第320話 食肉

酒食の国に行ってもいいのだが、一文無しではどこにも泊まれない。あの国に僕をタダで泊めてくれるような知り合いはいない。

アルを枕にぼうっと城門を眺めていると、その上に双頭の狼が現れる。狼の影は月光に引き伸ばされ、長く細く気味悪く僕の足まで届いていた。


「……オルトロス」


オルトロスは王城の庭に繋ぎ直されていたはずだ。

壁から飛び下り、僕の元へ走ってきたオルトロスは首から鎖を垂らしている。前の物より太く頑丈に作られていたはずの鎖は乱暴にねじき切れていた。


「ちぎってきたの? うわ……すごい、鉄ってこんなちぎれ方するんだ」


魔物使いの力を使って呼んでなどいない。単純に僕に懐いているのだ。


『気に入られたようだな。私としては面白くない』


「え……そう? ほら、格好良いよ? 頭二つあるし」


『量は関係無いだろう』


「……よかったらアルの恋人にでも『嫌だ』


そんなに強く否定しなくてもいいだろう。


『其奴は同性だ』


「そうなの? 両方? まぁどうでもいいや」


『性別は身体に依存すると思うのだが……おい待てどうでもいいと言ったか? そもそも其奴は知能も低くてだな、私の好みでは無いんだ。おい聞いているのか』


甘えた声で鳴くオルトロスはアルに目もくれず僕の胸や腹に頭を擦り付けている。

止めようとした手を甘噛みされて、仕方なく背を撫でた。

飼い主……アポロンでいいのか? とにかくオルトロスは王城に返さなければならない。だが僕は追い出されたばかりで、国の中にも入れない。どうしたものか。


『…………しかしオルトロスとは大層な名を付けられたな』


「何か意味あるの?」


『ようやく聞こえたか。オルトロスというのは神降の国で信仰されている神々と敵対する怪物の子の名だ』


「敵の名前付けてるんだ…………オルトロス? ちゃんと可愛がってもらってる? ご飯毎日食べてる? ブラッシングとかされてる?」


『此奴は神の血を引く怪物などではなく、ただの狼の魔獣。その奇形だ。上級魔獣ではあるようだが私よりも弱いぞ』


「お腹空いてない? 喉乾いてない? 毛玉できてない?」


『聞いているのかヘル』


「あぁ、ごめんごめん。敵の名前付けてるとかもう憂さ晴らしに殴られたりしてそうで……」


返す必要なんて無いかもしれない。オルトロスも僕に懐いていることだし、このまま引き取ってしまおうか。

そうしよう、可愛いし。


「……でも、お腹空いたよね。一日何も食べてないし、昨日の晩食べたのだって軽食だし……」


あの店でもっと暴食してしまえばよかった。

朝食を食べてからヘルメスに着いていけば良かった。昼飯を食べてから仕事をすれば良かった。夕飯を食べてからなら出ていくと言うべきだった。

後悔したって、どうにもならない。


「アルは平気なの?」


『賢者の石は無限の魔力を持つ。私には食事も睡眠も必要無い』


「そっかぁ、でもオルトロスはそうもいかな……オルトロス? ちょっと、待って! どこ行くの!」


オルトロスは僕の静止を振り切って、森の中へ入っていく。

平地の神降の国と山の獣人の国の間の森、そう深くはないが、今は夜だ。

魔獣は夜目がきくのかもしれないが、僕は何も見えない。どこに行ったのか分からない。


「どうしよ……力届くかな。呼び戻してきてよアル」


『嫌だ』


「なんで……」


『森に入ったのは彼奴の判断だ。野生に帰るもそこで死ぬも彼奴が決める事だ。それに、私にとって彼奴は………………恋敵だからな』


アルは探してくれる気はないらしく、体を起こしもしない。

僕は仕方なく、魔物使いの力を使うように意識して、オルトロスに戻ってこいと命令する。

