第533話 完全なる自由

巣穴から出る必要は無かった。

『黒』の名を奪った僕には食事も睡眠も必要無くて、アルの食事は僕が身を差し出せばよかった。感じたくないと思えば痛覚は消えたし、少しだけ覚えたいと思えば微かな痛みを感じた。

何もかもが僕の自由になる、最高の空間だった。


冷たい土と僕より高い体温に挟まれて、肌に直接触れる毛並みの心地好さに酔って、名前と愛の言葉だけを囁いて、声にならない吐息を漏らして、何日も何週間も愛し合っていた。

そんな日々が続いたある日、アルが重い腰を上げた。


『……ヘル、そろそろ外に出ないか? 街に行ってみよう。毛布や風呂、まともな食事が恋しいだろう』


「僕が恋しくなるのはアルだけだよ、ほら……おいで」


『ヘル……貴方は魔物使いなんだぞ』


アルはいつの間にか僕を「ご主人様」と呼ばなくなっていた。僕に主人らしさが無いと気が付いたのだろう。


「やーだ。ほら、こっち来て」


『……仕方の無い旦那様だ』


代わりに「旦那様」と冗談交じりに言うことが多くなった。

以前のアルは僕を完璧に庇護対象として接し、主人としても認めていたから自身の恋愛感情を否定していた。けれど今のアルは出会ったばかりなのが幸いして何の罪悪感もなく僕に恋慕を向けてくれる。

波に飲まれても死なないで、何日も飲まず食わずで生きていて、四肢を呑んでも臓腑を漁っても苦痛を訴えず──アルは僕が人間ではないと察したのだろう。それもアルが僕を求めるのに躊躇わない理由になった。


『…………ヘル、本当に……そろそろ潮時だ。こんな暮らしが続けられるとは貴方も思っていないだろう? 貴方が何もせずとも世界の歪みは止まらない、神魔戦争は近く必ず起こる。その時までに魔物使いとして成熟しなければ天使に殺されるか悪魔に利用されるか……どちらの道も苦痛に満ちている』


「んー……色々と落ち着いたし、そうだね、そろそろ行こっか」


『随分と簡単に……長々と説得した私が馬鹿みたいではないか』


「そんな可愛い顔されたらまた出たくなくなっちゃうなぁ」


『…………なら私は先に出る』


アルはするりと僕の腕の中から逃げて、巣穴の外に出て行ってしまう。


「つれないの……」


僕もその後を追おうと上体を起こす、そして気が付いた──


「アル! 鍵知らない!? 銀色の……このくらいのっ!」


──鍵が巣穴から消えていることに。

僕は慌てて外に出て、アルの尾を引っ張る。


『……ヘル、下は履け』


「えっ……ぁ、ちょっと待って………………で、アル、改めて聞くけど」


『知らんな、鍵など見てもいない』


巣穴は複雑な作りはしていない、中に無いのは一目で分かる。僕は盛り上がった土に背を預け、太陽に向かって背を伸ばす。


『……あまり重要な物では無さそうだな』


「重要だよ! 確かに呑気に伸びしてたけどっ……あれがないと大変なんだよ」


土の山に手をついて、ずりゅっと沈む感覚を味わう。すぐに手を離してその場所を確認するも、土はカラカラに乾いていて沈んだ跡も無かった。


『ヘル? どうかしたか?』


「……いや、今」


手が土の中に沈んだ。そう呟きながらもう一度手を伸ばした。土の山には太陽に背を向けた僕の影があり、その中に僕の手は沈んでいった。


『これは……!』


「な、何? 分かるの? アル」


すぐに手を引き抜き、アルに詰め寄る。


『……私の影と貴方の影を見比べてみろ』


アルの影? アルの影は……見当たらない。背の高い木が並んだ森の中で影が見つかる訳もない。しかし、僕の影はくっきりと浮かんでいた。いや、真っ黒い穴が僕の影のフリをしている──そんな雰囲気があった。


『…………影を亜空間の入口とする術はある』


「そ、そうなの? それなのかな……』


そういえば『黒』が影に手を翳して刀を呼び出していたような──『黒』との旅路を思い出しながら影に手を浸す。すると指先が硬く細長い物に触れた。


『……鍵あったぁ! 鍵あったよアル!』


『おめでとう』


明らかに適当な返事をしたアルを放って、僕は再び影に手を浸す。今度は棒のような物を掴んだ。


『釣竿……か? それも探し物か?』


『いや、違うけど……色々入ってるなぁ。小さい頃に入れちゃったのかな……』


けれど釣竿なんて家で見た覚えはない。

僕は持っていても仕方ないと釣竿を影の中に戻し、鍵も影の中に放り込んだ。『黒』も使っていた力なら警戒する必要は無い、便利に使わせてもらおう。


『アルも何か入れる?」


「いや、特に持ち歩く物は無い」


それよりもこれはいいのか、とアルが咥えて来たのは僕の鞄。着替えや金やらが入ったそれなりに重要な物だ。入れておこうと影の方を振り向くも僕の影はアルと同じように見えなくなっていた。


