第656話 清き血に穢れの肉
蹴り飛ばした男も、僕も、注連縄の囲いの中に入ってしまった布の塊を見ての感想は同じだ。
『あっ……』
小烏も同じだった。まずい、やばい、そんな抽象的で拙く短い言葉すら出ない。避けられない危機を察して思考が止まる。
「坊やっ! あぁ……大丈夫? 私の坊や……」
皆が動きを止める中、ヒナだけは動いた。注連縄を越え、蛇石の上に登り、布の塊を抱き上げた。蹴られて転んだ時に石畳に擦った腕の傷から血が垂れて、蛇石に赤い斑点を作っていく。
「ぁ、あっ……ぁあ…………伊吹大明神様っ、申し訳ございません! うちの娘が、あぁ、どうかお許しを……」
男は周囲を見回し謝罪を叫びながら注連縄を越え、ヒナを蛇石から引き摺り下ろして囲いから出た。
「娘は何も分からないのです、何も分からなくなってしまったのです! 責任は私に……ですから、罰なら……私、に……」
怯えながらも娘を後ろに庇い、土下座するその姿は確かに「親」らしいもので、僕の心に暗い影を落とした。ヒナは愛されている、可愛がられているのだ、僕と違って、大切に育てられてきたのだ。
『……主君、主君! 逃げましょう、此処は些か危険です』
ヒナは蛇石から降ろされる時に足に擦り傷を負い、それの血も蛇石に赤い模様を付けていた。だが、その血は石の表面から消え失せる。
石を囲う注連縄を留める為の杭、地面に打たれたそれが傾いている。先程までは真っ直ぐに立っていたのに、石に押されて傾いている。蛇石が大きくなっているのだ。
「剣、ですか……? そっ、それを捧げれば、ヒナを……私を、許して頂けるのですね?」
男が虚空を見上げ、何かと会話している。
「はっ、は、はい! もちろんっ……すぐに、明日までには!」
男はヒナを置いて走り去ってしまった、逃げた……という訳ではなさそうだ。明日までにと言っていたか、何をするつもりなのかは分からないが、まずい事態には違いない。何を捧げると言っていた? 剣? それが何だと言うんだ?
『……ヒナさん、お家に帰りましょう』
「坊やが……坊やが、泣かないの。動かないのぉ……」
『ええ、その子のためにもお家に戻って、ちゃんと手当しないと』
「そ……そう、よね、お医者様を呼ばなきゃ」
涙を拭い、立ち上がる。歩き始めた細い足に何かが絡み、ヒナは足を止めた。
「え……? あれ? 足、動かない……」
巻き付いているのは朽ちた縄だ。縄が地面から生えている。古びて腐り、すぐにでもちぎれそうなそれはヒナの足を離さない。それどころか逆に引っ張って、ヒナを蛇石の前まで引き摺った。
『……小烏っ! 切るぞ!』
『え? えっ!? ま、待ってください主君!』
注連縄の囲いの前までヒナを引き摺ると、また新たに地面から縄が伸びる。朽ち縄はヒナの手首に巻き付き、膝に巻き付き、胴に巻き付き、彼女をぺたんと座らせる。
「坊や! や、やだ……どうして? なんで動かないの?」
ヒナには縄が見えていないらしい。手首を縄に地面と遊びなく縫い付けられ、開いた腕は布の塊を地面に転がした。
影に手を翳して刀を呼び出し、朽ち縄に向かって振り下ろす……だが、キィンと甲高い音が鳴るだけで、縄は断ち切れない。
『……っ、痺れた……何この縄』
『痛っ!? しゅっ、主君! 主君……やめてください、折れてしまいますぅ!』
『折れる……?』
刀を目の前に持ち上げてみれば、その美しい刃は僅かに欠けていた。
『小烏を乱暴に扱わないでください! 切れない物に叩き付けられればそりゃあ欠けますよぅ! ふぅぅ……痛いですぅ』
『え……? 痛いって……まさか連動してるの?』
取り憑いているなら刃が欠けて痛みを感じることもあるのだろうか……これ以上は小烏が危ない、やめておこう。僕は刀を影に戻し、小烏も一撫でしてから影に戻した。後で修理の仕方を調べなければ。
『……クラール、大人しくしててね』
