第494話 陽光に照らされた部屋

ヘルの夢に侵入するには何故か築かれている防壁を破らなければいけない。しかしそれをするにはメルの魔力は足りない。それなら茨木から吸えとベルゼブブが言ってしばらく、メルは立ち尽くしている。


『何してるんです、早くしなさい』


ベルゼブブは防壁がある時点でヘルがただ眠っている訳ではないと察していた、何者かの手が加わっていると見破っていた。


『ちょ、ちょっと待って……? ベルゼブブ様、ワタシ、ほら、リリムだから性別は固定で……男の人からしか吸えないんです』


『なら問題有りませんね』


ベルゼブブは茨木の背を押し、メルは後ずさる。

面倒臭いとため息をつき、茨木はメルの肩を掴み、口を近付け──メルが咄嗟に割り込ませた手に口付けた。


『待ってよぉっ! 茨木ちゃん女の子でしょ!? そ、それに、初めてはだーりんって決めてるんです!』


『はぁ? 貴方淫魔のくせにキスすらしてないんですか? 貴方もう数百歳でしょ? いえ、数千?』


『歳は言わないでください! だ、だってお菓子の国でお菓子食べてれば吸精なんて必要なかったのよ、仕方ないじゃないですか!』


メルの気がベルゼブブに逸れた隙を突き、茨木はメルの両腕を片手で抑え、もう片方の手で顎を掴み、酒呑に酒瓶で殴られた。


『何邪魔してんですかザルぅ! 貴方今どんな状況か分かってます!?』


『いや、無理矢理はアカンやろ……』


『鬼のくせに! 鬼のくせに! 婦女子攫ってこき使って犯して殺して喰うくせに!』


『いやそら人間の話やて。この子これから仲間なんやろ? 頭領に惚れてるみたいやし……これで頭領起きても怒らしたらまためんどいやん』


茨木は髪に絡んだ酒瓶の欠片を取るのに集中し始め、メルの腕を離した。メルは慌ててアルの後ろに隠れた。


『…………メル、その……済まないが』


『……ワンコもワタシによく知らない人とキスしろって言うんだ』


『昨日話していただろう』


『そういう知る知らないじゃないの!』


アルはヘル第一主義、その上ヘルを「だーりん」なんて呼ぶメルが片付くならと積極的に賛成していた。そうしてここでも争いが生まれる。


『はんっ! ふわっふわした理由ですね……いえ、 まさかアレですか、嫉妬ですか! それはそれは申し訳ございません!』


扉の前で立ち尽くすフェルとセネカに、言い争う酒呑とベルゼブブ、髪をせっせと整える茨木、混沌という言葉が似合う光景だ。


『そうですよねぇ貴方達そういう仲ですもんねぇごめんなさいねぇ!』


『ちゃうわアホンダラ沈めんぞ!』


『……じゃあなんで邪魔したんですか?』


『…………いや、常識的に……なぁ?』


『弱い言い訳です。ヘルシャフト様の身の安全より大切な貞操なんてありません。正直に言いなさいな』


『……手慣れ過ぎてて腹立った』


『うっわくっだらなっ! ドン引きです!』


開きっぱなしの扉にエアがひょっこりと顔を覗かせる。フェルとセネカに事情を説明され、弟に危険が迫っているというのにくだらない理由で喧嘩する二人に苛立ち、とりあえずベルゼブブを殴った。


『……ヘルにキスしてからこっちとやれば? 初めてじゃなきゃいいんだろ?』


『流石兄君! 私が思い付いても言わなかった下衆な手をドヤ顔で語って格好つくのは兄君だけです!』


エアは煽るベルゼブブを無視し、メルを睨む。


『…………で、でもぉ……だーりん寝てるし……』


『……そのまんま頭領から吸うんはアカンのか?』


『夢に入って起こすのに同じ属性の魔力使ったらリリムさんも夢に取り込まれる可能性が高いんですよ。そもそもリリムの睡眠干渉能力は淫夢を見せてムラムラさせるだけであって、それ以外の使い方を考慮されたものではありませんしね』


『ほーん……なんや面倒やのぉ。せや、弟はんどうなん。そっくりやで』


『貴方、女心って知ってます?』


突然話題に上げられたフェルはセネカの背に隠れ、突然触れられてセネカは驚いてコウモリに変身した。


『……分かった。じゃあこれ咥えて。魔力流し込んであげる』


エアは伸ばした髪の先を触手に変え、メルに渡す。触手の先端がぱっくりと割れ、歯のない口のようなものが現れた。


『貴方も女心知りませんね?』


『ベルゼブブ様……どちらも女心どうこうと言うより人間性ではないでしょうか』


『なんで? キスしたくないならこれでいいでしょ?』


メルはそっと触手を離し、こっそりとフェルの横を抜け部屋を出た。扉を盾に部屋の中を伺っている。メルだって我儘を言える状況ではないと分かっているが、それでも許容出来なかった。


