第183話 陰鬱な雨の日
この村に来て二日目の朝、どんよりと曇った空のせいで朝とは思えない暗さだ。
「……雨降りそうだな」
「ここから麓まで、危なくなったりしますか?」
「俺なら余裕だけど、お前なら危ないな」
「えー……どうしよう」
流石に「もう一晩泊めてくれ」だなんて厚かましいことは言えない。
アルが一緒ならぬかるんだ山道も問題ではないだろう、そう思って僕はハートの家を出て、裏手に居るはずのアルを探した。
「……何で戻ってきたの。」
心底嫌そうに眉を顰めるハート、遥か頭上から降る視線に僕は吃りながらも理由を伝えた。
「その、アルが居なくて」
「あぁ、あの化物」
「どうしよう。なんで、近くに居るって、言ってたのに」
「置いてかれたんじゃないの」
ハートの言葉に心の奥底の微かな疑いを掘り起こされる。
アルが僕を捨てるなんてありえない、死ぬまで一緒だと約束した。
だが、アルが僕に執着する理由はもうない。僕はもう魔物使いではないのだから。
一度解消したはずの不安が溢れて、涙となって目から零れた。
「え、ちょ、泣かなくても……悪かったよ。さっきの嘘、多分その辺に居るよ」
「居なかった、どこにも、居なかった。近くに居るって言ってたのに」
そう言ってしゃくり上げる僕を、ハートはどう扱っていいか分からない様子で部屋を歩き回った。
「あー、ほらほら、レタス……要らないよな。クッション……あ、要る? あとは……本読む?」
半ば強制的にソファに座らせて、僕の頭ほどの大きさのクッションを抱かせた。
ハートは困惑した顔で僕の様子を伺っている。
「……落ち着いた?」
「ごめんなさい、取り乱し……ちゃって」
「はぁ……疲れた。これだから子供嫌いなんだよ。泣くタイミングが意味不明過ぎ。ホント嫌い」
ハートが嫌う子供の年は僕より幼いものだろうし、僕がいつどう泣くかも年とは関係ない。
口に出す気になれない反論をしまい込んで、渡されたクッションに顔を埋めた。
涙で濡らしてしまうな、なんて思いながら。
一晩待ってもアルは帰ってこなかった。
「…………お前、家どこなの?」
「家なんてありません」
「……あ、そ」
昨晩からの土砂降りの雨で、窓から見える景色はつまらない。
聞こえてくる音も単調でいて鬱々としている。
何もかもどうでもよくなってくるような、ずっと眠っていたくなるような、そんな日だった。
「手伝いするなら置いてやってもいいけど」
「手伝い……って、何ですか?」
「畑の世話。この村では家に畑がついてくるから、俺の家大きいから畑も大きくて面倒なんだよ」
畑が見えるはずの窓を覗く、だが何も見えない。
灰色に塗りつぶされた世界と水滴。
「この村には貨幣がないんだよ。ひたすら野菜育てて、自分が作った以外の物が食いたかったら物々交換ってな。それでなんとかなるとか流石神に愛された種族って言うだけはあるよな。でもこんな雨が続いちゃどっちの村もキツくなるだろうな」
僕の沈んだ気持ちを慰めようとしているのか、それともただの暇つぶしの独り言なのか、それは分からない。
ハートはただ淡々と語っていた。
「食料がなくなったら……向こうの奴らはこっち来るかもな」
杞憂とも言い切れない不安感。
「そうなったら……勝てる訳ないよな、俺達は戦闘向きじゃないし、結束力も向こうが上だ」
この村の住民の陰鬱な性質は何日も滞在しなくとも分かる。
「…………結界、強化しておくか」
ハートは壁の模様を描き足していく、植物をモチーフとしたような奇妙な模様は蠢いているようにも見える。
……蔦植物だと思っていたのだが、タコやイカの足にも見えてきた、少し、気持ち悪い。
数時間、雨音だけが聞こえていた。
ハートが走らせる筆に音はなく、また僕達の間に言葉はなかった。
人間の活力を奪うようなこの雨の中、僕は静かに微睡んでいた。
迷いなく動く筆を見ているうちに眠くなってしまっていたのだ。
何も遠慮することもなく、僕はゆっくりと寝息を立て始め────
「うわあぁあああああああぁああああ!」
僕の眠気は悲鳴に掻き消された。
土砂降りの雨音に勝った断末魔の叫び声。
それは僕を怯えさせるのには十分過ぎたし、僕が安心出来る要素はただの一つも存在しなかった。
「何、今の。聞こえたよね?」
「は……い、聞こえました」
「今の声は……多分、ハルかな」
模様を描く手を止めず、ハートは耳をピクピクと動かした。
ソファの上で蹲っていた僕は自分でも気がつかないうちにハートの横に移動し、そこでしゃがみ込んでいた。
「何? 邪魔なんだけど、あと気持ち悪い」
「……すいません、その、怖くて」
「結界張ってあるから大丈夫だよ、何かがいてもここには入ってこれないから。今強化してるし」
ここには入ってこれない。
ハートは知人の叫び声にも心を動かすことなく、自分の身だけを案じている。
その事実が僕には最も恐ろしく感じられた。
だがそれと同時に「ここに来ない」のならいいや、なんて考えている僕が何よりも嫌いだ。
「あの、見に行ったりしないんですか?」
少しでも自分を好きになるために。
ハートが「じゃあ見に行こう」と言わないように祈りながら尋ねた。
そんな祈りをしている時点で僕が僕を好きになれる訳もないのに。
「何でそんなことしなきゃならないの?」
「さっきの悲鳴が、知り合いならそうするかなって」
「こんな狭い村、顔と名前を知らない人なんていないよ。ハルとは大して仲良くない。それに何があったかも分からないのに行くわけないだろ。苦手な虫が出たとかかもしれないし、雨降ってるのに外に出て転んだとかかもしれない」
そう言いつつハートは模様を描く手を早めた。
それは先程の叫び声がくだらない理由によるものではないと思っている証拠だ。
「……何もいない、何もいない。わざわざこんな雨の日に来るわけない」
誰に言うでもなく独り言ちる。
その瞳には明らかな恐怖が伺えた。
「ハートさん」
「何?」
「何か聞こえませんか、鈴……みたいな音」
「……獣人の聴力舐めるなよ、ずっと前から聞こえてる」
どこかで聞いたことのあるような音だった。
美しい鈴の音、少しずつ大きくなる鈴の音、無機質で不気味な鈴の音。
突如、それが止む。と同時にまた悲鳴が聞こえた。
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