クラールを地面に下ろし、頭を撫でる。クラールは隣に転がる布の塊の匂いを嗅いでいる、少しの間は動かないだろう。
『ちぎれ、ろっ……! このっ!』
縄を掴み、引っ張る。だが縄はビクともしない。鋭い爪が自分の掌に刺さり、食いしばった歯がギリギリと不快な音を立てる。
『あぁっ! クソっ!』
「……ね、ねぇ……坊やを、坊やをお医者様に見せてあげて? 私、どうしてか身体が動かないの……」
『今、動けるようにしますからっ……』
「ダメ! 先に坊やを……お願い、さっきから少しも泣かないの……」
ヒナの父親は明日までに何かを捧げると、そうすれば許されると、そんなことを言っていた。それなら明日まではヒナが死ぬことはないだろう。命ない布の塊とはいえヒナにとっては蹴られ踏まれた重傷の我が子、自分より優先して当然だ。
『……分かりました。医者に預けたらすぐに戻りますからね!』
「ぁ、ありがとうっ……ありがとう!」
布の塊とクラールを抱き上げ、翼を広げて飛び立った。ヒナの家に戻って布団に布の塊を置いて、またすぐに飛び立とうとした。だが、塀を踏み台にした右足が弾けて、通りに落ちてしまった。
『いっ、たぁ…………クラール、大丈夫……?』
『わぅ……わん!』
皮膚と肉が飛び散り、骨がひしゃげた大怪我ではあるがクラールの無事の方が重要だ。僕の激痛よりもクラールの擦り傷の有無だ。
『大丈夫だね……良かった…………ぅ、ぐっ……痛、ぃ…………ふぅっ、ふ、ぁ……やばい、治せない……』
激痛に集中が乱され、再生が遅れる。それどころか傷口から無数の黒い蛇のようなモノが生まれて、再生したばかりの肉やまだ足を形成している肉や骨を喰っていく。
『ぅぁあっ!? ぁぐ、くっ……そぉっ! 何なんだよっ、この……こんな、足ぃっ!』
破裂したのはふくらはぎだ、それより上は無事だ。僕は右膝を掴み、捻り、関節を外して足を引きちぎった。
『ぁあぁああっ! ぁ、はっ……よし。やっ……た、行こ、クラール……ヒナさん助けなきゃ』
塀を支えに片足で立ち上がる。再生が進まないと言っても全くではない、集中出来ないから早くは終わらないだけで少しずつは治っている。動かずに痛覚を消すのに集中して、それから再生に集中した方がいいのだが、そう思考出来るだけの余裕があれば再生は既に終わっている。
『おとーた……?』
『ん、大丈夫……だい、じょーぶ……平気、このくらい……そうだ、にいさまの方が、よっぽど上手かった……僕を、痛がらせるのも、泣かせるのも……僕はまだ動ける、まだ、いける、大丈夫……大丈夫』
激痛と出血で歪む視界に、半透明の蛇の頭が現れる。それは先端が二又に分かれた舌を伸ばし、シューと鳴いている。そして、地の底から響くような低い声で話した。
『酒を寄越せ』『極上の酒を』『酒を持ってこい』『さすれば』『傷も治し』『祟りを止めよう』『酒を持ってくれば』『全て戻そう』
蛇は一匹ではなく、目の前だけではなく、僕を囲むように佇んでいる。ゆらゆら揺れて、僕に話しかけてくる。
『…………酒?』
『そう』『酒』『酒を』『甘く』『熱く』『蕩ける』『身体を焼く』『そんな酒を』
『……どこにあるんだよそんなもん』
『無ければ』『祟り殺す』『絞め殺す』『娘の四肢引きちぎる』『滴る血を呑む』『父親も喰い殺す』『貴様を祟り続ける』『未来永劫絞め続ける』
『………………分かったよ』
表情なんて分からないはずの蛇はニィっと笑い、僕の視界から消えた。黒い蛇のようなモノが足の断面にまとわりつき、右足になった。感覚もあるし再生したと見ていいだろう。
『……酒、ね。酒……蕩けるような、焼けるような酒……僕はアレしか知らないなー……』
塀を踏み台に翼を広げる。目指すのはこの国に来て一番に連れていかれた豪邸だ。
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