第305話 ゲーム終了

皮が剥がれて肉や骨が見えているのに談笑する人々。

店頭に並べられた、もはや人のものかも分からない死体。

地面は血と汚物にまみれていて、幾何学模様を描いているはずのタイルは見えない。


『ただいまー』


僕達を出迎えたのは僕の両親だった。

あの日僕の目の前で殺されたはずなのに、今目の前で笑っている。

……そうだ、これは現実ではない。忘れるな、間違えるな、これは現実ではない。


「……た、ただいま。父さん、母さん」


僕の記憶に笑顔の両親はない。笑った顔を遠くから見ていたことはあるけれど、向けられた覚えはない。

無能だと知られる前の幼い頃ならあるのかもしれないが、僕は知らない。


「おかえり」

「おかえりなさい」


両親は僕の頭を撫でて、上着を脱がした。

そのままダイニングに通されると、朝食以上に豪華な夕食が出迎えた。

そういえば、いつの間に夜になったのだろう。

公園に居た頃が正午だったと思うのだが──おかしいな、体感では数時間まえにたらふく食べたばかりなのに、腹が空いてきた。

この疑問もゲームだからと片付けていいのだろうか。


「ヘル、そのネックレスどうしたの?」


母が僕に問いかける。

父はライアーと話している。


「兄さんが買ってくれたんだ」


「あら、そう。よかったじゃない。大事にするのよ」


「……うん」


母は僕の頭を撫で、それから僕の分のステーキを切り分けた。

自分で出来ると言っても聞かなかった。

少し暇になった僕はライアーと父の会話に耳を澄ませた。


『…………ちゃったみたい』


「仕方ないな。ヘルは…………から」


『……の…………どうしようかな?』


「それは……ーに任せるよ」


小声で所々聞き取れない部分もあったけれど、きっとこうだ。

『変になっちゃったみたい』

「仕方ないな。ヘルは出来損ないだから」

『処理の仕方はどうしようかな?』

「それはライアーに任せるよ」

僕を殺す相談だ。僕は何故かそう確信した。


「……っ! ご、ごめん、僕トイレ」


僕はトイレに行くふりをして、音を立てずに玄関から外に逃げた。

街は血と汚物と焦げにまみれて、もう元の姿を失っていた。


あの日よりも酷い。

こんなの僕の理想の世界じゃない。


僕は商店街を走り抜けて、高級レストランの裏の路地に隠れた。

騒ぐ鼓動を鎮めるために、痛む肺に空気を与えるために、僕はその場に座り込む。

その時にゴミ箱にぶつかってしまって、レストランで捨てられたらしい生ゴミが路地に散乱する。

僕はその中に銀色の光を見つけ、手を伸ばす。


「…………ナイフ」


手に触れたのは鋭いナイフ。

どう見ても料理用ではない。

人を傷つけるための刃物だ。


「……持っていこ」


どうしてここにあるのかは分からないけれど、このナイフはこの状況での僕の理想なのかもしれない。

不具合だらけのゲームが正常に作動した唯一の証拠なのかもしれない。

武器が欲しいと願った覚えはないけれど、無意識下ではずっと願っていたのかもしれない。


『ヘルー? どこー? お兄ちゃんだよー、出ておいでー』


ライアーの間延びした声が遠くから聞こえる。

それは次第に近づいてきて、僕はさらに路地の奥へと逃げた。

無我夢中で逃げるうちに、僕は袋小路に迷い込んでしまった。

これなら表通りを逃げていた方がよかったのかもしれない。


『……ヘル! いた、よかったぁ。どこに行ったのかと心配してたんだよ』


「ひっ……いや、やだ、来ないで」


見つかった。

ライアーは両手を広げて僕に向かってくる。


『ヘル? どうしたの。お兄ちゃんだよ。ライアーお兄ちゃん、分からない?』


「来るなって言ってるだろ!? それ以上近寄るなぁ!」


『……やっぱり明日のおでかけは中止にした方がいいみたいだね、仕方ないや。ほら、おいで。おうちに帰ってゆっくり休もう』


ライアーは僕の手のナイフが怖くないのか、見えていないのか、躊躇うことなく向かってくる。

僕は怖くて怖くて仕方なくて、ナイフをめちゃくちゃに振り回した。


「来るな来るな来るな来るなぁ! 嫌だ、嫌だ! 助けてよアル!」


『ヘル!? ちょっと、危ない……っ! ったぁ……』


僕を捕まえようとした手から赤い液体が滴り落ちる。


『……痛いよ、ヘル。どうしたの? お兄ちゃんだよ……なにも怖くないから、おいで』


しゃがみ込んで、両手を広げて、ライアーは僕に迫る。

僕はライアーの腕にナイフを突き立てた。


『……っ、ボクが気に入らないの? やっぱりボクじゃダメなの?』


ライアーは苦痛に顔を歪めながらも、僕の手を掴んでナイフを引き抜きいた。


『…………ヘル』


「嫌……嫌だ嫌だ嫌だ、来るなぁ! やだ、助けて……にいさま、助けてよぉ! にいさまぁ!」


『ヘル、お兄ちゃんはここだよ。ボクがお兄ちゃんだ、そうだよね?』


僕はライアーの手を振り払い、彼の腹にナイフを突き立てた。

そのまま体当たりをするように彼を押し倒して、馬乗りになって腹や胸を何度も刺した。

何度も、何度も、動かなくなるまで。


『…………ボクじゃ、ダメ、かぁ』


「死んでよ、お願い……早く死んでよ!」


『ごめん、ね……ヘル……』


喋らなくなるまで、刺した。

辺りはライアーの血に染まって、僕も赤く染まっていて、目に入るもの全てが赤くて、それが恐ろしくて仕方なかった。

目を覆っているとブツと何かが切れる音が頭に響いて、また別の音声が流れ出す。


『──ゲーム終了』


あぁ、そうだ。これはゲームだった。

ライアーが兄だったのも、共に幸せな時間を過ごしたのも、彼を殺してしまったのも、全て現実ではなかった。


『音声を再生します』


僕が起きてからのライアーと僕の会話が再生される。

所々を切り取られ、早められ、両親の声も交じってくる。

その時は聞き取れなかった会話もハッキリと聞こえた。


『ヘル疲れちゃったみたい』

「仕方ないな。ヘルは体が弱いから」

『明日のおでかけどうしようかな?』

「それはライアーに任せるよ」


……僕を殺す相談、じゃない?

どうして? おでかけって何? だってあの後、ライアーは僕を殺しに来た。


『ヘル、お兄ちゃんだよ』

『おうちに帰ってゆっくり休もう』

『……なにも怖くないから、おいで』


……殺しに来た? 本当に?

違う。ライアーは家を飛び出した僕を心配して迎えに来ただけだ。


『…………ボクじゃ、だめ、かぁ』


ライアーは一度も僕に暴力を振るわなかった。

ナイフを振り回す僕に優しく語りかけてくれていた。


『ごめん、ね……ヘル……』


その声を最後に、またブツという音が頭に響いた。


『音声再生終了。お疲れ様でした。ゴーグルとヘッドホンを外してください』


無機質な声に指示されるままにゴーグルとヘッドホンを外す。

僕は椅子に座っていなかった。拘束されていたはずなのにどうしてだろう。

僕が自力で抜け出せる訳がない、となると誰かが拘束を外したということになる。

この部屋に入ってくる人なんて、僕にはライアーしか思いつかない。


「……ライアーさん?」


そのライアーは僕の下にいた。

僕はライアーの上に、腹のあたりに馬乗りになっていた。

僕の手には、ナイフが握られていた。

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