第496話 最良の愛し仔

怪物に肩車をされ、随分進んだ。地面は舗装された路になり、作りかけのような家や大きな立方体が並ぶ不思議な場所に出た。ここにもやはり霧がかかっていたが、周囲の様子や前を歩く二人の背も見える、あの街よりはずっと薄い霧だ。


「何、ここ……」


『作りかけの街』


街、か。そうは見えないが、道と家を作るための場所を区切っているような線は伺える。作りかけの家や立方体もそのうち完成して、似た要領で至る所に建って、立派な街になるのだろうか。


『居た、アレだ』

『おーい神様ー』


前を歩く二人がドタドタと足を速める。

黒く細長い人影はライアーだった。ライアーは疲れたように笑い、肩車されている僕に向かって両手を広げた。屈む怪物に礼を言い、僕も両手を広げてライアーの腕の中に飛び込んだ。


「兄さん! 兄さん、兄さんっ……」


僕を閉じ込めたの? 僕をどうしたいの? そんな疑問はたくさんあった、だが、久しぶりに見た人間の姿に僕は上手く話せず必死に抱き着いていた。


『……ヘル、ごめんね。ボク失敗したみたい。全部思い通りになる、完璧な理想の街を作ったつもりだったんだけど…………なんでかな、急におかしくなっちゃって、修正も出来なくて』


ライアーは僕の背や頭を撫でながら謝る。理想の世界を作って途中で失敗するなんて、海中都市のライアーと同じだ。


「楽しかったよ、最初の方はさ……本当に、こんな暮らししてみたかったなって思った。元の場所に帰らなきゃって思う気持ちも萎んじゃってさ……」


『なら、どうして浸らなかったの? 偽物を偽物のまま受け入れてたら、ヘルは……幸せだったんだよ?』


「…………うん、僕もそう思う、馬鹿だなって。でもね、魔物使いとしてやらなきゃいけないことはいっぱいあるし、アルも残して来ちゃってるし、『黒』の為には寄り道なんてしてる暇ないし、メルとも会えたばっかりだし──」


『……義務感で理想を捨てたの?』


義務感と真正面から言われると否定したくなる。けれど、きっと正しい。僕のこの思いは義務感だ、決して信念などではない。


『分かった。でもね、お兄ちゃんはヘルに幸せになって欲しいんだ。だからヘルが選んで、理想の夢がいいか辛い現実がいいか。アルちゃん、おいで』


ライアーがそう言うと霧の向こうからアルが歩いていくる、それも二人も。二人のアルはライアーの両隣に腰を下ろし、僕を見つめた。


『……どっちかが現実から精神だけを飛ばしてるアルちゃんで、どっちかがボクがキミの理想を抽出して作ったらアルちゃん。あの街に居たのよりずっとキミの理想に近くなってるはずだよ。どっちがどっちかを当てるんじゃなくて、どっちがいいか選んでね』


どっちがいいかなんて選び方では理想だけを固めたライアーが作った方を選んでしまう。けれど、先程のようなことが起こらないのなら、義務感を捨て去ることが出来れば僕は理想に浸っていられる。


「ぁ、アル……」


恐る恐る名前を呼ぶ、その時の反応は違った。

片方は僕を真っ直ぐに見つめ、身を屈めると僕の太腿に額を擦り寄せた。

もう片方は怒っているようで、眉間や鼻の筋にシワが出来ている。身を低く落として僕の膝に頭突きをしかけてきた。


『ヘル、当然私を選ぶよな』


『……ヘル、どっちを選ぶんだ』


欲を言うならどっちも。

僕は怒っていた方のアルの顔を両手で包み、君を選ぶと囁いた。


『なっ、何故だヘル! 私の何が気に入らなかったんだ!』


「……君はメルの話題を出しても不機嫌にならなかった。つまり、君は偽物」


『偽物で何が悪い! 其方の私は嫉妬深く貴方を束縛するんだぞ!』


「確かに面倒だしちょっと怖いよ? 君の方が何かと付き合いやすいんだろうと思う。でもね、アルはずっと傍に居てくれたから、孤独から僕をずっと守ってくれてたから、そんなアルを選ばないなんて出来る訳ないよ」


