第596話 稲を貪る者

娯楽の国の領土を越え、人間の足で数時間歩いた山中。玉藻は狐の姿に戻り、野狐のように穴蔵で身を休めていた。

自分を妖怪と見抜くことなく溺れてくれるような権力者が見つからないのだ。それも当然のことだった、そんな権力者には既に似た考えの魔物が傍に居り、策略や誘惑ならともかく戦闘が苦手な玉藻は対抗出来なかった。

強い者に取り入らなければならないのに、強い者には大抵妖怪と見抜かれるか、既に魔性が居るか、不貞寝には十分な理由だった。


『……見つけました』


巣穴の前に一人の少女が立つ。翠髪のその少女には虫のような触角と翅があり、赤い瞳には白目や瞳孔見つからずよく観察すれば網目模様が伺えた。


『……っ、誰じゃ!』


『私、地獄の帝王だとか暴食の悪魔だとか言われております、ベルゼブブと言います。どうぞよろしく』


すぐには襲ってこないと悟り、玉藻はゆっくりと巣穴から出た。逃走経路を探して動かした目には無数の黒い粒の壁が──蝿の大軍が映った。


『貴方のその狡猾さや幻術の力は正直部下に欲しいんですよね。ですが……貴方、魔物使い様を恨んでいらっしゃいますから…………ちょっと、扱えないんですよねぇ。多少なら良かったんですけど、顔合わせたら殺し合いでしょ? 無理ですむーり』


両の手のひらを空に向け、ため息をつきながら首を横に振る。玉藻はベルゼブブが目を閉じた隙を狙い、蝿の壁の一部を燃やし逃走を測った。


『攻撃面は弱いですしねー』


ぎゃん、と悲痛な鳴き声が山に響く。ベルゼブブは目の前を通り過ぎる黄金に素早く蹴りを食らわせ、後脚を折った。


『特筆すべき治癒能力なども無し、と。不採用でーす。さ、我が子達……おあがりなさい』


それから数秒、山には獣とも女ともつかない絹を裂くような叫び声が響いていた。その声の元には蝿の特徴を持つ少女と、のたうち回る無数の蝿の塊があった。


『…………終わりました? っと……失敗ですね、魔物使い様に首でも献上しようと思っていたんですが……』


無数の蝿はベルゼブブの背後に回るとその数を次第に減らし、やがて消えた。彼女の目の前の地面からは木の根や草が消え、赤黒いシミが出来ていた。


『骨も残さず食べちゃいましたねー、どうしましょ。まぁ報告だとかはマンモンに任せますか。ねぇ──』


誰かに話しかけるように横を向き、楽しげな声は止む。感情が伺えない赤い複眼はどこを見ているのかすら分からない。笑顔は硬直し、触角は顎の下まで垂れた。手を胸の前で擦り合わせ、落ち着きなく翅を震わせる。


『帝王たるもの、孤独で当然。悪魔は恐怖統治が基本ですからねー?』


返ってくるのは風に揺れる木の葉の音だけ。ベルゼブブは大きな舌打ちをし、無数の蝿を呼び出して空間転移を行った。




元アシュ邸にて。

僕はフェルが朝食兼昼食を作っている背を眺めながら呆然と考えていた。ベルゼブブを呼び戻す方法、兄を呼び戻す方法、その他あらゆる問題の解決方法を──


『……ねぇアル、兄さんの形見の石、どこ?』


『…………分からん、箱に入れて保管していたが……焼けたか溶けたかしたかも知れんな』


兄が戻らずともライアーが居ればヴェーン邸を元に戻すことは可能だ。だが、出来ることならライアーの力は借りたくない、せっかく『黒』が浄化してくれた心身を汚染されては今後に支障が出る。


