第400話 結界の崩壊
剣を構えて急降下する天使、頭をさすりながら寝ぼけ眼で起き上がる金髪の男。エアはその二人を素早く見比べた。
『神封結界……そうか、月の魔力で崩壊が早まって…………って考えてる暇なんかない! 神様! 助けて!』
オファニエルの剣はグロルの喉元を狙ったが、グロルは子供らしくない力でエアの頭を盾に使った。エアの耳を微かに裂いて、オファニエルの剣は叩き折られる。
『助けたぞ』
剣を折った槌を肩に担ぎ、トールはオファニエルの腕を捻り上げた。
『……ちょっと耳切れた。失敗だよ、神様?』
『…………厳しいな』
トールは微かに視線を下げ、オファニエルを後方に投げ飛ばした。
『……ん? エア、太ったか?』
『ヘルのそのペットを入れてるだけだよ! 君には関係無いだろうけど、月の魔力は他の性質を持つ魔力を破壊する特性があるんだよ。それを少しでも遅らせようと盾してんの! 太ったとか言わないで!?』
『…………すまん、聞く気が途中でなくなった』
『なんなんだよっ! もういい、フェル連れてきて!』
フェルは少し離れたところで人間の原型を微かに保ち、倒れていた。トールはそれを掬い、エアの前に落とす。
『…………やっぱり僕よりも解析は進んでるね。ちょっと細胞を交換して、増殖して、並列処理を……』
フェルが貯め込み、オファニエルに吸い取られてしまった月の魔力はもうほとんど消費されていた。今のオファニエルはもう降り注ぐ通常量の魔力しか持っていない。神力の供給が戻ったとはいえ、トールの隙をつきエアからグロルを引き剥がして殺すなどといった芸当は不可能だ。
『異界の……神性、取り引きをしないか』
オファニエルはよろよろと立ち上がり、トールの前まで歩くと膝を折って座り込んだ。
『私の仕事はあの堕天使を殺すこと、君達に危害を加える気はないんだ。あの堕天使を引き渡してくれれば、君達には二度と手出ししない、約束する。だから──』
トールはその場にしゃがみ、オファニエルと視線を合わせる。
『俺は……取り引きというのは対等な関係にある者の間だけで、共に同等の利益があって初めて出来ることだと思っていたんだが。俺の勘違いか?』
『私だけではない、全ての天使だ! 全ての天使が君達に手を出さなくなる、十二分の条件だろう!』
もちろんオファニエルにそんな権限はない。普段意見を出すこともない彼女の勝手な取り引きなど、他の天使達が許容するはずがない。だが、オファニエルにはそれでよかった。ここで堕天使を殺すことさえ出来れば自分の仕事は終わり、トールと二度と会うこともない。初めから約束を守る気などないのだ。
『……やはりよく分からないな。お前は俺と対等ではないし、上のが無事を望む子の命と天使から狙われなくなるという事が対等とも思えん。天使が狙ってきたから、なんだ?』
トールは槌をオファニエルの頬に宛てがう。
『ミョルニルで壊れない物があるのか?』
『……つ、ついさっき君は私に負けただろう!?』
『封印されていたからな。だがあの封印は下のがやった事だ、同時に封印されるお前らには出来ないだろう』
『き、君だって、総攻撃されれば……』
『俺だけで戦う必要も無い、エアは結界も範囲攻撃も上手いし、上のは魔物を味方に出来るし、下のも補助が上手い』
オファニエルはトールについて勘違いしている事が多過ぎた。口数の少ない彼を口下手だと思い込み、エアに黙って従う彼を自分で考えられない者だと断定した。
トールは極度の面倒臭がりで、普段は思考放棄しているだけで、観察眼もあればそれを活かす頭もある。戦神である彼に戦闘が回避出来る事を旨みとするなど、愚策中の愚策だ。
『……全ての天使が狙ってきたなら、お前の友人はもちろん友人の弟達も、その堕天使も守りきれない。お前がいくら強くとも、数の力は絶対だ!』
『数か、ふむ。では父にワルキューレでも貸してもらおう。いや、断られるか? だが、そもそもお前らと戦う必要も無い。お前らはユグドラシルの結界を破れないだろう、逃げ込めば勝ちだ』
