第87話 各々の日常


書物の国、国立大図書館。

足音が響かぬようにと上等な絨毯が敷かれ、利用者は私語にうつつを抜かさず、紙のすれる心地良い音だけが耳に届く。

ゆったりと時間が流れるこの空間に、似つかわしくないモノが一つ。


『それでね……って、ねぇ聞いてる? 聞いてないよね?』


黒いスーツを着た美しい女が司書に話しかけていた、だが司書は相手にせず仕事を続けている。


『ねぇアーちゃん、聞いてよ』


『……図書館では静かにしてください』


『固い事言わないでよ、どれだけ騒いだってだーれも文句言わないよ』


『話なら家で聞きます、葡萄酒と牛肉があればの話ですが』


『ほら、僕この間ヘルシャフト君に呼び出されたろ? あの時の仕事で失敗しちゃって』


司書の要求など聞こえていないかのように女は話を進めた。

図書館の利用者達は女を一瞥もせず、ただ手の中の本に視線を落としていた。

集中していて聞こえていないのだ、どれだけ騒ごうと利用者は反応しない、それは女の言う通りだ。

図書館で騒いでいい理由にはならないが。


『ルシフェル相手に……ってのも無茶だけどさ、もっと早くに逃げてれば良かったかなーって、アルギュロスは死んじゃったし……ヘルシャフト君は一応無事みたいだけどさ。

グリモワールも結局僕が回収したしね、また渡したいけど顔合わせにくいってのもあるんだよ。どうしようかなぁ、アーちゃんはどうすればいいと思う?』


『そうですね、まずは静かにすればいいと思います』


『グリモワール持ってないと位置も分からないからなぁ、探すの大変だけど探すしかないよね、折角の契約者なんだから』


『先の戦いで聴覚に異常が発生したようですね、早めの治療をお勧めします』


『それ抜きにしてもヘルシャフト君は良い子だし、出来れば側に置いときたいんだよね、美味しいし』


聞く耳を持たない女に呆れながら、司書は作業に戻る。

古くなった本の修理だとか、新しく仕入れる本の一覧制作だとか、そんなデスクワークだ。


『まぁしばらく休業するよ、思ったよりもダメージ大きくって、さ』


女は袖を捲り上げて激しい裂傷の痕を司書に見せる……いや、司書は見ていない、女が一人で勝手に袖を捲っただけだ。


『とりあえず今日は帰るね、また話聞いてよ』


『仕事中でなければ喜んで』


出口に向かう女を見もせずに、冷たい声を返した。

だが司書は今日、女の家を訪ねるために仕事を早く切り上げると決めていた。

書類整理をしながら手土産を考える司書の顔には、微かな笑みが浮かんでいた。






・天界にて


天界──と言っても神の御前なんて大層な場所ではない。

地上に降りていた天使達が天界に報告に上がった際、一時的に待たされる広場。

広場にもいくつか種類はあるが、ここは小さな噴水と粗末なベンチだけの簡素なものだった。


『さて、これから報告に上がるのだが……まずまとめが必要だ。全員がバラバラに秩序なく話す訳にはいかないからな』


薄紫の髪を整えつつ、噴水の周りを回るカマエル。

ベンチに座っているのは皆、堕天使との交戦に参加した者だ。


『封印が解けた理由は未だ不明、調査隊も苦戦しているらしい。

で、私達が報告すべきなのは主にルシフェルによる被害だな。反省点や改善点も求められるかもしれない、考えておくように。』


頭の中で何度もシュミレーションし、完璧に仕上げる。

ふとカマエルが視線を下ろし、集まった天使の数を数えた。


『ん……? 足りないな。えぇと……ゼルクか? おい、ゼルクは何処だ』


見渡しながらカマエルはある天使の前で止まる。

ゼルクの相方のような存在、娯楽の国担当、蔑称金の亡者…ラビエルだ。


『ゼルクなら強制労働所に行かせたわよ?』


『………は? 強制……何だって?』


『彼、すぐにスロットに行っちゃうから出られない所で働かせれば良いかなぁって』


柔らかい笑みを浮かべながら、当然のごとく言い放つ。


『ふざけるな! 報告があると言っただろう!? 何故そんな真似を……ああもう! 貴様らは本当に……すぐに連れて来い!』


『年季が明けるまでは地下から出られないわ?』


『なんだと!? 貴様は同僚を何だとおもってるんだ!』


『お金返さない同僚なんてゴミ以下よ? それと、たったの十年で騒がないで欲しいわ』


『十年……はぁ、もういい』


話にならないとカマエルは深く息を吐いて向かい側のベンチに座る。

顔を上げると噴水が──凍っていた。


『おい、シャルギエル。もう少し抑えろ、これから報告に上がると言っているだろう』


カマエルから左側のベンチに腰掛けた夏服の少女、いや天使。

彼女は薄氷の如く冷たい目をカマエルに向けた。


『これ以上は不可能』


『できるできないの話じゃない、やれと言っているんだ』


『無理。』


説教が始まると予想したシャルギエルは、カマエルから逃げるように顔を背けた。

体勢を変えて右手をベンチについた途端、温かみのある木製のベンチは冷たい氷の中に閉じ込められる。


『……あ』


『何度言ったら加減を覚えるんだ貴様は!』


怒りを顕にして、わざとらしくも大きな足音を立てながらシャルギエルに迫る。


『レリエル、帰ろう』


『了解。報告は一人で十分』


『それもそうねぇ、わたしも帰るわ。じゃあカマエル、後よろしく〜』


静かに機を待っていたレリエルは、二人の手を引いて闇の中に紛れて消える。

行き場のない指先が氷像と化したベンチに触れ、カマエルは再び深く息を吐いた。


