第375話 黒炎を裂く雷光

天使達は少しも動揺を見せないベルゼブブを不審な目で見つめている。けれど、神からの供給が絶たれた彼らには偽物が偽物であるとは気付けない。


『僕は、にいさまだけを慕うように作られたんです。脳をコピーしたのに、わざわざ他人との記憶を消して、にいさまが僕の全てになるように作られて、でも、なのに……』


偽物はポロポロと涙を零し、ザフィに何か身の上話のようなものをしていた。僕はそれで偽物だとバレないかだけを気にしていて、彼の話に耳を傾けなかった。


『僕は練習台で、僕は本当は必要なくて、でもにいさまに縋る以外の生き方なんて考えられるように作られてないから』


『……ヘル君?』


『…………僕を殺すなら、脳を破壊してくださいね』


偽物は首に突きつけられた傘を握り、自ら首を貫かせた。


『ヘル君!? 何を……っ!』


傘は首を貫通して、偽物のうなじからは尖った金属が赤く染まって飛び出ていた。


『ザフィ! 何をしてるんだ、殺しては交渉が出来ないだろう!』


『そーだよこのバァーカ! バカバカバァーカ!』


カマエルとイロウエルは始めから機能していない人質作戦の失敗を憂いてザフィを責める。ザフィは偽物の首から傘を引き抜き、必死に止血を行っていた。その表情は作戦の為と言うより、本心からの優しさから来ているように見えた。