『…………ふざけるな! 異界を行ったり来たりするなど、創造神は当然お前のところの主神だって許すはずがない!』
『どうだろう。父は案外融通が利く』
どんな脅しをしても、トールは涼しい顔で返す。オファニエルは焦り、思考が纏まらないでいた。また顔を上げて無茶苦茶な理論を放とうとした時、鎧の隙間を縫って鎌風が彼女の身体を切りつけた。
『や、神様、時間稼ぎどーも。帰られちゃったら復讐出来ないからねぇ~?』
エアは上機嫌にトールの肩を叩いて、オファニエルの足を踏みつける。
『ふふっ、いやぁ最っ高の気分! 地上で最も有害とされる魔力の耐性を得たんだ、もう僕は名実ともにこの世の王だね!』
オファニエルの髪を掴み、顔を上げさせ、魔法陣が描かれた瞳と目を合わさせる。
『神経掌握完了……ふふ、ね、どんな痛みが嫌い? 一番好きなのから与えてあげる!』
天使だろうと人界に実体を持って現れている以上、それもその実体が人間を模しているのなら、痛覚は人間と同じ。エアは神経に直接魔力を流し込み、属性を付与してあらゆる苦痛を味合わせる術を好んで使っている。
拷問に復讐、軽度なら弟との遊戯にも使った。エアの性格を表した最低の魔法と呼べるだろう。
『……ね、ねぇトールさん?』
人間の形を取り戻したフェルは上機嫌の兄に話しかけるのを嫌ってトールに呼びかけた。
『下の……いや、上?』
『下であってるよ。僕はフェル、お兄ちゃんはあっちで寝てる。ちょっと運ぶの手伝って欲しくて』
『運ぶ? どこに何を』
『お兄ちゃんと狼さんをランシアさんの家に。あと、ランシアさんも運んであげて欲しい』
フェルは何度かランシアに治癒魔法を試したが、傷が塞がるだけで魂は戻らなかった。
『死体もか? 要るのか?』
『…………お墓、作らないと』
『埋めるのか、分かった』
エアがオファニエルで遊んでいる間に済ませてしまおう、フェルは小声でそんな事を伝え、ヘルを背負った。
ランシアの家にて。フェルはランシアが淹れていたようにお茶を淹れ、トールとグロルに手渡した。
一息ついて、フェルはグロルに迫る。
『ねぇ、堕天使さん? ちょっといい?』
「や! どろどろきらい!」
『……演技いいから、ちゃんと話して?』
「やぁー! こないで! きらい! おかーさん!」
グロルはカップをフェルに投げつけ、部屋の隅に蹲る。フェルはカップの破片を踏み、グロルに歩み寄っていく。
『お母さんは君が盾にして死んだんだろ?』
「……へ?」
『君が殺したんじゃないか』
「……おかーさん、どこ?」
『家の裏に置いてるよ、二人が起きたら埋めようと……』
グロルはフェルの足の間をすり抜け、家を飛び出し裏手に走る。フェルは急いで後を追い、トールもすぐに立ち上がり──飲み終わったカップを流し台に置いて席に戻った。
「おかーさん! おかーさん! おきて、おかーさん!」
グロルは亡骸を揺らして、縋り付いて泣き喚いている。死の概念が分からないほどの歳ではないが、母の死を受け入れられるほどの歳でもなかった。
『……何してんの? だって、君は……堕天使で、グロルじゃない。グロルじゃなくて……』
フェルはその光景を見て硬直してしまっていた。グロルが──いや、アザゼルが本性を表したのは、溶けた身体でもしっかりと見聞きしていた。目の前に居るのは狡猾な堕天使のはずだ。それなのに──
『…………なんで泣いてるの?』
「おかぁ……さん、やだ……おきて、ぐろるだっこしてよぉ……」
『僕に演技する意味ないよ? お兄ちゃんならともかく、僕は分かってるよ?』
フェルは最後の望みをかけ、グロルの肩を掴む。
『どろどろ……おかーさんかえして! どろどろのせいだ! どろどろのせいでおかーさんおきないんだ! どっかいってよぉ!』
フェルは突き飛ばすようにグロルの肩を離し、玄関の前まで走る。だが、その扉を開く気になれず、その場で座り込んだ。グロルの鳴き声を聞きたくなくて、耳を塞いで、自分の失敗を思い返したくなくて、ぎゅっと目を閉じて塞ぎ込んだ。
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