第643話 Great Old Ones
恐怖に落ちたセネカだとか僕が皆の意識を奪っていっただとか、そんな騒ぎの中で酒呑は集中を欠くことなく僕の服の袖で封印の札を完成させた。それをツヅラの額に押し付け、蔦で上から縛って固定した。
『……おぉ! 何これ〜、あはは、止まった気がする〜』
『…………うん、聞こえへんようなったわ、頭領はん』
『そっか、じゃあみんな起こしていい?』
『……いや、もうちょい待っとき頭領。頭に直接声来んでもコイツと話したらやばいわ』
『え〜、僕そんなに〜? そこまで〜?』
頭が悪そうだし、話しているとイライラするだけで大丈夫だと思うけれど……一応助言は受けておこう。疲れるのでクリューソスの完全支配は解いて、気絶させておくに留めよう。
『……まぁ、畏怖ってのはいい傾向だよ〜?』
『…………なんや飲みますか』
『ん? お酒? 口付けてないならもらう〜』
酒呑は隠し持っていたらしい新品の酒瓶をツヅラの前に置き、彼の腕を縛る蔦を解いた。
『……酒呑? ちょっと、解いて大丈夫?』
『頭領、すまん。ちょっと黙っとって。俺に任してくれんか』
『…………分かった』
僕は状況があまり理解出来ていないし、酒呑は相当詳しいようだ。一先ず下がっていよう。
『そこそこかなぁ〜』
『……そらえらいすんません。なんや食いもんでも持ってきましょか』
『ん〜……気分じゃない』
『…………さいで』
彼があそこまでへりくだるなんて初めて見た。茨木の袖を引いて少し離れ、小声で話す。
『……ねぇ、あれツヅラさんじゃないの? やっぱり違う奴?』
茨木は一瞬目を見開き、呆れたようにため息をついた。そんなことも分かっていなかったのかと言われた気がした。
『ツヅラ言うたっけ? あの神父さん、口寄せしたみたいやね。しかも神口。酒呑様の術に乗じたんか……しっかしだいぶ深く自分を渡してはるなぁ、降ろした言うてもええかもしれんね。あんだけ深ぁ繋がったらもう元に戻られへんで。あれが帰ってもまともには……なぁ』
『……口寄せとか、降ろしたとか……よく分かんない』
『口寄せ……死んだもんとか、神さんとかの言いたいことを自分の口で言わせるんよ。酒呑様ちょくちょく蛇喚んどるやろ? あれは神口の応用。降ろした……まぁ、取り憑かせた、言うこっちゃ。分からはった? 幽霊に身体乗っ取られたようなもんやな』
僕がたまにライアーに勝手に身体を動かされるのと同じだろうか。石を見つめて呼び出しを試しながらそう言うと茨木はクスクスと笑い、答えを返してはくれなかった。ライアーは来なかった。
『……ほんで、今日はどないな目的があって?』
『ん〜、体くれるって言うから来てみただけだよ。割としっくり来るし、このまま化身としてもらっちゃおっかな〜?』
『…………ツヅラ、言うんやったっけ』
『あ、名前あるんだ? そういえばそこの白いのがツヅラツヅラ言ってたねぇ』
今ツヅラの身体を動かしているのが彼が喚んだ神性か何かだと言うのなら、それは彼が信仰する創造神ではなく彼が主として崇めた海の底の何者か。
『……あんさんは、名前何て言うん?』
『ん〜? くとゅ……りる…………けほっ、ぁ〜、この体発音しにくいなぁ……ん〜、仕方ない、クトゥルフ、でいいや〜……』
『クトゥルフ……!』
『様を付けろよ』
『……クトゥルフ、様……こらえらいすいません』
『あはは、じょ〜ぉだんだよぉ〜、君なら呼び捨てでもいいって〜』
聞き覚えがあるようなないような……それにしても時折に声を低くして間延びせずに話すのは何なんだ。僕の時にもあった、脅しているつもりなのか? 逆に滑稽だぞ。
『…………ほんで、クトゥルフ様……』
『呼び捨てでいいって言ったろ? 様、要らない。冗談なんだって。分かるよね? 分かってなかった? 友好の証も受け取れないのかなぁ君は、水神の落とし子だから良くしてやろうと思ったのにさ。僕の言うこと聞いて余計なこと考えず僕の言うこと完璧にこなしてればいいだけなのにどうしてそれが出来ないのかな僕は寛大だから一度目は笑って許したげるよ二度目はない潰す。じゃ、やり直して』
