第556話 知らせる者

窓から見えるのは滝のような豪雨、聞こえるのはノイズのような雨音、外の情報は完全に絶たれている。


『……なんや嗅いだことある匂いやな』


『神……の、使いっ走りの人間だな。我は嗅ぎ覚えはないぞ』


加護受者のような者か? それとも僕のように力を教わっただけの者?


『こーへんな。来る思てたんやけど』


「……何が?」


『神さんの匂い引っ提げた死に損ない。逃げて来たんか知らんけど、その辺で野垂れ死んどるわ』


「外で誰か死んでるってこと?」


『いや、まだ死んでへん……んん? 分からん、血ぃどんだけ出たら死ぬんやったっけ?』


神性と関わりがある者とは関わりたくない。だが、逃げて来ただとか死に損ないだとか気になることも多い。人間が死にかけているなんて聞いて放っておくのは寝覚めが悪い。この雨が止んで外に出て死んだ人間を見つけたら、僕の精神に多大な影響を及ぼすのは確かだ。


「……見に行かない?」


『そう言う思たわ。嫁、旦那が行きたい言うてはんで、どないする』


『よ、嫁!? ヘルが言うなら私はそれに従うが……嫁、なんて……そんな、私は、そんな……』


「酒呑! こんな時にアルの動き止めるようなこと言わないでよ!」


『事実とちゃうんけ』


『……そ、そう…………だ、と言いたいが、ヘル?』


「その話は後、いいから行くよ」


グロルをフェルに預け、すぐに向かおうとして──酒呑に腕を掴まれる。


『これ着ぃ、風邪引くわ』


分厚いコートを頭から被せられ、再びアルの翼に包まれる。


「心配してくれるのはありがたいんだけどさ、酒呑は僕を弱いと思い過ぎだよ」


雨音で聞こえないかもしれないと声を張り上げ、道すがら不満を漏らす。


『人間なんやから弱いに決まっとるやろ。そもそも頭領出てくる必要なかったんとちゃうん、俺らだけで死体持って帰って来たらええ話やろ?』


『兄君の結界はこの雨を警戒して強化されている。死体だろうと中には入れられん』


『結界の前でもええやん』


『……一度戻るか?』


「ダメ! このまま行って。家まで血の匂いが届くような怪我して……こんな雨で、そんなゆっくりしてたらその人死んじゃうよ!」


体温は下がるし、血が固まらなくなる。視界が塞がれて不用意に動くことも出来ない。窪地で倒れていたら溺れているかもしれない。


『……こっちやな』


『…………ヘル、来て良かったな』


近付いて血の匂いが濃くなったらしく、アルには怪我人が誰だか分かったらしい。それを聞くよりも前に、酒呑が走り出した。


『臨兵闘者皆陣烈在前…………あかん、入った! 頭領、頭下げ!』


数メートル四方を囲む結界が現れ、雨水を弾く。僅かに晴れた視界に一番に飛び込んで来たのは甲虫だった。


『ヘルっ! ヘル、大丈夫か!』


酒呑から指示はあったが間に合わず、眉間に虫が当たってアルの背から落とされた。


『狼! 頭領は後や、結界ん中入ってもうた虫共片付けぇ!』


『…………カルコス! ヘルを任せるぞ!』


ぐらぐらと揺れる視界を耐えて上体を起こすと、ヤスリのような舌に頬を舐められる。


『軽い脳震盪だ、あまり動くな……すぐに治す』


「……ありがと」


自分で立って歩けるまで回復する頃には結界内の虫は全て叩き潰されていた。数メートルではあるが開けた景色を観察するに、ここは山道だ、酷くぬかるんでいる。靴を伝わる泥に沈む感覚に混じって潰れた甲虫のパリパリという感触もあって、どこか子気味よさも覚える不快感を味わう。


「…………虫?」


『あぁ、これは……呪いだな。立って平気か? ヘル。私に乗るといい』


「ぁ、うん……死にかけだっていう人は?」


『今の虫の群れから逃げて山道逸れたみたいやな』


結界が消えると途端に視界が奪われる。僕はコートを被り直し、姿勢を低くしてアルの首に腕を回した。頭に当たる雨粒が途中で消えて上を見れば、赤銅色の翼があった。僕を……いや、アルを少しでも濡れないようにと気遣っているのだろう。


『おった! そこや』


「え……見えない、結界張って」


『しゃーないのぉ……』


再び数メートル四方の視界が晴れる。雨音が僅かに遠のき、翼の下から抜け出ても雨粒に当たらなくなった。


「…………先輩!」


木の影に腰を下ろした人影。微かに動いたその頭は、美しいグラデーションの蒼い髪は、薄暗い山中でもよく目立っていた。僕はアルから飛び降り、ぬかるんだ地面と足をすくう木の根を乗り越え、彼の元に向かった。


