第317話 双頭の獣
よく考えれば分かった事だ。
ヘルメスが今履いているのは黄金製の靴。地に触れる度に靴同士が擦れる度に、耳障りな金属音が響く。
感覚を研ぎ澄ませて不審者を探しているアポロンがそれを聞き逃すはずもない。
「……誰だ」
唯一の幸運はアポロンが僕達が誰かまだ分かっていない事。
顔を隠していて正解だった、少し話をしただけの人間の服装なんて覚えている訳がない。
「逃げるよ!」
ヘルメスは僕を抱え、強く地面を蹴る。その瞬間彼の身体は空へ舞い上がる。
「よし、やっぱりこの靴じゃないとね! 羽飾りだけじゃこんなに飛べないもんね!」
空を蹴って進む。これなら逃げ切れる。
抱えられたままの僕はアポロンの様子を伺う為、首を回して地上を眺めた。
アポロンは倉庫で見た金色の弓に矢を番えている。
「ヘルさん! 弓持ってる!」
「はぁ!? 嘘だろあんな一撃必殺撃つ気かよ! ちょっと花踏んで神具盗んだだけで殺しにかかってくるとかありえねぇ!」
十分な理由だと思う。花はともかく神具はこの国の礎とも言えるのだから。
アポロンは僕達を狙わず、空に向かって無数の矢を射る。僕には彼の狙いは分からず、ただ事実をヘルメスに伝えた。
「病矢……っ!? 曲刀で防ぎきれ……る訳ない! ヘル君、俺の下に隠れててよ!」
ヘルメスは僕を片手で抱え刀を振り回す……が、雨のように降る矢は防ぎ切れず、幾つもの矢が彼の体に突き刺さった。
ヘルメスはゆっくりと高度を下げ、塀の手前で地に落ちる。
僕を下敷きにしたまま、痛みに悶えた。
「ヘルさん! 大丈夫ですか、ヘルさん!」
「……離れろ」
「ヘルさん……?」
「俺から早く離れろ! にぃの弓には疫病の力がある、君にも伝染っちゃうんだよ!」
ヘルメスは僕を突き飛ばし、その直後咳をして血を吐いた。
「…………ヘルメスか。戻ってきたのか? お前だと分かっていたら、即死の方を使ってやったのにな」
「にぃ……ひっでぇなぁ、弟に向かって」
「数年だけの弟だろ。血の繋がりもない、戸籍ももう違う。お前は俺の弟じゃない、ただの不敬な盗っ人だ」
弟じゃない。
僕はその言葉を無視できなかった。いや、許せなかった。
だから僕は、再び矢を番えたアポロンの前に立った。
「お前は誰だ? その杖はヘルメスの物だったと覚えている。ヘルメスの知り合いか?」
「……後輩です」
僕は帽子を脱ぎ、キッと睨みつけた。
盗みに入ったのは僕達だ、僕達が悪いのなんて分かっている。捕える為に即死の矢を使わなかったのは彼の慈悲だ。
だが、そんなのは関係ない。弟じゃないなんて暴言、今必要な言葉ではなかった。
「…………ヘル君。そうか、さっきの……後輩、か。盗みの後輩か? やめておけ」
「バイトの後輩ですよ。それに持っていったのはヘルさんの物だけです。盗んだっていうのは間違いですよ。持っていき忘れた物を取りに来ただけですから」
「神具は私物ではない、国の財産だ。ヘルメスにはこの国に二度と立ち入るなと言ってある。不法入国者は君もなのか?」
「……違います」
「なら君はヘルメスに騙された事にしてやる、去れ」
「……断ります」
アポロンは下ろしていた弓に再び矢を番える
そして先程より低い声で、ゆっくりと「去れ」と言う。これが最後の警告、という事か。
「僕は……あなたみたいな無責任な兄が、嫌いだ。一度弟だって認めたなら、最期まで面倒見ろよ。勝手に拾って勝手に見捨てるなよ! 弟を何だと思ってるんだよ、あなた達の物じゃないんだよ!」
「……錯乱したか? 仕方ないな。安心しろ、この弓は痛みは与えない……優しく殺してやろう」
