第273話 判明
海沿いの道を歩くと潮の匂いに鼻腔をくすぐられる。
生命を感じるこの匂いは、少し苦手だ。自分の矮小さを知らしめられているようだから。
堤防の向こうの雄大な海が視界の端にあれば尚更。
「ちょっと見に行って、まだみたいやったら零の教会にでも泊まれよ。この国の宿高いから」
「りょーちゃんも泊まればいいのにぃ、空き部屋はいっぱいあるからさぁ」
「嫌や、山の上なんか。海が遠すぎる」
ツヅラはどうしてそうも海に拘るのだろうか、眠れない夜に魚と会話しているとか──いや、多分違うな。
「……離してっ!」
聞き覚えのある少女の声、僕が方角を探っている間にも零は走り出した。
「雪華! 雪華に……何をしているのかなぁ」
追いついた先にいたのは雪華と……雪華を取り囲む、赤い顔の男数人。
酔っているのだろう、ふらふらとよろめいてはヘラヘラと笑っている。
「あー……? 神父ぅ?」
「何もしてませんよー、ちょこっと声掛けただけでぇ」
「そーそ、かわい子ちゃんに酌してもらったら酒も美味くなるって」
「私はお使い中なんです! 嫌だって言ったら下がりなさい!」
『誘い方がなってないですねぇ。強引なのは好い人でなくては気持ち悪いだけですよ』
僕達を見て注意が逸れたのだろう、雪華は男の腕を振り払い、零の背に隠れた。
「……あぁ? 気持ち悪いだぁ? 言ってくれるな嬢ちゃん」
「余計なこと言わないでよベルゼ……っと、バアル!」
『海の男って感じですね、貿易船の乗組員ですかぁ? 潮風にさらされてる人って塩味がきいてて美味しかったりするんですよねぇ、肉が硬いので好みじゃありませんけどぉ』
淡々と人間の味を語られるのにはまだ慣れない、慣れたくもない。
酔ってはいても男達にも気味悪く聞こえたのだろう、僅かにたじろいだ。
だが、彼らにも面子というくだらないものがある。
男の一人が堤防の上に放置されていたバケツを手に取り、中身を僕達に向かってぶちまけた。
バケツは釣り人のものだったようで、狭いバケツの中に閉じ込められた数匹の小魚が腐って強烈な匂いを発していた。
「はっ……はは、ざまぁみろ!」
『……食べます』
「だ、ダメ! 落ち着いて!」
『ベルゼブブ様、堪えて!』
「気持ちは分かる、分かるが待て!」
三人がかりでベルゼブブを抑える、前に出ていたせいでベルゼブブと零、ツヅラは特に多く水を被った。
「……ぅ、あ……ぁ…………っ!?」
「りょーちゃん! このっ……」
突然苦しみだしたツヅラに祭服を被せ、零は小さな氷柱を男達に飛ばす。
「冷てっ……くそ! 覚えてろ!」
水をかけた直後に逃げるつもりだったのが、ツヅラが気になって立ち止まっていたのだろう。
男達は氷柱を顔に当てられ予定通りに逃げ出した。
「神父様、無闇に力を使ってはいけないと言っていたではありませんか……」
「今のは無闇じゃないの」
零の白いシャツに月光が反射する。
「あの……ツヅラさん、大丈夫ですか?」
落ち着いてはいるものの、まだ呼吸は荒い。
蹲って零の祭服を頭から被っているため様子は全く分からないが、体調が悪いということだけは分かる。
「あー……うん、大丈夫。ごめんね、先に帰っててくれる?」
「え……どうして」
「雪華、ヘルシャフト君達を教会に案内してあげて、まだよく場所分からないだろうから」
「……断ります。神父様のご友人の体調が優れないというのに、この場を離れるなんて出来ません」
僕も雪華に同意する。ウェナトリアとアルも同意見だ。
ベルゼブブ? ベルゼブブは……あまり興味がなさそうだ、分かっていたことだけれど。
「水を被って……もしや、心臓病でしょうか。なら然るべき所に連れて行かなければ」
「んー……その、病気とかじゃないんだぁ。体質で……すぐに治るから」
歯切れが悪い。僕がそう不審に思った時、隠すように被せられた服の隙間から手が伸びる。
ツヅラのものであろうその腕は零のシャツを掴んだ。
月光に照らされたその腕は──まばらに鱗が生えたものだった。
「りょーちゃん、見えちゃうよ」
零はその手を優しく握り、服の中に隠す。
荒い呼吸を押して、ツヅラは祝詞のようなものを唱えた。
「……我が主よ、正しき位置は未だ遠く。我が主よ、讃える信者は未だ少なく。我が主よ、貴方に尽くすためこの体は偽りに」
ひた、と骨ばった手が地面に落ちる。
指の間に見えた水かきのようなものは、幻だったかのように消えてしまった。
ゆっくりと起き上がったツヅラに変わったところはなく、以前と同じく不健康そうな青白い顔をしていた。
「大丈夫? りょーちゃん」
「……ああ」
「本当に大丈夫ですか? かなり……その、苦しそうでしたよ」
「……平気」
ツヅラは堤防によじ登ると海を眺める、その視線を追うと、魚が跳ねた。
跳ねる魚は次第に増え、こちらに近づいてくる。
堤防のほど近くで一際大きな魚が跳ね、水飛沫が僕達にかかった。
「科学の国、やって」
「……科学?」
「植物の国から出た船は一隻、その船は科学の国に向かった。というか到着した」
「本当ですか!? 科学の国……アル!」
アルに跨るとアルはすぐに翼を広げ、羽ばたき始めた。
ベルゼブブも翅を現し、ウェナトリアはベルゼブブの背にしがみついた。
「すいません、急ぎますので……また来ます! その時にお礼しますから!」
「えっ? えっ? あっ……い、いってらしゃい!」
「ばいばぁーい」
雪華と零に手を振られたが、アルに掴まっていて手を離せなかった。
その代わりにまた今度と叫び、僕達は牢獄の国を後にする。
太陽を追うように科学の国に向かった。
ヘル達が去った後、雪華は呆然と立ち尽くしていた。
何も事情が分からないまま、再会を喜ぶ暇もないまま、また別れた。
「……何があったのですか?」
「んー、話すと長いなぁ。短くすると船を探してて、それが見つかったから行ったんだよ」
「帰ってから長いの聞かせてくださいね。あ、竜一さん。念の為に体の様子を見ておきたいので、教会にいらしてください」
堤防の上に座ったままのツヅラに声をかけるが、返事はない。
「……零、俺もう行くよ。そろそろ帰んないと」
「そっかぁ、また来てねぇ」
「えっ? ま、待ってください! そんな……体調が優れないというのに、船も飛行機も乗せられません!」
雪華の言葉に笑いを返し、ツヅラは堤防の上に立つ。
月の逆光で雪華には彼の顔が見えなかった。
ツヅラはそのまま後ろに倒れ……とぽんと小さく音を立て、海に沈んだ。
「りょ、竜一さん!? ああ、どうしましょう。神父様、早く引き上げないと!」
「んー……りょーちゃん帰っただけだよ。えっと……雪華には話してなかったね。りょーちゃん秘密にしてって頼まれてたからぁ。りょーちゃんはねぇ、とっても泳げる人から大丈夫だよぉ」
零の要領を得ない説明では雪華は納得しない。
海を指差す雪華を引きずり、零は山の上に帰る。
ツヅラも同じように自らの住む場所へ帰るのだろう。
それが本来の場所ではないとしても、今は、今だけはそこに。
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