頭が悪そうだとか、危険性はないだとか、間抜けだとか……今まで言ったり考えたりしたそれらの言葉全て撤回する。危険だ、この、神性……だろうか、何なのかはよく分からないが、とにかく危険なことには間違いない。
『…………クトゥルフ、は……その体使うてなんかするつもりなん?』
『ん〜、せっかく他の奴らより早く地上に出られた訳だし、返り咲き狙っちゃう〜? 海水も微妙だけど使えるようになってきたしぃ〜、今ならイケる! 気がするなぁ〜』
『……そー……なんや、へー……』
酒呑の顔色が悪い。歯切れも悪い。そろそろ助け舟を渡した方がいいだろうか。僕では邪魔になるだろうか。
『せっかく旧神が居なくて実在出来る世界に来れたんだし〜、色々やらないとねぇ〜……他の奴らと衝突しないように細々と? いまのうちに勢力拡大して他の奴らを突き放す? ふふ、んふふふふっ』
放っておいてはいけないことは確か。だがツヅラの肉体に攻撃を加えてもクトゥルフとやらに損害はほとんどない、活動は一時的に止められるがツヅラの再生能力は非常に高い上に血を流し過ぎると穢れがどうとか……全く問題解決の糸口が見つからない。
『…………クトゥルフ……様、少しいいですか』
様を付けるなと言ったのは酒呑にのみ、僕は付けておいた方がいいだろう。
『ん〜? あぁ、白いの…………へぇ、君が失敗作のお気に入りか』
『…………失敗作?』
『引きこもっちゃって……まぁ、剥き出しじゃあテレパスの前には出れないよね〜? あんまり近付くと統合されちゃうし〜……かな? ふふ』
間延びした無害そうな口調は粗雑な隠れ蓑だ。言っている意味はよく分からないが、異質さと危険性だけはひしひしと感じる。
『…………地上がどうとか、勢力拡大とか……何か組織でも作る気ですか』
『教団はどっかにあるはずだからさぁ〜、せっかく待ってくれてるんだしぃ、降臨してあげないと』
教団……怪しい言葉だ。
『神様にでもなったつもりですか』
『変なこと言うなぁ君は……僕、神様だよ? 君達は僕を信じ僕を愛し僕を敬い僕が教えるとぉ〜りに動くんだ。それが唯一君達が幸せになれる道だよ』
彼のテレパシーは僕には受信できないけれど、他者への送信を妨害することも出来ない。イミタシオンで起こった記憶や精神への不調はテレパシーの影響だったはずなのだが、今僕が影響を受けていないのは……成長したと素直に喜んでいいのだろうか。
『クトゥルフ、教団がどうとか降臨だとかは許可できない』
『頭領! もうちょい……』
『下がって酒呑、こいつと交渉なんか無理だ。君だってこれ以上やっても仕方ないって分かってるだろ』
止める酒呑を押しのけて眠そうな目を睨みつける。ついさっきまでツヅラは死んだ魚のような濁った目をしていた、少し眼球が飛び出していた。だが、今の彼の瞳は半分閉じていて長方形に似た瞳孔をしている。
『………………様を付けろ』
『これ以上人界を引っ掻き回されると困るんだよ、クトゥルフ、悪いけど──』
『君、お兄さん怖い人なんだ?』
何を突然。僕には兄なんて居ない、ライアーは兄と呼んでいるだけの他人で、彼も怖い人などではない。
『……あぁ、可哀想に。酷い目に遭ったんだね、だから疑り深いのかな? でも大丈夫、僕を信じてさえいればそれで全て救われるから』
『ライアー兄さんは怖くなんてない! 意味分からないこと言って誤魔化そうったってそうはいかないぞ!』
額に蔦で固定された札がボロボロと崩れていく。焼けた後のように、砂のように、蔦まで崩れ去った。
『大丈夫だよ、大丈夫。全部大丈夫にしてあげる。安心させてあげる』
肌に何も触れていないのに身体中をぬめった何かが這い回るような不快感に襲われる。
『可哀想な子、可愛そうな子、愛しい子……僕の傍でおやすみなさい、僕の夢にいらっしゃい……おやすみ……おやすみ、もう、全……大丈……から』
『……っ!? ぅ……何、を』
『抵抗しないで、大丈夫、安心して……大丈夫、大……夫、安心……て、ゆっくり……夢を……見……』
天井が視界いっぱいに、壁が足元に、床が背に、低い声が遠くなって世界がひっくり返る。テレビの電源が切れるように、僕の世界は暗転した。
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