『あーぁーあー! ヘルシャフト様が死んじゃいました! どうしましょ、あぁ困りました、これでは魔物を統率出来ません!』


ベルゼブブは下手な演技で偽物の死を悼む。


『そ、そうだ。魔物使いは殺したんだ……ベルゼブブもこの中に居る、これで神魔戦争が起こっても我等の勝利は確実……』


『頭涌いてるのか! 私達は出られないし、魔物使いの魂だって結界内をうろつくだけで、そのうち自然発生する魔獣に転生するかもしれない! 何の意味があるんだよ!』


カマエルとイロウエルは再び醜い争いを始めた。ベルゼブブはそれを楽しげに眺め、石を拾ってチョコに変えて呑み込んだ。


『ヘル君……どうして……』


ザフィは偽物の身体をゆっくりと寝かせ、見開かれた目を閉じさせた。


『……だって、これがヘルシャフト・ルーラーという人間だから』


喉を貫かれたというのに、偽物は流暢に語りだした。死んでいると思い込んでいたザフィは声を上げて驚き、その場から飛び退いた。


『愛されたくて仕方なくて、それだけが生きる希望で、それが絶対に叶わないと分かったら、死を選んでしまう。それが僕、ヘルという人間』


『……ど、どうなって……君は、人間のはずじゃ……』


『ヘルシャフト・ルーラーは人間。けれど僕は……ショゴスという生き物。エゴイストの練習台。デストルドーの塊』


首の穴から流れ出る液体が赤から黒に変わる。兄と同じ、玉虫と同じ輝きを放つ黒いスライムの姿が顕になる。


『…………もう、二時間経った。にいさまが帰ってくる。食事を終えて帰ってくる。にいさま……にいさまには、もう、僕は要らない』


首から乾留液のようなものを垂らして、偽物は僕の元にふらふらと歩んで、辿り着くと頭をぐらぐらと揺らしながら身体を静止させる。


『……君がいなけりゃ、僕が君になれるのかな。にいさまに愛してもらえるのかな』


アルは翼で僕を庇い、数歩下がって威嚇を始める。

アルは偽物の方が好きなくせに、僕を庇うのは何故だろう。義務感かな、愛着だと嬉しいけれど、違うだろうな。


『警戒しないで。僕は君に危害を加えたりしない。出来ないよ。だって君に何かしたらにいさまに嫌われちゃう』


「……本当に、僕そっくり。気持ち悪いよ」


ため息をつくと同時に轟音が響く。それは雷が落ちる音のように聞こえた。

黒い炎に覆われていて分からないけれど、近くに落ちたのだろう。そう考えている間にもその音は何度も何度も鳴り響く。


「な、何……? アル……」


『分からない。良い予感はしないな』


空を見上げる。蠢く黒い炎だけの景色。けれど、その中天に紫電が走る。


『……っ! このプレッシャー、間違いありません。いつかの外来種!』


ベルゼブブは真の姿を現して、その紫電の元に飛ぶ。獣にも似た蝿が中天に辿り着くと同時に炎が割れて雷が落ちた。雷はベルゼブブを巻き込み、地面を穿つ。


『結界が割れた!? まずい、爆発が……っ!』


カマエルを始め、天使達は結界が壊れた事に対して動揺してしまって動けなかった。それはアルも鬼達も同じだった。

けれど、ただ一人イロウエルだけはあの鉄球を振りかざし、僕に突進してきた。


『アンタさえ殺せば……このなんの旨みもない戦いに参加しなくて済むんだ! とっとと死ね!』


僕の頭部を目掛けた鉄球は偽物の腕に止められる。当たった箇所の皮膚が剥がれ、黒く粘着質な液体が垂れる。


『……このっ、紛いもんが!』


偽物が僕の頭を抱き締めて庇う。アルが偽物ごと僕を乗せて走る。

イロウエルはアルの尾を掴み、引き摺られながら再び鉄球を振るう。けれどその鉄球は偽物の背を少し抉るだけに終わる。

イロウエルは再び鉄球を振り上げる。けれど三度目はなく、柄の短い槌がイロウエルを吹き飛ばした。


『やったぞ。エア。次は何をすればいい?』


『しばらく何もしなくていい』


目の前に大きな魔法陣が浮かび、その光に飲み込まれて僕の視界は白く染まる。強い光に当てられたせいか、数秒の間は目を閉じても開いてもその白く染まった世界が見えていた。何度も瞬きをしてようやく目が慣れると、目の前に僕の顔があった。


『……大丈夫?』


「…………君の顔を見たせいで気分が悪いけど、怪我とかはしてないよ」


アルを下敷きにしている事に気が付き、すぐに立ち上がって偽物の腕を引っ張り彼もどかした。周囲を見回し、ここが誰かの家であると理解する。


『ヘル? ヘル! ヘールーゥー! 本物だぁ! 本物……僕のヘル! 僕の弟! 僕のヘル!』


顔を掴まれ、無理矢理上を向かされる。兄の顔で視界が埋まる。兄は心底嬉しそうに僕の頬を揉みしだいた。


「……痛い」


『えっ? あ、ごめん。ごめんね? これで痛いんだ……分かった、覚えた。もうしないよ? もうしないからね?』


頬から手が離れる。兄は手をふらふらと動かした後、僕の肩に置いた。


『……ここは大丈夫? 痛くない?』


「痛くはない、けど……なんでそんなこと気にしてるの?」


『ヘルは痛いの嫌いだろ? 嫌いなことばっかりしてちゃ、お兄ちゃんも嫌いになっちゃうだろ? お兄ちゃんはヘルに好かれたいから気にしてるんだよ』


偽物が言ったことはどうやら真実だったらしい。

兄は僕を虐めようとはしていない、痛みを与えないように気を遣い過ぎているくらいだ。

今の言動が演技でなければ、だけれど。


『……エア、少し話したい。構わないか?』


『何? アル君。ここで話していいお話? それとも二人きりの方がいいお話?』


『…………出来ることなら、二人で』


『分かった。じゃあ隣の部屋で』


『エア、俺は……』


『ここで待ってろ。二人だって言ったろ? いい加減自分で考えるってことを覚えなよ』


兄はアルに対しても猫なで声で接していたが、トールに対しては聞き慣れた声に嘲りを交えた。

アルは兄と揃って部屋を出ていく。兄がアルに何かしないかと心配で、僕はアルを呼び止めた。


『……大丈夫。何かあったらちゃんと報告する』


『お兄ちゃんがヘルの友達に酷いことする訳ないだろ? 安心してよ』


以前、アルの体内に自分の肉片を仕込んだのは誰だ。そう返してやりたかったが、温和な兄が不気味で声は出なかった。


「…………あの、トール……さん?」


とりあえずの状況把握にとトールに声をかける。気まずい、彼とは話した記憶がない。恩はあるが親しくはない。


『なんだ?』


「……ここは、どこでしょうか」


『さぁ……?』


「…………あなたは、どうしてにいさまと一緒にいるんですか?」


『エアは頭が良い。一緒にいると何も考えなくてよくて楽だ』


彼はベルゼブブが恐れるほどの戦神だ。だから機嫌を損ねないようにと気を遣って話しているのだが、彼の答えを聞いているとそんなものは無意味なように思えてきた。


『トールさん、にいさまは今日何人食べてきたんですか?』


『四人だ。ん……? エアの弟……二人、いるか? 二人いたのか。そうか、双子だったか。知らなかった』


四人。その言葉に背筋が寒くなる。僕にあれだけ温和な顔を見せておいて、四人も人を喰ってきた後だなんて。仕方ないことだし僕のせいでもあるけれど、やはりそう簡単には慣れない。


「双子って…………ねぇ、トールさんは君が何なのか知らないの?」


『知ってるはずだけど覚えてないっていうか……覚えようともしないっていうか、気にしてないっていうか。まぁ、僕のことなんてどうでもいいんだろうね、そりゃそうだよ、誰も僕なんか……』


「本当、君は僕そっくりだよ」


その悪寒から目を背ける為に、僕はトールの不思議な性格について偽物と耳打ちし合った。

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