『兄さんを取り憑かせるための身体が欲しいなぁ……』


その辺りの人間ではダメだ、僕と同等かそれ以上に魔力を貯められる者でなければ。強靭な精神力を持っているか、魂を持たない新鮮な死体であればより良い


『お兄ちゃん、ご飯出来たよ。考え事は後、ね?』


『……ありがと、フェル』


牛乳に卵、砂糖を混ぜた液体に浸したトーストを焼く。ただそれだけでただのトーストに比べ満足度が格段に上がる。

口内がザラつくトーストとコーヒーを楽しみながら、グロルの口周りの汚れを拭うフェルを見て、ふと思いつく。

以前の椅子のようにフェルの分身を作り、ライアーの身体に出来ないだろうか。兄弟がスライムばかりなのは嫌だが、最も現実的な手だ。魔力を貯めさせる方法を思い付くなら。

兄ですら人間を喰らいながら魔法陣に個別に魔力を貯めていただけで、そのものの魔力貯蓄量はかなり低い。あのスライムはそういう種族なのだろう。


『……僕と、同等…………魔力の蓄積…………あぁっ、もう! なんでベルゼブブもにいさまも居ないんだよ!』


無意識に机を叩き、その音と僕の剣幕に驚いて顔を上げたアルとフェルに軽い謝罪をし、コーヒーを飲み干す。


『とにかく戦力足さなきゃ。もう兄さんは後だ。マンモンは動けない、アスタロトはイマイチ信用出来ない、アシュは行方不明で、ベルゼブブも逃げて──』


この際マルコシアスを呼び付けるか。痛覚麻痺も再生も自力で行える今、血を飲ませる負担など大したことはない。

だが……ベルゼブブの代わりになるか? 兄の代わりになるか? あの超火力と汎用性の代理は──


『……どいっつもこいつもっ!』


再び机を叩き、泣きそうな目でこちらを見つめるグロルとフェルに軽い謝罪をし、カップの底に残ったコーヒー風味の砂糖をスプーンで救う。


『レヴィ……なんで殺しちゃったんだよ…………ロキに頼るのは危な過ぎる……神具どれか盗む……いや、ダメ……』


別世界での経験を鑑みればレヴィアタンを殺した早計さがどれだけ愚かなことか分かる。あれほど強力な悪魔は珍しい、性格は集団行動に向いていないけれど。


『…………ベルフェゴール。いや、ダメ…………待てよ、兄さんがにいさまくらいの結界を張れるなら……植物の国は保護できる』


睡眠を誘う『堕落の呪』は戦闘を有利に運ぶのに適している。大勢を相手取るなら尚更だ。

最優先すべきは形見の石の確保と、ライアーの身体の入手。ようやく結論が出た。


『よしっ……! 行こ! アル』


勢いよく立ち上がり、三人共が目を見開いて僕をじっと見つめる。軽い謝罪をし、形見の石を探したい旨を説明した。


『全員で行くのか?』


『いや、火事の時に魔物使いの力使って……認知阻害の魔法無かったから、天使が来てるかもしれない。危ないかもだからフェルとグロルちゃんは待ってて』


まだ使い方がイマイチ分からない加護を緊急時に三人に与えられるかは分からない。アルだけなら咄嗟でも守れるだろう。


『お留守番だね、頑張るよ』


『玉藻とか……何か来るかもしれないし……そうだ。カヤ、おいで。命令だ、僕が戻るまでフェルとグロルを守れ。連れて逃げてもいい、むしろ逃げるのを上位の判断に置いて』


カヤはフェルの傍には言ったものの、僕を見つめて首を傾げる。敵を見て迎撃か逃走か判断しろというのはカヤには難しいのか。


『…………小烏! 聞いてたね?』


『はっ! 犬神への指示はお任せあれ!』


影から黒い小鳥が飛び出し、カヤの額に乗る。敬礼でもするように不揃いに切られた翼を広げ、胸を張る小さな身体には思わず笑みが零れた。


『えっ、ぉ、お兄ちゃん……この鳥何?』


『刀に取り憑いてた妖怪。戦闘に関してかなり頭がいいみたいだから、フェルも小烏に従ってね』


『…………信用して良いんだな? ヘル』


『大丈夫。だよね? 小烏』


小烏はびっしと見事な敬礼を決め、キラキラと輝く瞳で僕を見つめている。


『……もし裏切ったら羽ちぎって足折ってアリの巣に捨てるから』


『お兄ちゃん……言っていい?』


『いいよ。何、フェル』


『にいさまそっくり……』


小烏の頬らしき部位を人差し指の先で撫で、傾いていく身体に愛おしさを感じる。

ベルゼブブだとかの頭の良い魔物よりも、微妙に頭が弱そうな魔獣の方が信用出来る気がした。

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