第660話 妻帯者達

唇に触れたのは分厚い皮膚に覆われたごつごつとした手。口を覆うそれは骨ばっていて、サタンの口付けから僕を守っていた。


『……だから、貴様に疑われると余はとても悲しい』


サタンは何事もなかったかのように僕から両手を離し、茨木の方に向き直った。茨木は義肢を元に戻して無言で再び歩き始め、サタンは彼女に続いた。


『…………ま、待てやおっさん!』


『……何だ若造』


振り返ったサタンは眉を顰めていた、おっさんという呼び方に明らかに不機嫌になっている。


『何やってん今の! 自分今頭領に何を……!』


『口付けだ、貴様のせいで出来なかった』


『この変態堂々と……』


『女装を強要している貴様に変態などと言われたくはないな』


口付け……やはりそうだったのか。背後に居た酒呑が手を挟んでくれなかったらどうなっていたことが……いや唇が重なるだけだけれども。前世で求婚されていたのは知っている、見た、だがあれからどれだけの歳月が過ぎている? 今は僕も彼も妻帯者だろう。今世の僕は男だし。


『強要してへんし茨木は俺のそういうんとちゃうわ!』


『この国では盛んと聞いたぞ』


『何が!』


『男色』


『人間の話やろ!』


そろそろ息苦しくなってきた。


『ふへんはぁひへ……』


『頭領もう嫁も子供もおんねん、ええ歳したおっさんが手ぇ出すな!』


『今の貴様も手を出している……襲っている最中に見えるな』


『はなぃて……』


離してともまともに言えない。手が大きいせいなのか鼻まで押さえられていて本当に苦しい。そろそろ視界がボヤけてくる頃だろうか。


『ただのジョークだ、そうムキになるな。本気の訳がなかろう……余はリリス一筋だ』


『そういう冗談は控えてくださいサタン様……子供の前ですよ。それと、鬼、防いでくれたのは感謝するがそろそろ離せ、ヘルを殺す気か』


『ん? おぉ、堪忍な頭領』


『……はぁー、死ぬかと思った』


頭に鍬が振り下ろされた時くらいに死を覚悟した。


『では、改めて』


『やめんかい!』


『ジョークだ。いい反応速度だな』


サタンはこんな性格だっただろうか。


『……サタン、何か前と違うね』


『分身だからな。作った時の気分によって微妙に性格が変わる。本体と繋がってはいないからな……』


どんな気分の時に作ればキス魔になるんだ。


『何考えて作ってん』


『何……と言うか、リリスが膝に乗っていたな。唇を重ね、服を乱し、肌を触れ合わせていた』


なるほど。


『……なんで僕に』


『一番抵抗が弱そうだから、だろうな』


『冷静に最低な理由を分析するね。その理由分かってたら本気で抵抗するよ』


『理由が分からなくても抵抗してくれないか、私の旦那様? クラールの目の前だぞ』


殴り飛ばされそうだと構えていた時に顔を近付けられて抵抗が間に合う者など居ない。不意打ちは数えないで欲しい。


『……はぐらかされてたけどさ、ベルゼブブ……どうして』


『余は知らん』


『…………本当に?』


『そう疑うな、傷付くぞ』


無表情のまま視線も寄越さず「傷付く」と言われても困る。悪魔は欲望に忠実なようで本心が見えない者が多いが、サタンは特に何を考えているのか分からない。王なのだから僕如きには分からない、と言ってしまえばそれまで。


『接触を図るのはジョークだ。だがな、愛しているのは本当だ、魔物使い、支配の属性を持つ魔界の弁……貴様の存在を何より愛しく思っている』


ベルゼブブは食、ベルフェゴールは睡眠、アシュメダイは性──皆、呪いと合致した欲望を持ち、それだけに忠実。サタンは憤怒、それなのに今目の前に居る彼は温和な笑みを向けて、僕が幼い頃から欲しがっていた言葉をくれる。


『……僕、居ていいの? 僕が居たら、嬉しい?』


微笑んで肯定してくれる。

母には産まなければよかったと叫ばれて、父には存在をなかったことと扱われて、自分は居てはいけないのだと一桁の年齢で悟った。必要だと言われるのはストレス発散用の玩具としてで、弟としては出来損ない、そう教えられた。

今は仲間が大勢居て、妻も子供も居て、幸せだ。けれど未だに存在に自信を持てない。皆のために立っていなければというただそれだけの理由で立っている。そんな僕にとって存在を肯定してくれる人を疑うのはとても難しい。


『…………ありがとう。疑ってごめんなさい……今度ベルゼブブを見つけたら直接聞くよ』


姿勢を戻し、アルの首に手を添える。

ベルゼブブに命令を下したのは別人、ベルゼブブが嘘吐き、サタンが嘘吐き、ベルゼブブに命令が下ったというのは僕の勘違い──この四択か。三つ目は今否定されて、一つ目は可能性が低い。兄のことを忘れたりクトゥルフを崇めたり、ぐちゃぐちゃな記憶の僕なら四つ目の可能性が高いから怖い。


