第288話 未熟な神職者

再び視界が開けた時、僕は教会にいた。

僕は見覚えのある内装に安心感を手に入れる。

目の前には驚いたのか目を見開き、言葉を失っている雪華の姿があった。


『こんにちは、お久しぶりです……って言うほどでもないですね』


翅も触角も露わにして、ベルゼブブは悪魔らしい見た目のまま雪華に声をかける。

当然の事ながら雪華はベルゼブブを恐れ、ロザリオを震える手で握り締める。


「ご、ごめんね雪華。大丈夫だよ? 何もしないから……多分」


『多分? 信用ないんですね、私って』


ベルゼブブの愚痴とリン達がアルに「あれ誰?」と聞いている声が混じる、うるさい。


「黙っててよ。あの……雪華?」


雪華の視界を遮る為に顔を近づける。

震える瞳が僕を捉え、何度も瞬いた。


「ヘルさん……」


「落ち着いた?」


「……悪魔とも、仲良しなんですね」


「まぁ……それは、僕は魔物使いだし。雪華もセネカさんと会ったことあるでしょ? いい人なんだって、そんなに気にしないでよ」


「…………もう訳が分かりません、ヘルさんも、神父様も……私は、神に誓いを立てた身だというのに、何も分かりません」


「神父様? 神父様がどうしたの?」


「私達人間は! 唯一無二の我らが主を信じなければなりません! そうあるべきなのです! そうでなくては……私達は、救われません」


涙を流し、必死に訴える。

その様は悲痛で、ただそれだけで、僕には彼女の思考が理解出来なかった。


「……嘘は、いけません。隠し事も、いけません。なのに神父様は、私に……何も、教えてくれません。神父様は悪魔を見逃しました、天使に伝える事もありませんでした。どうして…………どうして? 教わったことと、ぜんぜんちがう……」


「雪華、あの……神父様はさ、僕を憐れんでくれただけなんだよ。悪魔に頼らなきゃならない僕を、助けてくれたんだよ。だから……」


妄想でしかない理由を真実のように話す。

僕が信じたい真実を雪華に押し付ける、僕の為だけに。


「……ヘルさんは、悪魔に頼らなければならないのですか? どうしても、そうでなくてはならないのですか?」


「え……あ、うん。そうじゃないとダメなんだ、僕は」


「そうですか……残念です」


雪華はロザリオをさらに強く握り締める、気温が急激に下がり始め、僕はアルに引っ張られて翼に包まれる。


「……神は魔獣はお認めになった、魔術師もお認めになった。ですが…………悪魔は、悪魔と契約した人間は許されません! 存在してはいけないのです! 前にヘルさんを見逃したのは、契約はしていなかったからです! ですが今は、もう……駄目です」


「見逃す、見逃さない、君にとって僕はそんな存在なんだね」


氷晶が雪華の姿を一瞬隠し、雪華の手の中に現れた氷柱に吸い込まれ、その体積を増していく。

まるで剣のように鋭く尖って、教会の灯火を反射してキラキラと輝く。


「以前、セレナさんに剣術を習いました。そのセレナさんとは仲違いしてしまいましたが……せっかく出来た友人は、みんな、神を憎む人ばかり……私には理解出来ない人ばかり…………ヘルさん、大丈夫ですよ、私が救って差し上げますから!」