偽物のアルは言葉を失い、ライアーの隣で項垂れる。本物のアルは嬉しそうに僕の足に擦り寄っていた、特に頬のあたりを足に擦り付けている。


『…………偽物の方が良く出来てたろ?』


ライアーは選ばれなかったアルを見つめたまま質問する。


「……良い出来だとか出来損ないだとか、そういうの嫌い」


『キミの理想を抽出してあるからキミとの思い出もあるし、キミへの愛情は本物だよ?』


僕は項垂れる偽物のアルの頭を撫でる。本物のアルが唸り声を上げ、僕の手首を甘噛みした。


「…………ごめんね。偽物だからって君が無意味だって訳じゃないんだよ」


『分かったよ、ヘル……キミの思いはよく分かった』


ライアーは深いため息をつき、偽物のアルの頭に手を置いた。すると偽物のアルの姿が霧へと溶け、消えた。


「帰してくれる?」


『…………夢の方が素晴らしいって思い知らせてあげる』


ぼすん、と僕の頭の上に何かが落ちてくる。小さく温かいそれを両手で包んで顔の前に持ってくる。それは兎ほどの大きさの仔犬──アルだ、仔犬のアルだ。


「かっ……わ、いぃ……!」


『ヘル! おい、私はこっちだぞ!』


本物のアルが袖を引っ張る。


「分かってるよアル、分かってるからちょっと待って、もうちょっとしたら兄さん説得するからちょっと黙ってて」


短い手足、小さな牙、クリクリっとした瞳、くるくるふわふわの幼い毛、小さく柔らかい翼と尾、微かに身体が震えているような……それがまた可愛らしい。


「ふっ……ふへっ…………か、かわい……ふへへへっ……」


『ヘル! 本当に分かってるのか!?』


「はぁっ……あぁ、可愛いっ……」


仔犬のアルは僕を見つめていたが、くぁ……と欠伸をすると視線を地面に落とし、短い手足をバタバタと振り回し始めた。


「あっ、お、おりたいの。おりたいの……ふへっ、へへへっ…………今おろちてあげまちゅからねー」


正座するように膝をつき、仔犬のアルを慎重に地面に下ろす。自分の尻尾を追うようにクルクルと回り、それに飽きたのか地面の匂いを嗅ぎ、回っているうちに見失った僕を見つけて僕の膝に前足を乗せた。


『へる!』


「喋ったぁっ! あっ……ぁ……もう、無理……」


『ヘル! 何が無理なんだ!』


仔犬のアルは小さな翼を羽ばたかせ、僕の膝によじ登る助けとした。


「あぁっ……可愛いねぇ……可愛いよ……可愛いでちゅよ……」


僕の膝に乗ると前足を腹にかけて立ち上がり、僕を見上げる。


『へぅ……へる! へる、すき!』


「僕も大好きだよアルぅーっ!」


『ヘル! ふざけるな! そんな弱々しい私に何の意味がある、そんな貧弱な身体では貴方を守ればしないだろう!』


『ここにはヘルを襲うような奴は居ない、ヘルを守る必要は無いよ』


拙い言葉がこんなにも愛おしいなんて知らなかった。

仔犬のアルと戯れていると、本物のアルが肩にそっと顎を置く。


『……私は、もう要らないのか?』


悲しそうな声を聞いて、真っ直ぐな黒い瞳を見て、僕は膝に乗っている仔犬を忘れて勢いよく立ち上がり、アルを抱き締めた。


「ごめん! 違うんだよアル、違うんだ! 別に現実を忘れてたとかじゃなくて、その……出る前にちょっと楽しんでおこうかなって思っただけで! 僕は君が一番好きだから!」


