第611話 送り狼

鋭く伸びた爪でグラスの縁をなぞり、傾け、グラスに映った自分の額に角を見つける。『黒』と同じ真っ直ぐの赤い角だ。突然角を生やし爪を伸ばした僕に戸惑いながらも店員は代金を受け取り、マニュアル通りの対応を見せた。


『……っ、とと……』


アルは座ったままカウンターに顎を置いて眠ってしまっていた。アルが座る椅子を回し、前足を肩に乗せる。顎をカウンターから頭の上に移し、後ろ手で腰を支え、その手に尾を引き摺らないように巻いて、大きな重い身体を持ち上げる。


『…………すいません、扉開けてもらえませんか。手、塞がっちゃって』


「……ぁ、あぁ……嬢ちゃんそんなもんおぶって歩けるのか?」


『大丈夫です。ありがとうございました』


昼食前にこの店に来て、酒のツマミを昼食代わりにし、外に出てみれば空から赤が消えていく途中だった。夕方の終わり、夜の始まりだ。


『……アル、見て。空綺麗だよ』


言葉はなく、店で背負った瞬間から変わらない寝息だけが返ってくる。


『アルを負って帰る日が来るなんて思わなかったよ』


夜になっていく時間に郊外を歩き回る者は居ない。遠いネオンの輝きとそれよりもずっと遠い星々の輝きを見比べ、一人その美しさを語りかける。


『アルは星を見るのが好きだって言ってたよね、月を見ると吠えたくなるんだっけ? 街の灯りはどうかな、アルはああいうの好きじゃない感じするなぁ。人工的って言うの? 遠くからなら綺麗な夜景なんだけど、その灯りの下で何してるのかなって考えちゃってねー……』


明確な返事はなくともアルの体温と吐息さえ感じていられたら僕は満足だった。


『海とかはどうかな、夜は真っ黒でちょっと怖いけど灯台とかがあれば波に反射して綺麗だし、昼間の海は何もいなくても楽しそうなんだよ。嵐の日とかは荒々しくって怖いけどワクワクするよね。あとは……木漏れ日とか? やっぱり植物の国が圧倒的なんだけど、家の裏の森もなかなかいいんだよ、今度また釣りに行こうと思ってるからその時に一緒に木の下でお昼寝しようよ。暖かいし、時間もゆっくりなんだ』


ヴェーン邸の門を目の前に、僕の気分は少し落ち込む。


『……二人で色んなところに行こうね、アルはどんな景色が気に入るのかな。僕は……僕は君がいればどこでもいいや。街の焼け跡でも、骨の山の上でも、血の海でも、君さえいればそれでいい、君がいなきゃどんな絶景も見る価値ないよ』


軽く地面を蹴って跳び、鉄柵の上に乗る。月を見上げながら少し歩いて、誰も手入れをしなくなった畑に降りる。


『…………にいさまも、ベルゼブブも、他のみんなが僕の傍からいなくなったって……アル、君さえいれば僕は幸せなんだ。でも君がいなかったら全部あってもダメなんだ、君がいない世界になんて生きてる意味ないよ』


靴を脱いでベンチの土埃を足で適当に払い、その上にアルを寝かせる。靴を履いて芝生に座り、ベンチの肘掛けに頭を預け、アルの静かな寝顔を眺める。


『ほら……アル、今日は昼から快晴だったから月も星もよく見えるよ。特に……月が綺麗だ、とっても。君の傍だからかな…………アル? 起きちゃった? ごめん、うるさかったかな。それともベンチ硬かった?』


アルは酔い潰れて眠っていたとは思えないほどに明瞭な目を僕に向けた。


『…………まさか、貴方が私を運ぶとはな』


下半身は倒したままに上半身を捻り、黒い双眸に僕をハッキリと映す。


『済まない、ヘル。実は店で貴方が私をおぶろうとした時に起きたんだ。貴方が私を簡単に持ち上げたから少し甘えたくなって、ずっと寝ているふりをしていたんだ』


『え……ぁ、そうだったんだ』


『…………私も貴方さえ居れば幸せだ。どんな景色だって貴方と見るなら美しい。それとな、ヘル。月が美しいのは今に始まった事ではないよ』


どうせ寝ているからと調子に乗って話してしまった。その返事が一気に来た。まぁ会話のつもりではあったのだから、焼けるような顔の熱さに耐えるだけでいい、逃げる必要も叫ぶ必要もない。