だが、どこにいるのか分からない相手に魔眼は使えず、声だけで届く魔力なんて僅かなもので、オルトロスは一向に戻ってこない。


「どうしよう、どうしよう……どうしよう。怪我とかしないかな、どうすれば……」


力の使い過ぎで頭と右眼が痛む。

ガサガサと茂みが揺れ、ウサギやらの下級魔獣が飛び出してくる。


『月永兎……嫌いだ。あっちに行け、ほら、しっし、帰れ』


嫌な思い出があるのか、アルは尾でウサギ達を追い払う。

僕が呼びたいのはオルトロスであって、ウサギではない。まだ力を上手く使えないのか? 自分が嫌になる。


頭痛に耐えきれず、膝を折ってアルの翼に顔をうずめる。少し回復したらまた呼ばなければ。早くしなければどんどん遠くへ行ってしまう。

目眩がマシになって、もう一度叫ぼうと顔を上げた時だ。茂みが大きく揺れ、その揺れに見合った大きな影が飛び出してきた。

それは鹿を咥えたオルトロスだった。


『……餌を狩ってきたのか。飼い犬だったとは思えん手際の良さだな、知能は低いが名に恥じぬ程度の要領は持ち合わせているらしい』


「鹿って……これ、え? 食べるの? そりゃそうか……」


首を咥えられた鹿は驚く程に明瞭な瞳をしていた。

全身の力を抜いて、襲いくるであろう痛みに備えている。


「…………ごめんね。おやすみ」


僕はそっと瞼を閉じさせて、痛みを感じないようにと願う。


『気に病むな、ヘル。普通の事だ』


「……そうなんだろうね」


気にしない事なんて出来ない。せめて痛みなく、という僕の判断は間違ってはいないはずだ。正解とは呼べないかもしれないけれど。


鹿が動きを止めたのを確認して、オルトロスは口を離し、鹿の身体を鼻先で押す。

僕に差し出しているらしい。


『先に食え、と言っている』


「…………このまま?」


『ここに調理器具は無いぞ』


「噛み付けって? 無理だよ、絶対無理」


オルトロスは僕を見つめて首を傾げ、悲しげな声で鳴く。

手を付けなければ厚意を踏みにじる事になるのは分かっている。分かっているが、無理なものは無理だ。

僕には毛皮や肉を噛み切る牙はない。


「ねぇ、アル。通訳頼める? 僕はこれ食べられないって」


『構わんが、それを言っても此奴は別の動物を狩って来るだけだぞ。貴方が喰える物を求めて彷徨うんだ。それでも構わないのか?』


「え……か、構うよ。じゃあ……えっと、君が食べなよって伝えてくれない?」


『言ってもやらんだろうな。此奴は貴方を上だと認めている。群れを成す魔獣にとって上下関係は絶対的なものだ』


「じゃあ僕どうすればいいの?」


『……一口食べて渡せばいい。それで満足したと思うか、この肉では駄目だったと思うか、それは此奴次第だがこの肉は此奴が喰うだろう』


一口も食べられないから言っているんだ。せめて食べかけなら断面を口に含むくらいは出来る、だがこの鹿は無傷だ。


「…………い、いただきます」


僕はアルの尾を掴んで、鹿の腹に顔をうずめる。体の下に隠した尾はオルトロスには見えていないはずだ。

アルは僕の意を汲んでくれた、黒蛇の尾は上手い具合に腹に穴を開けた。

そこから流れる血に目眩を覚えながら、僕は鹿の身体を押した。


「僕はもういいよ、あとは君が食べて」


オルトロスは嬉しそうに僕の顔に頬を擦り付け、それから鹿を食べ始めた。

目の前で形生き物のを保ったものを喰われるというのはやはり堪える。肉として切り分けられたものなら何ともないのだが。

魔物と付き合っていくならこんな場面は何度も見るだろう、これくらいで参ってどうする。そう自分を鼓舞しても、やはり赤は僕の心を蝕んでしまう。

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