達を見つめるアル。体勢が苦しそうだったので子供達を抱き上げ、僕の胡座の上に乗せた。


『……何て言ってるの?』


アルは僕の膝の上に顎を乗せて子供達を見つめている。僕の声に反応して瞳だけを上に向け、悲しげに高い声で鳴いた。


『…………別れの挨拶だ。お姉ちゃん、さよなら、一足先に行くね、お父さんとお母さんお願いね……翻訳するとこの辺りだ』


『え……? ドッペル? ハルプ……? まだ、だよね?』


クラールの頭を挟むように二つ頭を擦り寄せていたドッペルとハルプは揃って顔を上げ、僕とアルを順に見つめた。


『ぱぱー、ままー』


『……なぁに? また飛びたいの? いいよ、遊ぼ? もっと歌お?』


『ヘル』


『ドッペル、ハルプ……言ってごらん? 僕、何でもするから……』


『ヘル、やめろ』


黒翼に肩を抱かれ、必死に目を擦って涙を拭う。無理矢理笑顔を作ってドッペル達の頬を順に撫でると、嬉しそうに僕の手に身体を擦り付けた。クラールが何かを促すようにドッペル達の傍で鳴き、ドッペル達は改まったふうに二つ頭を持ち上げて翼を広げた。


『ぱぱー、ままー、あぃあとぉー……だいすきー!』


『僕も……パパも、ドッペルとハルプのこと大好きだよ、ありがとう』


『…………私もだ。愛しているよ、ずっと……』


ドッペルは僕の親指に頭を寄せ、ハルプは傍に来たアルの額に頭を寄せた。広げていた翼が手の甲に重なって、手の中の細長い身体から力が抜けていく。


『……ドッペル? ハルプ?』


涙を堪え、天使の力を使うよう意識して目を凝らす。半透明の二匹の蛇がアルの頭に寄り添っているのが見えた。僕が見ていることに気が付いた二匹は翼もないのに僕の顔まで浮かんで、頬に擦り寄った。


『…………ありがとう』


ふわふわと浮かんで雲ひとつない青空に溶けていく。


『………………さよなら』


そのうちにどこにも見えなくなって、僕の手の中には魂も霊体もない可愛らしい抜け殻だけが残された。


『……ヘル? 何か見えたのか?』


『ん……ちゃんと、いけたよ。二人で……』


僕は上半身だけを倒し、アルの首元に顔を埋め、声を殺して泣き叫んだ。

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