『もう話していいですか? 未熟な狂信者さん、そのお粗末な剣を私のヘルシャフト様に向けると言うなら……私は貴方を全力で叩き潰します、よろしいのですね?』


『私もそのつもりだ』


「……魔物の言い分を聞くとでも?」


『そうですか、では……遠慮なく』


どうしてこうなってしまったのか、僕には分からない。

ベルゼブブは舌舐めずりをしていた、このままでは本当に雪華が殺されてしまう。

そんな未来は避けなければならない。

振るわれる氷の剣。大口を開けて待ち構えるベルゼブブを突き飛ばし、命令する。


「全員…… 動 く な ! 」


ベルゼブブは僕の命令通り、よろけた先で面倒臭そうな顔をして動きを止めた。僕の力なんてほとんど効いていないくせに。

アルとカルコスにはちゃんと効いているようで、僕に不満そうな目を向ける。

ベルゼブブを突き飛ばす為に伸ばした腕、切り裂かれた手のひらの傷は直ぐに凍りついて、血は流れなかった。


「ヘルさん、どうして……何で、悪魔に私を攻撃させなかったのですか? どうして、自分から……そんな、傷を負って」


『……ヘル、大丈夫か? 考えあっての行動なら私に止める権利は無い。だが傷を負うとなれば話は別だ』


『あんまり血を出さないで欲しいですねぇ、食欲がそそられてそそられて……私、我慢出来なくなっちゃいますよ?』


『同じく』


「とりあえず止血……あぁいや止まってるか。凍傷の手当も必要になる。えっと……」


冷やされ過ぎていて痛みはない、血も流れてはいない。裂けた皮膚とその下の筋肉組織が氷の中に見えるだけだ。

みんな僕を心配してくれている、だからまだ大丈夫、まだ頑張れる。


「……大したことないよ。ねぇ雪華、雪華も僕を殺したいの?」


「そんなことはっ……でも、ヘルさんは、悪魔と契約してしまっているから! 神に仕える者として、私は……ヘルさんを許すわけには……」


「僕ね、何度も何度も天使に殺されかけたんだ。悪魔と契約したからじゃない、魔物使いだからだよ。そんな僕にはどうしようもない理由で、死ななきゃならないらしいんだ。ねぇ雪華……僕に情けをくれないかな、僕は死んだって救われることはないんだからさ、せめて長生きさせてくれないかな」


死んで魂だけの状態になれば、僕はもう天使達のもの。生まれ変わることもなく永遠に天界に閉じ込められて過ごす。何も変わらなくなると言うならそれはそれで幸福なのかもしれないが、僕は人界でもっと幸せになりたい。


「私だって、ヘルさんには生きていてほしいです。ですが悪魔と契約した人を放置することは出来ません。ですから……悪魔との契約を解消して、また前のようにここで……私と修行をするのなら、私はヘルさんに情けをかけることが出来ます」


前のように、か。

アルが死んで、独りになって、ボロボロになった僕は確かにここでは救われていた。

今まで生きてきた中で最も落ち着いた日々だった。

絶頂とはとても言えないけれど、程々の幸せはあった。

あの時もグリモワールを持っていたが、雪華は気が付かなかったんだな。結局、バレるかバレないかなんだ。


『何を言うかと思えば……所詮は貴方も人間の女、ってことですか。くだらない。神がどうこうと意味の無い言葉を並べて、つまり惚れた男の全てを奪って自分の手元に置きたいだけなんでしょう』


「ち、違いますよ! 私は貞潔を誓った身、ほ、惚れるなんて……有り得ません! 穢らわしい!」


「…………穢らわしいは傷つくんだけど」


「そうだよ! ヘル君は理想のしょっ……とにかく! 純真無垢なんだよ!」


「すいませんリンさんは黙っててくれませんか」


援護射撃はありがたいが、誤射は要らない。

リンが話すと話が進まなくなる、礼儀なんて気にせずに睨みつけた。


「違いますよ、ヘルさんが穢らわしいということではなく……その、悪魔の淫らな考えが穢らわしいと!」


『惚れたとは言いましたが肉欲に走れとは言ってませんよぉ? なのにそういうこと言っちゃうってことは……そういうこと考えてるからですよねぇ』


「なっ……こ、この穢らわしい悪魔ぁ! もう絶対に許しません、私がこの手で裁いて差し上げます!」


さらに大きく、純度を増した氷の剣がベルゼブブに向かって振るわれる──が、剣はベルゼブブに触れる前に溶け、寒さも消え失せる。

だが代わりに教会の奥から強い冷気が漏れ出す、あまりの寒さに僕はアルに抱きついた。


「……無闇に力を振るってはならない、と教えたはずだよ、雪華」


「し、神父様! 悪魔が入り込んだのです! これは正しい力の振るい方でしょう!」


「…………ダメと言ったらダメ、こっちにおいで、雪華」


「説明してください。私に分かるように、神父様の考えも、隠し事も、全て話してください! でなければ私は、もう神父様を信じられません……」


「零を信じる必要なんてないよぉ、神様を信じてさえいれば……零のことはどう思ってくれていたっていい」


こつ、こつ、と零のブーツの音が教会に響く。

黙りこくった雪華の震える肩に触れて、零は優しく微笑んだ。


「悪いけれど……人間に化けてもらえるかな、バアルちゃん」


『…………あっ、私ですか? はいはい、分かりました』


バアルが過去に名乗った自分の偽名だと思い出し、ベルゼブブは姿を変える。

翅と触角を消し、瞳も人間のそれに変わる。

零はベルゼブブが完全に人間に化けたことを確認すると、僕達を奥の部屋に招いた。

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