「訂正しろ、弟だって認めろよ! あとこの病気も治せ! そうしたら、僕はあなたに何もしない」
「何もしないだって? 脅しのつもりか? 何が出来る、その杖で殴るか? 無駄だ。私の方が速い」
僕は髪をかき上げ、右眼を晒す。不可思議な色の瞳にアポロンは一瞬興味を引かれたようだが、すぐに弓矢を構え直した。
「…………さっき、空を飛んだ時に見たんだ」
遠吠えが聞こえる。
アルではない、もっと大きな狼の声だ。
「……おいで。鎖なんかじゃ君を繋いでいられないんだから」
獰猛な息遣いと力強い足音が近づいてくる。双頭の狼が真っ直ぐアポロンを目掛けて走ってくる。
「オルトロス!? どうして……っ! アポロンの竪琴、この手に!」
美しく輝く竪琴が現れ、アポロンがその弦を弾くと、オルトロスと呼ばれた魔獣の動きが鈍る。
「ヘル……君、何してんの。早く、今のうちに逃げて。オルトロスが脱走したのはいいタイミングだったけど、にぃの竪琴で操られたらもっとやばい。俺のことは気にしなくていいから、早く逃げて」
「……操るんですか? あの竪琴」
「あぁそうだよ、音色を聞いたものを操って……って、だから早く逃げてってば! 君に怪我させたら俺がオオカミちゃんに怒られちゃうんだよ」
ここで僕が逃げたらヘルメスは無事では済まない。病気が死に至るものなのか、進行速度はどの程度か、それは分からないが後でアポロンに直接殺される可能性だって十分に高い。
今は絶対に逃げられない時だ。
「よし、よし……落ち着けよオルトロス。お前は向こうに戻ってなさい、ちゃんと自分の仕事を果たすんだ。お前は番犬だろう? ほら、いい子だから……」
「……ダメだよ。ほら、こっち向いて。僕の言うこと聞いてくれなきゃやだよ」
左側の頭はアポロンの演奏に聞き入り、示された方を向く。
だが、右側の頭は僕の方を向いてくれた。
「オ、オルトロス? おい、どうしたんだ。ちゃんと音を聞きなさい」
「…… 竪 琴 を 取 り 上 げ ろ !」
僕に応えるように一声鳴き、右側の頭がアポロンの腕に喰らいつく。
「ぐぁあっ!? クソ、離せっ!」
演奏を止めた事で左側の頭も僕の支配下になる。左の頭は竪琴に噛みつき、アポロンの手から奪い取った。
竪琴を僕に渡し、オルトロスは僕の手に頭を擦り付ける。
「ヘル君! 杖でにぃを殴って! 早く!」
噛み砕かれた手で矢を番えようとしていたアポロンの頭を杖で殴る……と、彼は呆気なくその場に倒れ込んだ。
「……なんとかなった、みたいだね。どうしてオルトロスが君に従ったのか知らないけど」
「ヘルさん、大丈夫ですか? 病気はどんな感じなんですか?」
「あー、平気、かな。今のところは。疫病って言ってもこれは昔流行ったやつみたいだから、病院行けばなんとかなるよ」
「なら、すぐに病院に運びます」
「近づいちゃダメだってば! ほら、離れて。これ結構キツイから……」
病院に行けば治せる病気なら、僕も罹患したところで問題はない。それよりもヘルメスを早く運ばなければならない。
僕はそう考えているのに、ヘルメスは僕を案じて僕を遠ざける。
あぁ……そうだ、僕が尊敬しているのは、こういうところだったんだ。
「……ならどうすれば…………わっ、ちょ、やめて。もう……オルトロスだっけ? 君はここの子なんだよね。ごめんね付き合わせて」
撫でろとでも言うようにぐりぐりと体を押し付けてくるオルトロスを見て、僕は一つ閃いた。
魔獣なら病気に罹患する事はないのではないか、と。
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