『信用出来ると思うか……?』


『……酷いなぁ仔犬を転がすなんて』


ライアーは仔犬のアルを抱き上げ、霧へと返す。

またより可愛くなったアルが来るかもしれないと期待を胸に身構えていると、背後から誰かに抱き締められる。ライアーではない、華奢な少女の腕だ。


『人間ならどうかな? ヘル。まだ現実に戻りたいと思う?』


『……っ! 貴様……執拗いぞ!』


『んー? 流石にコレには勝てる自信無いよねぇ? なんたって自分の思い通りになる美少女だ、コレを選ばない男は居ない……あはははっ!』


振り返ると銀髪の少女が元気な微笑みを見せた。僕は少女の腕をそっと解き、立ち上がり、ライアーのシャツを掴んだ。


「……違うじゃん」


『…………ヘル? 何? 背が高い方が好みだっ田? 見た目も人数もキミの好きなようにするよ、言ってごらん』


「毛皮がないアルなんてアルじゃないだろ!? 羽もっ、尻尾もっ、何も無いじゃないかふざけるなよ!」


『えっ……?』


「違うんだよ! 違うんだよ根本的に! 兄さんと僕、認識が違うっ! そりゃあ理想世界も失敗するよ!」


ライアーは困惑した表情のまま、シャツを引っ張る僕の手に手を添え、落ち着かせようとする。


「アルを人間にして何が楽しい!」


『えっ、いや……可愛い女の子好きじゃないの……? 年頃の男の子だし、ほら……そういうの興味あると思って……』


「可愛い女の子より可愛いアルの方が可愛いだろ!?」


『…………ははっ、そういえば貴方は「好きな年齢の女になってやる」と言ったセネカにコウモリを要求するような人間だったな……』


アルは僕の背に寄り添い、乾いた笑いを聞かせる。


『で、でも……アルちゃんが人間の女の子ならキミに絶対服従の美少女が手に入るんだよ?』


「要らないよそんなの!」


『えぇ……男の夢じゃないの……?』


「獣人でもやだ! アルはアルじゃなきゃダメなんだよ! 大きい口が、牙が好きなの! よく動く三角の耳が好きなの! この可愛い肉球が最高なの! 僕を包んでくれる大きな羽が、僕を離さない長い尻尾が好きなの! 四足歩行だから頑張って立ち上がってる時可愛いんだよ、不器用な前足がいいんだよ、兄さんのバカぁっ!」


『嬉しいぞ、ヘル。まぁ、貴方のこれからを思えば少し複雑だがな……』


『………………分かったよ』


ようやく理解したかと手を離す。


「じゃ、もう一回仔犬のアルを出して」


背に寄り添っていたアルが一瞬離れ、強烈な頭突きを放った。


「いっったぁ…………兄さん、そろそろ帰してくれるよね? 僕はこの本物のアル一筋だから、仔犬とかいいから、早く返して」


『……分かった。残念だけど…………ぁ、そうだ、普通に寝てる時ならいいよね? 息抜きにしてよ、この街もヘルの好きな店やテーマパーク作るからさ。だから……お願いだから、石は捨てないでね。ボクはキミの最後の切り札に、最後の逃げ場になるんだから』


「えっじゃあまた仔犬のアルに会え……ぁ、いや、ごめん。えっと……に、兄さんを捨てるなんてありえないよ」


ライアーが虚空に手を翳すと扉が現れる。その後ろには何もなく、ただ扉だけが立っていた。


『ここをくぐって七十段の階段を上れば目が覚めて現実世界に戻れるよ。それじゃあ、ヘル。また来てね。時々喚んでね』


寂しそうな笑顔で僕達を見送るライアーに手を振り返して、扉を抜ける。

その向こうは薄暗い場所で、ライアーが言っていた通り階段があった。

僕はアルの尾を腕に絡ませ、その階段を上って行った。その時の尾の締め付けはいつも以上のものだった。

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