第535話 妬巳嫉巳

砂浜にずりずりと上がってくる巨大な海蛇。頭部が僕達の隣を過ぎて、僕の身体よりも大きな瞳が僕達を捉えた。瞳孔は一本の線のように細い。


「……やぁ、レヴィアタン」


『まもの、つかい?』


拙い言葉を紡ぐ。人に化けていないのに話せるのは珍しい。


『何、か、する?』


「何しようかなぁ……ねぇアル、どこか行かなきゃならないところある?」


『私は特に。しかし、そうだな、情報が皆無な今、行動を起こすのは難しい。とにかく情報を集めよう』


情報、か。一度経験した時間だからその必要は無いと思うが──いや、だからこそ必要なのか? 以前は安い航路を辿っていただけだ、その先々で問題に巻き込まれていただけだ。その他の国も何か問題は起こっていたのかもしれない、それは僕にとって重要なことかもしれない。


「……この近くで情報が集まりやすそうなとこってある?」


『ふむ……正義の国の属国である兵器の国がこの海を越えた先にある』


「兵器の国……うん、行ってみよう」


正義の国の情報は集めておいて損は無い。悪名高い……と言いたくはないけれど。

兵器の国は兄が軍人として勤めていた国だ、以前は同僚や部下との関係はかなり悪かったようだけれど、今回はどうだったのだろう。


「レヴィアタン、乗せてくれる?」


『向こぉ? 行く?』


「うん、向こうの大陸」


『いい、よ』


巨体を曲げ、海に引き返す。鎌首を持ち上げるように泳いでもらい、その額に乗せてもらった。アルに乗って飛んでもいいけれど、僕を乗せての長距離の飛行は控えさせたい。それにレヴィアタンが呪いを暴走させないためには近くに置いておくのが一番だ。


『……なぁ、ヘル。貴方は天使なのか?』


「へ? あぁ……その、天使……の名前を手違いで奪っちゃって、本当は人間のはずなんだけど」


『名前を? そんな事が可能なのか』


「え? ぁ、うん……出来た、けど」


アルが知らないならナイが編み出した術の可能性が高い。


『……名前を奪うという事は存在ごと成り代わるという事、不可能だ。出来るなら天使や悪魔は神降の国のように名前を引き継ぐ形式になるはず……永い生命は苦痛だからな、堕天する者も増える』


「…………じゃあ、僕はなんで出来たの?」


『さぁな。魔物使い以外の魔性も感じるし、微弱だが確立された神性の気配もする。そも、名前を奪った者が天使かどうかすら怪しい』


確かに『黒』はあやふやな存在だけれど……いや、そうか、存在が確立していない『黒』だからこそ出来たのか。自分の存在すら自由に出来る『黒』でも自分の意思だけで自分を消すことは不可能だ、しかし名前を剥がしてゆっくりと薄めることは可能だった、ナイが手を貸せば。


「予想が合ってるなら『黒』に会えても返せない……」


名前を手放す術のようなものを『黒』が使えるのならいいのだが。


『……返すつもりなのか?』


「うん、このままじゃ『黒』……僕が名前を奪った天使消えちゃうし」


『貴方がその存在のままなら、永遠に私と…………いや、何でもない。そうだな、返したいのなら協力しよう。人間の感覚を持つ貴方が永い時に耐えられるとは思えない』


上級悪魔や上位の天使は生命よりも概念に近い。何万年何億年もの時を身動きせず一ヶ所で過ごさなければならない者も居る。

退屈に耐えかねて一万年前の魔物使いの死をきっかけに名前を手放したのが『黒』だ。

返さなければならないのは『黒』のためだけではない、永遠に同じ存在に固定されるなんて特別弱い僕の精神が耐えられるはずがない。


「……ごめんね、アル」


しかし、永遠の生命をこのまま持っていればアルに僕の死を見届けさせなくて済む。転生を待たせるのは嫌だ、記憶は引き継がれないし、何百年を独りで過ごさせてしまう。第二の『黒』になるだけだ。


