第290話 短気な帝王
ベルゼブブは突然現れた甘い味に目を見開き、それから頬を蕩けさせた。
「……えっと、ツヅラさんは神学校を卒業なされたのですよね」
「りょーちゃんは人一倍信仰心が強かったからねぇ」
「遠く離れた国の人ならざるものでも、神の教えは通じるのですね!」
「…………りょーちゃんはね、人だよ。人なんだよ、泳ぎが上手な……優しい子なんだ」
零の視線が微かに暗く、冷たく変わる。雪華は弱々しく謝罪をして、両手でマグカップを包んで落ち込んだ。
『信仰心が強い、ですか。物は言いようですねぇ』
ケーキを食べ終えたベルゼブブがまた話し出す。僕のケーキはもうない、彼女の口はもう塞げない。
『……何を信仰しているんでしょう』
「神様だよ」
『…………それは、誰にとっての?』
「神様は神様だよ」
「そうです! 神様は神様、ただ一人! 誰にとってとかそんなのありません!」
顔を上げた雪華は自分に酔ったように神とは何たるかを語り出す。零はそんな雪華を落ち着かせて、ベルゼブブを見つめて微笑んだ。
「りょーちゃんはいい子なんだ。とってもいい子、だから虐めないであげてね」
『……いい子、ねぇ』
「りょーちゃんは、なるようにしかならないんだ。だから放っておいてあげてよ」
部屋の温度が急激に下がる。それはベルゼブブへの威嚇だった。
ベルゼブブの考えは分からないが、ツヅラに何かしらの危害を加えようとしていたのだろう。少なくとも零はそう感じたらしい。
『……彼、何か力はあるんですか?』
「…………精神感応能力、生まれつきのテレパスだよ」
『それはそれは! 優秀ですねぇ、放っておけませんよ』
「まだ分からないのかなぁ、零はね、りょーちゃんに関わるなって言ってるんだよ!」
机を叩いて立ち上がり、零はベルゼブブを睨みつける。
「親友なんだ」
『…………はっ! よく言いますねぇ。アイツらにとって人間なんて、仲間を増やす道具ですよぉ?』
そう言って笑ったベルゼブブの下卑た声が止まる、横を見れば彼女の腹には巨大な氷柱が突き刺さっていた。
「へ、ヘル君! こっちに……」
リンに抱きかかえられ、ソファの後ろに押し込まれる。僕達は背もたれの横から顔を少し出して、様子を伺う。
「し、神父様!? 何をしてらっしゃるんですか。いくら悪魔とはいえ、そんな突然……」
雪華が零の腕を引っ張り、彼の野蛮な行動を責める。僕はいつの間にか横に来ていたアルを抱き締め、意味もなく小声で話した。
「な、何? これ……」
『友を馬鹿にされて怒った、と言ったところだ。どうするヘル、あの神父……ベルゼブブ様に殺されるぞ』
「そ、そんなのダメだよ。止めないと!」
立ち上がろうとした僕をリンが押さえつける。
「ダメだって! やばいよあの人!」
「恩人なんです! 僕を、庇ってくれて……」
零には数え切れないほどの恩がある。それを除外しても僕に優しい大人を死なせたくない。
『あぁー……痛い、痛いじゃないですかぁ。聖なる力は結構効くんですよ。しかも力の弱まる人界でこんな傷…………あぁ、もう……ダメですね、お腹空きました』
ベルゼブブは腹に刺さった氷柱を引き抜き、零に投げ返す。零の眼前で氷柱は霧と消える。
「下がってて、雪華」
「神父様! ダメです! この悪魔、かなり強いですよ……勝てません!」
「…………下がってて」
雪華は悔しそうに、悲しそうに引き下がる。
ベルゼブブはその様を見て嫌らしい笑みを浮かべた。
『弟子は生かしておいてほしい、とでも言いますかぁ?』
「バアルちゃんには死んでほしい、って言うかなぁ」
『貴方には無理ですけど……もし神父が私を殺せば神魔戦争が始まりますよぉ?』
「だからただの願望なんだよ」
ベルゼブブは翅と触角を現し、零に飛びかかる。
真っ直ぐに首を捉えたその爪は氷に阻まれ、零の姿は部屋を満たす細氷の中に紛れる。細氷は宝石のようにキラキラと輝き、目を眩ませる。
『これで目くらましのつもりですか』
「ベルゼブブ! やめろ、神父様は僕の恩人だって言っただろ!」
『うるさいんですよ、何様のつもりですか? 本当に私に命令出来ると思ってるんですか? 馬鹿にするのもいい加減にしてください』
「僕は……僕は契約者だ! だから、僕に従えよベルゼブブ!」
『あーあーあー鬱陶しい! 栄養価の高い餌だからって生意気言ってると殺しますよ!』
「…………やってみろよ!」
売り言葉に買い言葉、とはまさにこの事。止めるつもりが僕に標的を移動させただけ。
迫る爪に死を悟る。
『はぁ……もう、ホント、腹が立ちますね』
爪は僕の眼前で止まっていた。
ベルゼブブの足にアルとカルコスが噛みつき、クリューソスが光弾で腕を撃ち抜き彼女の爪を鈍らせた。
そして鈍った爪は僕を庇ったリンの腕を貫き、僕の眼前で止まった──と。
「ぎ、義肢でよかった……」
「…………リンさん」
「君の顔に傷でもついたら僕の心が死ぬからね!」
「……それを言わなかったら女装ぐらいいくらでもしたんですけどね」
「えっ……」
自身の発言を後悔して静止してしまったリンの腕の中を抜け出し、ベルゼブブの顔を口を塞ぐように掴んだ。
『偉っそうに……』
「……僕に従え」
『分かってるんですか? 今、一人だったら死んでましたよ? 一人でもいなかったら死んでましたよ?』
「君が僕に従ってくれたら、そんな心配は二度となくなるんだけど」
『あぁ……ホンット、腹が立つ。どうして同じこと言うんですか? 一万年前もそんなこと言って、結局勝手に死んじゃったじゃないですか。私を置いて、婚約者を置いて、死んじゃったじゃないですか』
ベルゼブブの頬にくい込んだ僕の爪が赤く彩られる。
『……そこの神父を殺す理由はムカついた以外にはありませんけど、ツヅラとやらは違いますよ。アレは殺さなければなりません』
自分の顔に傷がついたのにも気にせず、瞳だけで零を睨む。
冷気を収めた零は申し訳なさそうに僕を見つめた。
「……それはさせないよ」
『貴方達人間が一番危ないって分かってます?』
「りょーちゃんはいい子なんだ、だから……放っておいてあげてよ。何もしないから、何も出来ないんだから」
無茶に顔を捩るから、肌はどんどん裂けていく。僕は流石に罪悪感を覚えてベルゼブブの顔から手を離した。
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