『……なぁオファニエル、貴様は帰らないだろうな』


『いや、加護受者も心配だし、月永石の加工もしたい。一人でいいなら私は帰らせてもらうよ』


小さく手を振って去っていくオファニエルを追うこともせずに、カマエルはただ噴水の前に佇んでいた。

薄く張られた氷の膜に亀裂が入り、再び水は流れ出す。

それと同時に名も無き陶器製の天使がカマエルを呼んだ。


『……ああ、今行く』


重い足取りで歩を進める、重厚な扉をいくつも抜けて天界の中心部へと。

飛び抜けて大きく厚く重い扉……の手前、横道にそれて奥まった部屋を訪ねる。


『失礼する、ルシフェルについての報告をしに来たのだが……』


一般的な天使よりも大きな翼を揺らして、部屋の主は振り返った。

社交的な笑顔でカマエルを出迎えるのは子供のような見た目の天使。


『おつかれさま、カマエル』


『あ、ああ。それで……報告、なのだが』


『あ、うん。なに?』


『………ルシフェルについてだ。封印が解けた理由は調査中で、再封印は成功した。

次に被害報告だ。滅びた国は一つで被害は少なかったと言える。オファニエルの加護受者が重傷を負ったが、回復してきているそうだ。

今後は……えぇと、そうだな、見張りが必要だと思うが……ああ、私の個人的な意見だぞ』


『うんうん、それで?』


明るい色の髪を揺らし、楽しそうに報告を聞いている。

カマエルはやりにくいなと思いながらもそれを表に出さないよう努めた。


『それで……と言われても、もう何も無い』


『ほんとうにそれだけ?』


『…………え? こ、これだけ……だ』


にっこりと可愛らしい笑顔を貼り付けたままの質問は、カマエルに大きな圧力をかけた。


『たたかったのは、天使と加護受者だけ?』


『い、いや、人間と……魔獣、悪魔も居た』


カマエルは人と魔物の存在は報告する必要なしと判断していた。

言い終わった瞬間、カマエルの体はくの字に曲がって吹っ飛んだ。

花瓶やら時計やらが落ち、本棚が倒れる。


『ほうこくはせいかくに、ね?』


優しく笑って、剣を収めた。

天使の腕の倍はある剣……アレの腹で殴られたらしい。

カマエルは折れた腕を修復し、立ち上がる。


『……あ、ああ、悪い』


『ほかにはない?』


『無い……と思う』


聞かれると不安になってくる、カマエルは視線から逃れるために俯いた。

長い沈黙が続く、カマエルは必死に戦いを思い出していた。


『そっか、わかった。ありがとねカマエル』


『………はっ、あ、ああ。失礼する』


『あ、まって、ききたいことあるんだ』


『な、何だ?』


扉に向かったカマエルは甘ったるい声に止められる。


『その人間、叛逆するかのうせいは?』


『………え? いや、分からない。無いと思うが』


『ぜんかいの魔物使いは叛逆した、魔物をすべて魔王となった』


『そう……だったな。まぁ平気だと思うぞ? あの子は』


『めは、どうするのがただしいのかな』


『芽は……摘む? いや、だが……まだあの子は何もしていない』


人間を庇う気などないのだが、協力的な人間なら話は別だ。

ましてや魔物使い、彼をこちらに引き入れ悪魔を統治することが出来れば神魔戦争の心配はなくなる。


『ルシフェルのときもそうだったけど、きみたちってあまいよね。ぼくはずうっといっていたよ? ルシフェルのしそうはあぶないって』


『………彼の思想はまだ分からない、神への信仰心だってあるかもしれない』


『悪魔とけいやくするようなやつに、しんこうしんがあるの?』


カマエルは言葉に詰まる、だがあの少年が神にとって害となるとは思えないのだ。

それは長年神の敵対者を排除してきたカマエルだけの勘だった。


『ルシフェルがいちばんさいしょにこうげきしたのはだれかしってる?』


『……いや、知らない』


人間界に降りていることの多いカマエルは、ルシフェルが堕天した瞬間も封印された瞬間も見ていない。

神が即座に封印したために戦いは起こらなかったと聞いていた、天使にも被害は無かったはずだ。


『おとうとのぼくだよ』


『………え?』


『とうぜんだよね、じぶんのてのうちをしっているやつをねらうのは。

なかのよさにはじしんがあったんだけど……ま、そういうことだよ、天使ですら神をうらぎりにくしんをこうげきするんだ、人間なんてしんようできないよ』


そんな話をしながらも人懐っこい笑顔を貼り付けたままだ、カマエルはそんな天使に寒気を覚えた。


『きみのぶかにいっておいて、魔物使い ヘルシャフト・ルーラーをころせって。

あ、たましいはちゃんともってきてね、こっちでかこうできないかためしてみるから。

"まえ"みたいに、にがしててんせいさせたら……ちょっとしたばつをあたえるからね』


『………了解』


『うん、じゃあもういっていいよ。ほうこくありがとう、おつかれさま』


舌っ足らずの見送りを受け、カマエルは重い足取りで部下の元へ向かった。

あの少年に恩がある訳でもなければ、思い入れもない。

神に敵対感情を抱く者の排除は自分の使命であるし、疑わしきは罰せよという考え方にも賛成だ。

だが、何故だろうか。

どうにも気分が悪い。


『……命令だ。魔物使いを探して殺せ、魂は持ち帰れ。取り逃した者は磔刑だ』


短く部下に命令を伝えると、カマエルは体調が優れないからと休憩室に向かった。

部下達は何も疑わず、新しい使命に燃えた。

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