『私の全ては貴方の幸福の為にある、それが私の幸せだ。貴方と過ごした記憶があれば久遠の孤独にも耐えられる……それに、私には一応兄弟が居る、気にするな』


「…………そっか、そだね、思い上がりだよね、僕が居なきゃアルは独りだなんて……そんなことないよね」


死の間際に石を砕いて──そんな心中の誘いを躊躇ってよかった。僕はアルが居なければ何も出来ないけれど、アルは僕が居なくても何でも出来る。

何故だろう。心配は消えたのに、それは喜ぶべきことなのに、酷く寂しい。


「僕が居なくても……誰も、困らないんだ」


魔物使いの力があるからギリギリで生存を許されているに過ぎない。僕という人間に生まれてくる価値は無かった、誰にとってもマイナスでしかない。


『……私は貴方に会えて良かったと思っている』


「…………うん、ありがと……ごめんね、気を遣わせて」


慰めて欲しいから、そんなことないよと言って欲しいから、一生懸命に自分を蔑む。


「ごめんね、ごめん……頑張って、アルに迷惑かけないようにするから……」


こうやって泣くのもアルの負担になる。そう考えたら涙は止まらなくなる。頬を舐めたアルを抱き締めて、無言のまま時を過ごした。


『まもの、つかい。到着、降りろ』


頭が更に持ち上がり、崖に顎を乗せる。立ち上がろうとするとレヴィアタンは頭を傾け、僕達を落とした。


「乱暴……いや、ありがとう、お疲れ様」


鼻先を撫で、礼を述べる。


『…………さみしい』


レヴィアタンは僕の手を疎ましがるように顔を振り、その巨大な瞳に僕を映した。


『……いいな、ふたり……いいな、羨ましい……』


その巨体を覆うように黒い霧が発生する。僕は思わず手で口と鼻を覆った。


『羨ましい、羨ましい……死ねば、いい、のに』


「……いや、あの、レヴィアタン? 呪い……かな? これ。ちょっと落ち着いて」


勢いよく頭が持ち上がり、崖が崩れる。僕はアルに引っ張られて何とか落ちずに済んだ。しかし、危機はこれからだ。大口を開けたレヴィアタンが向かってきている。重力に任せた突進は魔物使いの力を使っても彼女自身に止められないから意味が無い。


「とっ、透過!』


アルに抱き着き、そう叫んだ。地面が消え、レヴィアタンの口内をすり抜け、宙に浮かぶ。


『間に合った……かな』


『ヘル! 早く私の背に……いや、飛べるのか』


『飛ぶって言うか浮いてる感じする……羽動かしてないし』


アルも今は翼を動かしていない、加護を与えているからだろうか? 僕が加護を与えられた時は飛ぶことは出来なかったけれど──あれは今の僕よりも存在が薄まった『黒』の加護だから弱かったのか。


『どうしよ……効くかな』


以前レヴィアタンに呪いを解かせた時は事前の戦闘で弱っていたから出来ただけで、今の僕はまだ魔物使いの力は大して使えない訳で──


『無駄打ちはダメだ、説得して……』


『喧嘩、すれば、いいのに……別れれば、いいのに……』


レヴィアタンは僕達を喰らえていないことに気が付き、また口を開く。これ以上陸地を崩せば兵器の国や天使に勘づかれて攻撃が始まる。僕達は海上に移動し、説得を試みた。


『レヴィアタン! 話を聞いて! 何を怒ってるのかよく分かんないんだ、不満があるなら言って欲しい!』


『ひとの、上で……あんな……』


『ねぇ、ちゃんと話そ? ほら、そんな牙見せないで』


『ひとりの、わたしに、見せつけて……』


『レヴィアタン! 話聞いてってば!』


『……ころしてやるっ!』


『何でだよぉっ!』


すり抜けると分かっていても巨大な蛇の口が迫るのには身構えてしまうし、一瞬でも口内に居るのが恐ろしいし、水飛沫に視界を奪われるし──何より派手に騒いで天使が来たら厄介だ。


『話を聞く気は無さそうだ、一度殴って大人しくさせる──ような手を使うべきだとは思うが……あの大きさではな』


『刀……効かないよね』


いくら切れ味が良いといっても限度があるし、仮に鱗を裂けたとしてもこの刃長ではかすり傷にもならない。すり抜けながら体内に突き立てたとしても再生速度に適わない。


『打撃がいいと思うけど……』


『駄目で元々の考えで体当たりでもやるか?』


『透過せずにぶつかったら即死だよ。元々にならない、ダメでしかない』


呪いに満ちた空間で干渉を遮断せずアルを行動させれば一瞬で呪いに侵されてしまう。僕は加護が解けてしまわないようにとアルを抱き寄せた。


『わたしの、前、で…………お前ら、なんかっ……!』


『霧が増えて濃くなってる……怒ってるよね。なんでっ……何が気に入らないのさ!』


『…………ヘル、離れるべきだと思う』


『ダメだよ! まだ天使の力に慣れてないから離れたら加護が解けちゃうかもしれない。何より! 一秒でもアルと引っ付いていたい!』


『だから! そういう態度が──』


『……ころす……殺すっ、ころしてやるっっ!』


『──あの蛇を煽るんだ! 何故分からない!』


アルは僕の腕を振りほどき、怒鳴る。再び突っ込んできたレヴィアタンは僕もアルも問題無くすり抜けた。加護が解けてしまわないのは分かったけれど──


『なんでアルまで怒るのさ……』


呪いの影響は受けていないはずなのに。


『やだよ、傍に居てよ、僕を嫌わないでよ』


『目の前に居るだろう』


『なんで離れるのさ……やだ、来てよ、ねぇアル、僕のこと嫌い?』


『手を伸ばしてみろヘル、捕まえられるぞ』


『気に触ることしたなら謝るから……』


『蛇を煽るから離れただけだ、強いて言うなら現在進行形だ』


呆れたような表情のアルから視線を外し、レヴィアタンの様子を伺う。霧は少し薄くなって暴れるのもやめて僕達をじっと眺めていた。

もう少しだ──僕は二人にバレないよう口元を手で隠し、ほくそ笑んだ。

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