第232話 殺意の塊
メルに駆け寄り名前を呼ぶ──が、反応はない。
ローブにかけられた魔法を思い出してフードを脱ぐと、メルは目を見開いて驚いた。
『だーりん! もう、いきなり出てこないで!』
「ご、ごめんごめん。声かけたんだけど」
『聞こえなかったわよ、そのローブ本当に凄いのね、お兄さんは?』
驚かした事に怒ったのは一瞬で、その後には笑顔に戻る。
変わらない明るい笑顔と甘ったるい声に癒される。
「そこに寝てるけど」
『いつの間に……もう、帰ってきたなら声かけて』
「かけたじゃないか」
『それで、戻ってきたってことは解決できたのよね?』
「あ……いや、それが」
逃げてきた、そう言おうした瞬間けたたましい鳴き声が部屋中に響き渡る。
鈴の音のような、高く、可愛らしく、気持ちの悪いその声はベッドの上から──兄だったものから発せられていた。
兄は僕の身代わりに魔物になった、初めて見た時は淡く虹色に輝く神獣のように美しくドラゴンのように威厳のある姿をしたモノだった。
兄が成り果てた魔物の特性はスライムに近く、自由に姿を変えられると知ったのはいつだったか。
透けるような虹色の輝きが失われて、乾留液のように黒い液体になっている時は理性を失っている時だと気がついたのはいつだったか。
『な……に、アレ』
ベッドの上で体積を増していく粘着質な液体、無数の眼が開き、牙の生えた口が幾つも現れた。
腹が減って知性と理性を捨てて、獲物を見つけるために大量の目を生やし、たくさん食べるために口を増やした。
兄が今求めている物。それは至極単純、僕の肉。理解はできても協力はできない。
「メルちゃん! 僕逃げるから後よろしく!」
『はぁ!? 待ってよだーりん!』
「大丈夫! にいさまは人間以外食べないから!」
『大丈夫じゃないわよぉ!』
扉に向かって走る、全力で足を動かしたのはいつぶりだろう。
僕の運動能力は著しく低い、それを忘れていたわけではない。
命の危機にそんなことを考えていられなかっただけだ。
焦ってしまったのか元々の運動能力からか、僕は自分の足に足を引っ掛けてすっ転んだ。
『…………魔物使い』
僕の眼前に迫った液体は、聞き覚えのない女の声を発した。
『殺す、魔物使い、殺す、復讐する、必ず』
見覚えのない女の顔が浮かび上がる。
『私の何千何万倍も苦しめて苦しめて……殺す』
その女は確かに僕に殺意を向けていた。
「……だ、れ? にいさま?」
『殺す、殺す、殺す』
うわ言のようにそれだけを繰り返す、そこに殺意以外は存在しない。
目の前のコレは食欲で理性を失った兄ではない、僕を殺す為だけに動く化物だ。
『な、何かよく分かんないけど、逃げた方が良さそう! だーりん!』
メルは僕を引っ張り起こし、窓を叩く。
水飴で作られた窓は粘り気を発揮して割れたあとも形を保っていた。
『行くよ!』
それでもメルは窓に飛び込む、僕の腕を掴んだまま。
「わ、ぁ、ぁああ!? 落ちる! 落ちてる!」
その落下は突然止まる、上を見れば真っ赤な翼が目に入った。
得意気な顔のメルも。
『んふふー、ワタシ飛べるのよ? 知らなかった?』
「……腕、痛いんだけど」
『何よー、素直にすごいって言えばいいのに。ほら、だーりんの大好きな地面』
「あぁ地面だ、僕地面大好き」
『冗談よ? だーりんも冗談よね? だーりんの大好きはワタシのものよ?』
座り込んで短い草に手を這わせる、別に地面は好きではないが、水中や空中に比べれば余程いい。
水中と空中に比べるべきなのは地中なのか? 嫌だ、僕は地上がいい。
草の匂いを嗅ぎながら、現実逃避に似た思考を広げた。
「地に足をつけたい、落ちたり浮いたり埋まったり溺れたりしたくない……」
『正気に戻ってよだーりん』
呆れた顔のメルが僕を見下ろす。表情豊かなメルは見ていて楽しいから、ついついふざけてしまう。
「僕はいつでも正気全開……草の匂い久しぶり」
『正気全開なんて言う人は正気じゃないわ。それに草の匂いなんてするわけないでしょ? それお菓子よ、草は多分ガムね』
「…………草、だよ?」
『そんなわけないじゃない、お菓子の国なんだから』
手近な草を一本引き抜くと、土を着た根っこがゆらゆらと揺れた。
手触りも、匂いも、何もかも、どこからどう見ても草だ。
ガムのような触り心地ではない。草味なんてとんでもないものだったとしても、ガムと草では触り心地が全く違う。
メルに手渡すと、メルは信じられないと声を上げた。
『嘘よ! 裏庭に生えていたのはミント味のガムよ!』
「僕はガム生える方が信じられないけどね」
『お菓子の国なんだからだーりんの常識は捨てて!』
「でも常識帰ってきてるよ、歓迎してあげてよ」
この国に訪れて二度目だが、この国の常識はきっと一年住んでも慣れないだろう。
『だーりんやっぱりちょっとおかしい……本当に草、よね。おかしいわ、お菓子の国にお菓子以外のものなんて、人間以外にないはずなのに』
「僕ちょっと寝るね、帰ってきた常識が添い寝してくれるって」
『外で寝転ばないで!』
体を横にして地面をよく観察する、お菓子の国には存在しないはずの"普通"の草に、チョコでもクッキーでもビスケットでもない"普通"の土、それ以外何も見つけられない。
『呪が解けちゃったの? 何で……ま、まさか、ベルゼブブ様を倒したの?』
「倒してない、逃げてきた」
『そうよね、人間にベルゼブブ様が倒されるはずがないわ。説得したわけでもないわよね? なら……』
メルが思考の海に落ちていく、僕は変わらず地面に横になっている。
ごろんと転がって、上を見た。
割れた窓から溢れ出る黒い液体を見た。
『だーりん? 何でいきなり走り出して……きゃぁあ!? 何!? 何!? 気持ち悪っ……待って! だーりん待ってぇ!』
城から少しでも離れようと走るが、堀に阻まれる。
裏手なのだから当然だ、裏門なんてものは見当たらない。
「め、メル! 僕を抱えて飛んで!」
『分かった!』
僕を追ってきたメルの首に腕を回し、必死に抱きつく。
その時の不幸は後ろを向いていたこと、僕は無数の眼と目が合った。
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