「ヘルメスさんっ……! 大丈夫ですか、ヘルさん……起きて!」


声をかけても反応がない、頬を叩いても目を開けてくれない。


「ヘルさんっ! 起きてくださいよ!」


肩を掴もうとして抉れていることに気が付く。胸倉を掴んでいた手を思わず離して、赤く染まった手に力が抜けて、彼の足の上に膝をついてしまった。ぐちゃ、と柔らかい肉の感触と小石の山を崩したような感覚があって、慌てて立ち上がる。彼の両足は内側から破裂したように骨も筋肉も関係なく潰れていた。


「せん……ぱ……」


気付けば隣にカルコスが座っていて、ヘルメスに治癒の術をかけていた。砕けた骨が繋がり、潰れた肉がそれを覆い、皮膚が張られていく。


『ヘル……大丈夫か?』


アルはだらんと下げていた僕の手を頭で持ち上げ、その真っ直ぐな黒い瞳に心配を滲ませて僕を見つめる。


「…………僕は、心配されるようなことになってないよ」


治癒が終わった、とカルコスの声。アルから離れ、再びヘルメスの傍に屈む。そっと肩を掴んで優しく揺すった。


「ヘル……さん、ヘルメスさん、大丈夫……ですよね?」


声が上擦る、鼓動がどんどんと速くなる。嫌な想像が頭を埋める。


「起きて……目を、開けてください」


まさか、遅かった? もしかして、間に合わなかった?

彼の顔を傾け、首に手を当てる。雨に濡れていたせいか酷く冷たい。


「………………ん……?」


動脈を探し当てるより先に声帯の震えを感じた。


「…………ヘル君? なんで……あれ、ここ……」


「先輩っ! 大丈夫ですか? 僕のこと分かりますか? この指何本ですか?」


人差し指と中指をヘルメスの顔の前で立てる。


「ヘル君だよね? 指は二本……えっと、俺……何してたんだっけ。山越えようとして……んー?」


「先輩……先輩、よかった、せんぱぁいっ!」


「ちょ、ちょっと何? そんなに……ってかさぶっ……!」


「あっ……カルコス! 先輩あっためて!」


外傷を癒しても油断は出来ない、体温の低下も命取りになる。僕はヘルメスを引っ張り、背を預けるのを冷たく濡れた木からカルコスに替え、翼に包ませる。


「ライオンさん……? 狼以外にもこういう子居たんだ」


『私の兄弟だ。後、虎が居るが……まぁアレは気にする必要は無い』


「あ、オオカミさん。やっほ、久しぶり」


『……私も貸してやる』


アルはカルコスの翼の隙間に潜り込み、ヘルメスに寄り添う。いつもなら嫉妬してしまうが相手はヘルメスだし、状況が状況だ。


『……頭領、ちゃんと着ときや』


ずり落ちたコートを羽織らされ、軽く礼を言ってカルコスの隣に移動する。


「ヘルさん、寒くないですか?」


「んー、ガタガタぶるぶるって感じ?」


「アル、カルコス、もっと体温上げて」


二人は「無茶を言うな」と同時に声を上げる。


『頭領、狼の方やったら楽に体温上げれるんとちゃうん?』


「え……? あぁ、なるほど」


僕はヘルメスの膝の上に乗ったアルの顔に手を添え、軽く持ち上げた。


「……可愛いね、アル。雨に濡れたからか美人さが増してる」


そう言って額に唇を寄せた。


『なっ……な、何を、ヘル…………ぁぅ……』


体を起こし、ヘルメスに視線を戻す。視界の端にアルが前足で顔を隠そうとているのが見えたが、今は愛でていられる状況ではない。


『頭領ほんま頭領やわ』


「何言いたいのか分かんないよ。ヘルさん、どうですか?」


「何してたの今……まぁ、寒いは寒いけど、多分死にはしないよ」


暖炉の前にでも座らせたいが、兄が居ない今ヴェーン邸にヘルメスを招くことは出来ない。兄とベルゼブブが居るアシュ邸は悪魔が数多く居る、神具使いのヘルメスを連れて行けば一悶着起こるのは確実だ。それでもこのまま凍死の確率を上げるよりは余程マシだが──


「……にいさまだけ呼びに……うーん」


『家に招くなら通信蝿を使えばいいだろう』


「…………何で思い付かなかったの? 僕、馬鹿なの? 何のために……」


カルコスの発言に自分の頭の悪さを再確認し、そして家を出た際にアルが「結界が強化されているから死体だろうと中には入れられない」と言っていたことを思い出し、それの思い込みがあったからだと最低な言い訳を思い付く。しかし流石にアルに「君が紛らわしいこと言うから」なんて言う気にはなれず、自分の人間性を再確認しただけに終わった。

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