第523話 全てのはじまり

吐き気を催す光景なのに実体のない僕は噎せることも出来ない。目を離すことも出来ずただただ眺めていた。


『……魔物使い様っ! 魔物使い様、魔物使い様…………そんな……』


僕を一番に見つけたのはベルゼブブで、死を確認すると彼女はしばらくその場に座り込んでいた。その爛々と輝く瞳や時折に鳴る生唾を飲み込む音で彼女が大きなショックを受けた訳ではないと分かったのは僅かな救いだった。


『………………とりあえず、見せませんとね』


彼女が食欲を抑えるのは大変だっただろう。くだらないことに思えるが褒めてやりたい。

ベルゼブブは前世の僕だった肉塊を優しく抱き上げ、邸宅に戻った。


『おかえりなさぁーい! すぐ未来の花嫁がそこで待ってるわよ? って……おい便所蝿、そりゃ何の冗談だ』


ベルゼブブを出迎えたのはマンモンだった。そこら中の部屋から聞こえてくる悪魔達の声からして、大勢が集まって晴れの日になるはずだった今日を祝っているのは間違いない。


『……てめぇ何してたんだよ! あぁ!? てめぇが付いててなんでこうなった、なんでこうなってんのにてめぇは無事なんだよ!』


『…………どいてください』


『……あぁ? ぁんだって?』


『…………彼女に、コレを見せないと』


ベルゼブブはマンモンの横をすり抜けるが、すぐに肩を掴まれる。


『待て、まだ話は終わってねぇ!』


『……お前に構う暇はない。って……見て分かりません?』


不規則に震える髑髏模様の二対の翅。それはベルゼブブの余裕の無さを表しているように思えた。

騒ぐ悪魔達を同じように威嚇して追い払い、部屋にはベルゼブブと『黒』と前世の僕だった肉塊だけがある。


『…………指輪、買いに行ったの?』


『……おそらく』


『…………一人で? サイズも知らないくせに?』


扉が開いた時、彼女は満面の笑みを浮かべていた。何度目でも関係なくプロポーズを待ち望んでいたのだろう。


『あっはは、馬鹿だねぇ』


今も口だけは楽しそうに笑っている。僕にはそれが辛くてならない。寂しそうな目をするだけで、泣き喚けない彼女を見ているだけで胸が苦しい。


『…………なんで一人にしたの?』


『……申し訳ございません』


ベルゼブブは珍しくも床に姿勢を正して座っており、じっと『黒』の顔を見上げていた。


『…………僕が指輪欲しいなんて言わなきゃ良かったね。今まで貰ってなかったからなんて、隠れてばっかりで夫婦らしいこと出来なかったからなんて、僕が我儘言ったからだ』


『……それは、違います。一人にした私共悪魔の不手際です』


『旧支配者との戦いにも、最悪の魔女との戦いにも、何の役にも立たなかった僕が結婚したいなんておこがましがったんだろうね』


寂しそうな瞳のままニコニコと笑いながら、明るい口調で冷めた声を出す。


『……あなたは彼に相応しかった』


『不思議だね。僕は僕の全てを僕の自由に出来るはずなのに……僕は今とっても消えたい気分なのに、全然消えないや。僕の生死は僕の自由だって? 馬鹿馬鹿しい、司るモノがある天使が簡単に消えられる訳がない。死んだってすぐに同じモノに生まれるんだ。君達上級悪魔も、魔物使いだってそうなんだよ? 仮に魂を壊せたとしてもまた創られる。記憶は無いだろうけど……無間地獄だよね』


僕の魂が魔物使い以外になれないように、『黒』を含めた天使や悪魔も自分以外の存在にはなれないと。酷い話だ、まさに地獄、完璧な牢獄だ。


『でもこの無間地獄から脱出する放ら方法があるんだ、そうだろ? 親愛なる友よ。僕は僕の自由意志を持って僕を捨てる。欲しがってたよね? あげるよ。僕を踏み台に創造神の権能全部奪っちゃってよ。そしてこの世界を滅ぼしてよ。もうこんな世界要らない、新しいの作ってよ。旧世界の魂は全て消してさ、全部新しいのにして遊技場にしちゃってよ』


『黒』が語りかけているのはいつの間にかベルゼブブではなくなっていた。楽しそうに話す彼女の背後に黒い霧が立ちこめる。


『取引だ、無貌の神』


『……はーい』


霧の中から声が響く。男のような、女のような、子供のようで年寄りのような────醜い怪物が上げる唸り声のように、もはや人とは思えないような美声で、端的な返事が続きを促す。


『僕の存在をあげるから、魔物使いの魂を自由にして』


黒い霧が腕のように、触手のように、『黒』の身体を捕える。


『……僕は世界と心中する。君達も巻き添えだよ、悪いね』


霧に取り込まれて姿を失って、その言葉を残して霧すらも消えた。


『アレは…………混沌?』


ベルゼブブは呆然と『黒』が座っていた場所を眺めていた。我に返ると部屋を飛び出し、追い払った悪魔達を集めた。


『……天界です。何してるんですか、天界に出兵です! 魔物使いの魂さえ取り戻せば天界でも勝利は望めますし、何よりも彼女の名前を他の神に渡す訳には行きません! 創造神が他の神に置き代わったら私達だってただじゃ済みませんよ!』