『……頼もしくなったな、旦那様。綺麗な角だ』


『ぁ……うん』


アルに触れたりアルに擦り寄られたりするのに鬼の姿は相応しくない。尖りがあるのは良くない。


『アルは……どんなのが好きかな。角とか爪とか危なくない? 天使っぽい羽とか光輪とか腹立たない? 髪、こんなに長かったら鬱陶しくないかな。ただでさえ女々しいのに……なんか、最近特に見た目変わってきてるから。太ったし……』


『……今の貴方は健康的で良い、勿論以前までの貴方も良かったがな。角も爪も翼も光輪も貴方のものなら愛おしい。髪は……そうだな、毛先を揃えて前髪を作るくらいはした方がいいかも知れん。だがあまり切るな、魔力が減るぞ』


『えっと、えっ……と、髪をちょっと整えればいいんだね?』


『後、自分で髪を結う程度は出来るようになれよ。私はやってやれないからな』


『えー……めんどくさい』


腰までの長さなら後ろで結ぶだけでいいけれど、ここまで伸びるとヘアゴムを通すのも手間だし結んだだけでは引き摺ってしまう。結い上げてもらうのが一番楽なのだ。


『その程度の事を面倒臭がるな』


『毎日じゃなりゃいいんだけどねー。でも、酒呑仕事だったら出来ないしなぁ……フェルはやってくれないし。まぁ、なんか楽なの考えておくよ』


『……少しは毛の手入れの大変さを知るんだな』


確かにアルは睡眠以外の暇は毛繕いに費やしている。全身の銀毛に二枚の黒翼、手入れされたそれらは常に美しく輝いている。


『でもお風呂の後に乾かしてブラッシングしてるのは僕だよね?』


『…………そうだな』


『……アルはヨダレでベタベタにしてるだけだよね?』


『その言い方はやめろ!』


カルコスもクリューソスもそうだけれど、どうして獣は自分の唾液を塗りつけて綺麗になると思っているのだろうか。人間と違うのは感覚なのか唾液の成分なのか……気になるところだ、聞く気も調べる気も起きない程度だけれど。


『ごめんごめん。でもさ、アルが僕の髪を整えて僕がアルをブラッシングすれば平等じゃない?』


『…………そうだな、ベタベタにしてやろう』


『ごめんって。拗ねないでよ』


アルはさっぱりきっぱりとした潔い好漢に見えて、べったりと嫉妬深い拗ね方が可愛い乙女だ。


『……あの、誤解しないでね? アルに舐められるのは好きなんだよ? 噛まれるのも、食べられるのも、全部好きだよ』


『…………そうか』


『アルにされるんだったらなんだって好きだよ』


アルからの行為は全て愛情を起因としているから。傍から見れば恐ろしい苦痛だろうと、僕は無上の悦びの中にいる。


『……貴方は本当に可愛い人だ』


『何さ、急に……アルはもっと可愛いよ』


僕に可愛らしい部分なんてない。


『…………幼子はどんなに目に遭わされようと母親に縋り付く。貴方の可愛さはそれと同じだ。愛おしくて仕方ない、けれど、どうにも胸が痛い』


『……憐れみ?』


喩えになっていない。僕は幼い頃から虐げられてきた、無償の愛を知ったのはアルに出会ってからなのだ。まだ時折不安になってしまうけれど。


『違う、どうしようもなく愛おしいんだ。貴方が愛おしくて愛おしくて呼吸もままならない』


『…………そんなに好きなら僕のこと捨てたりしないで可愛がってね』


母親なんて──蔑まれ、殺意を向けられた記憶しかない。家族が無償の愛を与えるものだと謳う者達が嫌いだ。その憎悪が羨望から生まれるものだと理解してしまう自分も嫌いだ。

僕が好きなのはアルだけなんだ。


『僕のこと捨てたら殺してやるから……一つ残らず、ね』


だから唯一無二の愛を失ったら、代わりの殺意はこの世界から生物を消すだろう。

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