「……あれ?」


まだ上手く扱えないのだろうか。

まぁ、肩掛けの鞄を持ち歩くのは大した苦にならない。


「じゃあ、適当に近くの街行ってみよっか」


『……裸で?』


「…………着替えて」


アルの爪や牙でズタズタに裂かれたズボンをその場に捨て、鞄に入っていた服を着る。人前で着られる物ではないということもあったが、何よりオファニエルに与えられた物だからというのが大きかった。

何も言わずに出てきてしまって、彼女を傷付けたに違いない。けれど僕は彼女が求める天使ではないし……彼女が『黒』を見つけてくれたらそれが最善だ、僕もついでに名前を返したいから僕を糾弾しに来てくれたら尚更良い。


「んー……流石に靴の替えは無いか。アル、乗せてくれる?」


『構わないが……その靴も捨てるのか? それはまだ使えるぞ』


「大きさ合ってなくて踵痛いんだよね……」


月永石で作られた靴は小さく、また硬く重く普段使いには向かない。おそらく『黒』の為に作った物だから僕には小さいのだろう、檻から出す気がないから歩きにくいのだろう。


「ここから近いのどこ? それなりに発展した国ある?」


『此処は妖鬼の国の領地だが……人里は遠いな』


妖鬼の国か……『黒』と来たことはあるがあまり詳しくは知らないな。幸い時間だけはたっぷりとある、この機会に見て回るのもいいだろう。

レヴィアタンだとか、ベヒモスだとか、牢獄の国のスライムだとか、魔物使いでなければ解決し難い問題はあるけれど──


「戻ったら、関係無いし……」


元の時空に戻ったらこちらでやり遂げた事は全て無意味になる。それなら適当に観光でもしながら『黒』を探したりあの門に辿り着く方法を探したり──時空を超えられるのだからどれだけ時間をかけても戻る地点は同じ、こちらで急ぐ必要は無い。


『む……? ヘル、人は住んでいないようだが村の跡はあるようだ』


「ふぅん……行ってみて」


木々の密度が次第に下がり、開けた場所に出る。潮の匂いを嗅ぎ、古びた家々を見た。


「人が居なくなって何十年って感じ?」


『二十年経ったか経たないか……と言ったところだろう』


潮風のせいか、住んでいた頃から手入れをしていなかったのか、二十年余りにしては家の腐敗が早い。


「……海が近いせいかな、魚が腐ったみたいな臭いがする」


そう呟いた直後、村の広場のような場所でドロドロに溶けた肉塊を見つけた。


『…………アレだな。貴方の言った通り、魚が腐っている』


「魚……なの? これ……」


肉塊から飛び出た骨は人間の物に見える。いや、魚にも似た形の骨があるのか? 魚には詳しくない。


「大きいし……」


中心の肉塊達は積み重なっていてよく分からないが、広場の隅の肉塊を見れば一体一体の大きさは人と同程度に思える。人程度の大きさの魚は居るだろうけど、海が近いとはいえ魚がこんな陸地に上がるのか? 釣り上げられた物だとしても量と打ち捨てられた場所がおかしい。


「気持ち悪いし、臭いし……とりあえず離れよ」


アルは僕よりも腐敗臭を深く嗅ぎとっているだろう、アルのためにも離れた方がいい。そう考えての発言だったが、アルは耳をピンと立てて立ち止まっている。


「……アル?」


『し…………少し黙ってくれ、何か聞こえる』


僕も耳を澄ませてみるが、聞こえるのは木々のざわめきや鳥の鳴き声くらいのもので、それによる癒しは腐敗臭に負けてしまう。アルが気にしているのは僕には聞こえないものなのだろう。


「………………聴覚を寄越せ」


アルの後ろ頭を見つめ、そう呟いた。まだあまり育っていない魔物使いの力で感覚共有が出来るのかという心配はあったが、『黒』から奪った力もあってか上手く共有出来た。

木々のざわめき、鳥の鳴き声、美しい歌声、波のさざめき、醜い悲鳴、砂を踏み締める音────聞こえるものが格段に増えた。

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