悪魔達は天界にどうにかして攻め入ろうと策を立て、とりあえず中継地点である人界に魔界の魔力を流し込もうという話になった。そうなればおそらく天使が降りてくる──これが一万年前、悪魔が大敗を喫した神魔戦争だ。

僕に止める手段はない。ぐっと拳を握って堪えた。


『魔物使い。この先は七日間世界が火の海になり、その後は数千年間再建の景色が続きます。見ますか?』


「…………『黒』の名前は?」


悪魔の王の憎悪と憤怒の炎、神に似たる天使の浄化の炎、それらは七日間に渡って燃え続け世界を焼き尽くす。

悪魔は魔界に引き返し、それを見て天使も帰界する。燃えるものが無くなった世界を創造神が再建の種を撒いて、それでも数千年経たなければ燃える前の世界は再現出来ず、一万年前経ってようやく僕が生まれ変わった。


『魔王が魔界の底に封印され、多くの悪魔達が帰界したものの執念深く残った蝿の王が彼を喰って──本人から聞きましたね? 力を削られて人界に封印されました』


「『黒』の名前は?」


『……数千年後、魔物使いの魂の浄化と遊戯の舞台が整った時。取引が行われる瞬間にのみ名前を奪えます』


たった今取引をすると言っていたのに、それから数千年間も何もしなかったのか。

ナイは『黒』の名前を取り返せるかどうかをゲームにしていた、そのゲームが出来る環境に世界が戻るのを待っていたのか。その間『黒』は一体何をして過ごしていたんだろう、何を考えて時を越したのだろう。


『名前を奪いたいなら名前が宙に浮いた瞬間にすぐに取ってください』


具体的にどうやれば取れるのか、それを聞こうとした瞬間にはもう襟首を引っ張られて、気が付くと僕は真っ白い空間に立っていた。

見渡す限りの白、距離感も何も掴めない光に包まれた世界。そんな白い世界に拒絶された黒い影、異質なモノがあった。


『それじゃ、名前を貰おうかな』


『やっと? 待ちくたびれたよ……僕が持ちかけてから何千年経ったのさ』


『ごめんね。でも、名前を取り戻せるチャンスも用意してあるんだから良心的でしょ?』


『…………別に要らないけど。でも……うん、彼が名前を呼んで僕の記憶が戻るって言うのは中々にロマンチックだね』


その影の──ナイの向かいに立っているのは『黒』だ。白い肌とまばらな白い髪が景色に溶けている。


『……分かった。じゃあ……自由意志を司る天使、タブリス。ここに誓う。名前を捨て、記憶を捨て、存在を捨てると。』


『…………よし、じゃあその名前を──』


「タブリス!」


『──ボクが貰って……え? な、何、誰?』


思わず飛び出して叫んでいたが、今ので正解なのか? 『黒』もナイも僕の姿がハッキリ見えているような動作をしていた。僕は記録を見ているだけではなかったのか?


「……取れた?」


『完璧です』


『…………よーちゃん? 嘘、まさか……なんで!?』


『あなたの遊戯の抜け道ですが』


『ボクが用意したのキミじゃない! 無事に抜けられる抜け道とかボクの抜け道じゃないから!』


『あなたが案内しましたが』


『それ多分ボクじゃないボクだよぉ!』


ナイはヴェールを被った人型に食ってかかっている。僕はその隙に『黒』の胸に飛び込んだ。


『……『黒』! ぁ、いや、タブリス? っていうんだよね。なんか馴染みないなぁ……やっと、これで……君を取り戻せたんだよね!』


『未来の魔物使い君かな? そう……ヨグソトースか。凄いね、君は』


ぎゅっと抱き締められる──その感覚は、薄い。雲に触れた時に水滴だけが残るような、そんな感覚だ。


『…………ありがとう。彼にあげるよりは君にあげた方が上手く使ってくれるよね』


『あの……タブリス? 僕、成功したんだよね? なんか、変なんだけど……』


『……僕はタブリスじゃない。そうだね、『黒』でいいよ。君はそう呼んだだろ? 僕はそう名乗ったんだ、ならそれでいい』


あだ名として、ということだろうか。そうでなければならない。解決したはずなのに胸騒ぎが治まらない。


『え……? 名前は取り戻したんだよね? 僕……』


『うん、僕の名前を奪ったのは君になった』


意味が分からない。僕は『黒』の名前を『黒』に返すために、今まで必死で追い求めて来たのに。

僕が『黒』の名前を奪った? 何を言っているんだ、彼女は、僕は、僕は──誰だ?


『よし……どの神様にも見つからないうちに転生しないと。君はこっちで顕在してしまったからね、悪いけど人生やり直して。大丈夫、魂は人間のも悪魔のも天使のも変わらないから、多分君は今の君に転生出来る。多分』


『多分多分言わないでよぉっ! どういうことなの!? 僕、君の名前を……』


『説明は後! 僕の記憶が残ってたらしてあげる。じゃあ、未来で!』


どんと突き飛ばされ、穴に落とされる。暗い暗い底に落ちていく。


『早くしてね、僕は待つの嫌いなんだ』


何かにぶつかって、僕の意識は途絶えた。

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