『……頭領、気ぃ張りや。多分このおっさん口からでまかせやで』


『なんてこと言うのさ酒呑』


『見てみぃ胡散臭い顔しとるやろ』


眉目秀麗という言葉が似合う美顔だ。高い鼻も緩い弧を描く細い眉も、爬虫類のような瞳孔の鋭い瞳も、褐色の肌と漆黒の髪にまとめられて恐怖と安心を同時に与えてくれる。


『別に胡散臭くないけど』


『貴様の方が余程胡散臭い』


『なんやと!? んなこたないよなぁ頭領!』


四白に近い三白眼はサタンと同じく金色だ、瞳が小さいから色は分かりにくいけれど。ギョロっとしたそれは僕に恐怖を与える。燃えるような赤髪は鮮やかで綺麗だと思えるけれど、鋭い牙が見え隠れする大きな口は怖い。


『……酒呑は、その、顔怖い』


『…………さよか』


『ぁ、いや、実際かなり優しいし、僕には結構甘いし、たまにアルより心配性なんじゃないかって時もあるから、うん、大丈夫だよ? 顔以外は怖いと思ってないから!』


『顔以外……そない顔怖いんか』


『ぅ……ぃ、いや、純粋な顔の怖さだけで言ったら多分クリューソスあたりがゆうしょぃたいっ!』


肩の辺りに打撃と斬撃が混ざったような痛みがあった。唸り声に視線を落とせばクリューソスが牙を剥いており、痛い箇所に手をやれば深い引っ掻き傷があった。


『俺のような美男子を捕まえて顔が怖いなどとよく言うな、俺は優しい顔立ちだ』


『どこがだよ……カルコスはまだ表情豊かで可愛げあるんだけど、クリューソス表情変わりにくいし変わったと思ったら怒ってるし……怖いんだよ』


『様を付けろ下等生物がっ!』


『そういうとこぉ!』


虎界隈で優しい顔立ちだと話題になっていようと、僕には恐ろしく見える。いや、虎界隈って何だよ。


『頭領はん、うちは? うちの顔怖い?』


前を歩いていた茨木が隣に並ぶ。

切れ長の赤い瞳は少し恐怖を覚えるが、それはどちらかというと魅力になる方の怪しさだ。化粧が落ちてしまっている今でも彼女の艶っぽさや危険な魅力は収まらない。


『うぅん、すっごく綺麗。なんかいつもと雰囲気違う……ぁ、服違うね。いつもより露出が多くて……多く、て』


セクシー? いや、真逆。


『…………目のやり場に困るね』


筋骨隆々という言葉が似合う。いくら鍛えていると言っても女性でここまで筋を浮かすことは出来るのだろうか、鬼だからで納得していいのだろうか。


『嫌やわぁ頭領はん、お世辞上手やねぇ』


『ゃ、お世辞って訳でもないけどさ……』


露出と色気が反比例することもあるのだな。


『……そういえばセネカさんは?』


露出について考えているとセネカの顔が浮かんだ。


『植物の国に残っている。ベルフェゴール様もな。神虫は倒したが天使やらが攻めてくる可能性もあるからな……』


神虫を倒したのか、これで不安要素は消えた訳だ。


『…………ところで、ヘル。その……私の顔はどうだろう。自分ではかなりの強面だと思っている……男に間違えられる事も多いからな』


狼に雌雄で顔立ちの違いがあるのか? あっても僕には分からない。アルが男性的に思われる原因は口調と声の低さだろう、人間視点での話だが。


『アルは確かに顔怖いけど可愛いよ? 黒目おっきくて可愛いし微妙に目が合わないことたまにあってセクシーだし、口が大きいってのも色っぽいよね、真っ赤に濡れた舌が口の周り舐める時とかもう……もう、五体投地だよね。あと耳好き、耳。小さい音聞く時にぴくぴくするのとか、落ち込んだり眠い時に倒れるのとか、っていうかもう三角なのがいいよねはむはむしたい。あとさ、あとさ、首傾げるだろ? あれ何? ときめきで殺す気? 音の距離探ってるとか言ってたっけ? 僕の心臓の音かなぁ。それとね、口の周りのぷにぷに堪んない。触るとちょっと嫌そうな顔するのもいいよね、ごめんね? 気持ちいいんだよぷにぷにしてて。それとさ、首のあたりのあの皮何? 引っ張っても何ともないんだよね? 怖いくらい伸びるよね、あれも結構気持ちいいんだ。あとさ、首周りの毛のふわふわ感とおでこの短いとこの差も良くってさぁ』


『へ、ヘル……? もういい、もうやめてくれ……』


『あーでもやっぱりお腹の毛が一番かなぁ……仰向けにさせて顔埋めて深呼吸したら二十四時間頑張れますよって感じ。アルがちょっと照れた感じで嫌がるのもいいよねごめんね。っていうか仰向けにした時の足の曲がり方可愛過ぎっ……ん、むー、んぅーっ!』


『ちょっと黙り頭領、うるさい超えて気色悪いわ』


うるさいの上は気色悪いではないだろう。的外れな反論を頭の中だけで唱え、口を塞いだ手を引っ掻いた。

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