『……なんや別の方法で魔力分けられへんのか』


『淫魔ですからね、粘膜接触でしか無理でしょう』


『……手に粘膜作ればいいの?』


『兄君は黙っててくださいねー』


『…………ベルゼブブ様が呪いを使ってお菓子を作れば取り込めるのでは?』


『あっ……』


ベルゼブブは微かに声を漏らすと無表情のまま本棚から分厚い本を抜き取り、息を吹きかけ、メルに渡した。


『……わ、美味しい』


『あ、ミルクレープ? 美味しそう、作ったらお兄ちゃん喜ぶかな……ちょっと見せて』


そのまま自然な流れで退室しようとして足に触手を巻き付けられ、部屋の中に戻された。


『魔界の最高司令官様ぁー? 何かと抜けてるよねぇ君』


『離してください存在そのものが猥褻物!』


『スライムをそういう目で見る君の視線の方が卑猥だと思うなぁ』


『ベルゼブブ様……今のは少々問題かと』


『せやな、うちの茨木が頭領の逆恨み買うとこやったわ』


床に転がされ、三人に囲まれ、ベルゼブブはじたばたと手足を振り回す。何も逃げられない訳ではないし、殴り倒すことだって出来る。だがそれ以上に自分のド忘れを恥じていた。


『いやぁ、危うくヘルにアルちゃん以外の子を近付けるところだったよ』


『来て一番に提案しただろう……本当に気にしているのか?』


『とりあえず簀巻きにして川流そか』


予備の布団に巻かれ、部屋の端に転がされる。


『地獄の帝王にこの仕打ち……お山の大将如きが……』


『へーへーお山の大将で結構結構』


酒呑は布団に巻いたベルゼブブの上に座り、酒をあおる。下から聞こえてくる怨嗟の声が肴だ。


『酒呑様のおかげで可愛らしい子とのチャンス潰れてもうたわぁ。髪酒臭なったし』


『そういえば君邪魔したんだって? なんで?』


『…………自分、自分の弟が何や魔力要るから言うて知らん奴と接吻させられそうなってたらどうする?』


『発案者と相手を殴るね!』


『せやろ! それや!』


『……酒呑様殴ったんうちやったけどなぁ……』


布団を椅子とするのは三人に増え、中からの声も数段低くなる。アルは隙間から飛び出た触角が激しく揺れているのを心配していたが、メルの準備完了の声を聞くとベッドの隣に走った。


『よし……じゃあ、だーりんの夢にダイブ!』


メルはヘルの手を握り、手の甲に額を当て、じっと目を閉じる。


『これで何も夢見てへんかったらおもろいんやけどなぁ』


『おー、やっぱ根性ババ色やわ……』


応援する気など欠片もない声を背に受け、メルはじっと意識を集中させ──慌てたように顔を上げた。


『メル、どうだった、防壁は破れたか』


『…………うん。変なところに出たの。階段があって、そこを降りて、洞窟みたいなところで……門番だって人に追い返されちゃった』


『……それがヘルの夢か?』


『分からない……でも、入り口みたいな……そんな感じで』


メルはふわふわと寝ぼけたような頭のまま、見て来た景色を説明する。するとエアが表情を変え、立ち上がった。


『幻夢郷だ。やっぱり、ヘルの近くに居る……結界を抜けてる!』


乱暴に布団を剥がし、ヘルの腹に跨り、額に触れる。手は頬を通って首に移り、胸元を過ぎ──少し戻ってネックレスを服の中から引っ張り出した。


『兄君……? 幻夢郷とは何だ、その石がどうしたんだ、今直ぐに全部説明しろ!』


『……子供の頃、旅行記を読んだだけだからね、僕もよく知らない。それでも恋焦がれたものだよ、猫の街……ヘルは行ってるのかな、羨ましい』


エアはそっとヘルの頭を持ち上げ、ネックレスを奪い手に絡める。石をじっと見つめ、目眩を起こし、石を握り締める。


『兄君、大丈夫か? 何がどうなっているのか全く分からん、説明してくれ。それと……そろそろヘルから離れろ、貴方からまだ反省の言葉は聞いていない』


『あぁ、悪いね。やっぱり猫の方が好きでさ……あれ、違う、こんな話してたんじゃなくて…………やっぱり精神汚染の力が強い。ヘルはよくこんなもの身に付けてて平気だったね、とっくに狂っててもおかしくないよ』


『…………危険な物なのか? ヘルはそれを大切にしている、急に取り上げたりはしないで欲しい……』


『いや、即刻破壊すべきだよ。想像以上だ……ヘルが大切なら厳しくすることも大事だよ』


エアはアルに石を渡し、ふぅっと息を吐く。ベッドを降りるとメルの頭をぽんぽんと撫で、壁を背に仮眠を取り始めた。

アルは黒蛇に咥えさせた石を頭の上で揺らしていた。観察してはいけない物だと分かっていたが、ヘルの為には観察しておきたい代物だ。エアの言うことを鵜呑みにせず、自身で危険かどうか判断したかった。

深く息を吐き、アルは決心する。ベッドを離れ、酒呑の横に並び、部屋の隅で石の観察を始めた。

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